小説

『これが猫の恩返し』川瀬えいみ(『鶴の恩返し』)

 

 

 鼠捕りの罠に猫が掛かっていた。罠は、餌を食べようとした鼠が罠に触れるとバネが動いて鼠の体を捕獲する、超古典的なもの。

 こういう状況をどう言えばいいのか。『ミイラ取りがミイラになる』? むしろ『人捕る亀が人に捕られる』の方が適切だろうか。どこかから鼠捕りに掛かった猫を嘲る鼠の声が聞こえてきそうだと、ヒロムは思った。

「ドジだなあ」

 長い尻尾をバネに挟まれた黒猫は、自分の尻尾に嚙みついた罠を振り払おうとして、相当暴れたのだろう。フロアに置かれていたダンボール箱のいくつかは、猫(罠)によってつけられたと思しき傷で満身創痍の有り様だった。

 猫の尻尾や髭が身体のバランスを取るのに必要かつ重要な器官だということは、猫好きの母から聞いて知っていた。ヒロムは、罠を仕掛けた者としての責任を感じ、ドジな黒猫を動物病院に連れていくことにしたのである。


 ヒロムは、農業経済学を学ぶべく、この春、都会の真ん中にある大学の経済学部に進学し、生まれて初めての一人暮らしを始めたばかりの学生だった。実家は東北の大規模農家。

 入学初日からキャンパスを闊歩する都会人たちの煌びやかさに圧倒され、訛りのせいもあって、積極的に話しかけることをせずにいたら、周囲に溶け込むタイミングを逸してしまった。その結果、入学からひと月が経った今でも一人ぼっち。地元では感じたことのなかった孤独感に苛まれる日々を過ごしている。

 そんなヒロムが大学の旧校舎――別名サークル棟――に鼠捕りの罠を仕掛けることになったのは、鼠出没の噂のせいでサークル棟から学生の足が遠のいていると、都会人の新入生たちが話しているのを漏れ聞いたからだった。

 ヒロムにとって鼠は、縁切り不可能な馴染みの害獣だった。怖れなど感じようもない。それが人助けになるのなら結構なことと考え、試しに古典的な罠を仕掛けてみたのである。

 その罠に、まさか猫が掛かるとは。これは完全に想定外の事態だった。


 黒猫の尻尾は軽傷で、折れても切れてもいなかった。

 二、三日で完治すると獣医に言われ、ヒロムはほっとした。猫をどうすべきかをヒロムが考え始めたのは、猫を抱えて自宅に戻ってからだった。

 猫は好きである。大好きといっていい。都会の一人暮らしの寂しさを紛らすこともできるだろうし、許されるなら飼いたい。とはいえ、ヒロムが暮らすアパートはペット不可物件。隠れて飼うわけにはいかない。

 少々ドジな黒猫は途轍もなく綺麗な雄猫で、黒い首輪に黒い鈴という、洒落のめした恰好をしていた。彼がファッショナブルな都会人の飼い猫であることは明白である。

 切なくてならないが、どうすべきなのかはわかりきっていた。考えるまでもなかった。

 翌日、黒猫に出会ったキャンパスにまで彼を運び、「飼い主のところに帰りな。これからは、もう少し注意深く生きるんだぞ」という別れの言葉を投げて、ヒロムは彼を放してやったのである。


 ヒロムのアパートの部屋を若い男が訪ねてきたのは、それから数日後の夜更けのことだった。

 現代日本では滅多に見掛けないほど艶やかな黒髪。ヒロムは自然にドジな黒猫の毛並みを思い出したのである。

「クロ……?」

 彼は頷いて、先日の手当ての礼をしにきたと、ヒロムに告げた。

「猫の恩返しというやつです。鶴じゃないので機織りはできないけど」

 我儘気儘な猫らしい口調で恩返しと言われ、最初にヒロムの胸中に浮かんできた言葉は、『今、何時だと思ってるんだ!』だった。

 だが、すぐに、この時刻の来訪は致し方ないのかもしれない――と思い直す。なにしろ猫は夜行性動物なのだ。

 それはともかく、鶴女房、蛇女房、狐女房等の例を挙げるまでもなく、こういう場合、恩返しにやってくるのは一般的に家事に長けた美女と相場が決まっている。男に押しかけられても困るのだ。

「恩返しなんていらない。動物病院に連れていったのは、加害者としての責任を果たしただけだ」

「借りを作ったままでいるのが気持ち悪いんだ」

 その気持ち悪さはわからないでもないが、ここは日本昔話の世界ではない。時代も違う。家事は自分でできるし、金にも困っていない。押しかけ亭主など、ヒロムには迷惑なだけの代物だった。

「どうしても恩返しがしたいのなら、その感謝の気持ちを他に向けてくれないか。保護猫ボランティアの手伝いをするとかさ」

 ヒロムの提案を訊いて、クロはきょとんとした(らしかった)。数秒の間を置いて、「欲がないなあ」という言葉と笑い声が聞こえてくる。

 ヒロムの身長は一六五センチ。人間に化けたクロの身長はヒロムより二十センチは高い。クロの表情も声も言葉も、ヒロムには、自分の頭上を通り過ぎていく風のようなものだった。

「じゃ、そういうことで」

 ヒロムが閉めようとしたドアを、クロが前足でがっしりと掴む。思いがけない力強さに、ヒロムは一抹の恐怖を覚えた。ヒロムの中に生じた化け猫への恐怖を、クロが鳴き声じみた声で打ち消してくる。

「追い返さないで。方向音痴で、この家を探すのに苦労したんだ。電車ももうないし」

 猫のくせに電車で来たのか! すっかり人擦れしている猫に腹を立てながら、ヒロムは気付いていた。一人暮らしを始めて以来、ほとんど声を発していなかったせいで枯れて鈍っていた喉が、クロとの会話で滑らかになっていることに。人との話し方を忘れていなかったという安心感が、ほんの少し、ヒロムの心を安らがせた。

 人は、完全に孤独でいるより、相手が少々気に入らない者であっても、誰かと一緒にいる方が嬉しい生き物であるらしい。

 仕方がないので、ヒロムは今夜だけクロを部屋に泊めてやることにしたのである。

 もともと猫を飼いたい気持ちはあったのだ。一日だけ願いが叶ったと思えば、これは決して不快な状況ではない。

 明るいところで見ると、黒猫が化けた男は、背が高いだけでなく、その顔立ちも外国のファッション誌に載っているモデルのように端正だった。元の姿が稀に見る美猫なのだから、それも当然のことなのかもしれない。軽率な印象を抱かせない漆黒の髪の後ろに、寝癖のようにピンと撥ねた一房があって、これが尻尾の怪我の名残りかと思うと、微笑ましくもあった。


 次の日、なぜかクロは人間の姿のままでヒロムの通う大学までついてきた。

 最初にクロと出会った場所は大学のサークル棟。クロの飼い主は大学構内にいるのかもしれない。そんなことを考えながら、ヒロムはクロと並んで校門を通り過ぎたのである。

 キャンパスに入ると、学生たちの視線が面白いほど一斉に二人に集まってきた。学生たちの視線が美猫のクロに注がれるのは当然だろうが、その後、ヒロムの上に移ってきたそれが、哀れむような異議を唱えるようなものに変わることに、ヒロムは軽い苛立ちを覚えた。それらの目は、揃って『なぜ彼の隣りにこれ?』と疑念の色をたたえていたのだ。

 『見るな!』と、ヒロムは叫んでしまいそうになったのである。鶴の恩返しの例を挙げるまでもなく、『見るな』と言われれば、一層見たくなるものだろうと考え、ヒロムは懸命に沈黙を守ったが。


 問題は、それが再会の翌日だけでは済まなかったこと。クロは押しかけ亭主として、ヒロムの部屋に転がり込むことまではしなかったが、構内で毎日ヒロムにつきまとい始めたのだ。

 当然、ヒロムは、学内中の学生たち――特に女子からの眼差しに、ちくちくと痛めつけられることになる。彼女等の眼差しに、嫉妬や羨望の色が混じっていることに気付き、ヒロムは怖気を震った。

 どうやらクロは、以前から人間に化けて大学構内をふらついていたらしい。ヒロムとクロを見詰める学生たちの多くがクロの存在を知っていた。クロは学内の有名人だったのだ。友人が一人もできないうちに敵ばかりが増えていく状況は、ヒロムを泣きたい気持ちにした。


 ある日、珍しくクロがヒロムの側にいない時、男女四人のグループがヒロムに近づいてきた。

「経済学部経営学科一年の野乃原ヒロムさん?」

 彼等はヒロムの名を既に知っていた。

「人嫌いのオーラがぷんぷんだったから近寄らずにいたんだけど、そうでもないのね」

 きょとんとしているヒロムに、都会人たちが人懐こい煌びやかな笑顔を向けてくる。

「サークル棟に鼠捕りの罠を仕掛けるなんて、発想がユニークだよね」

「クロが興味持つだけある」

 人嫌いのオーラとは何だろう?

 自分はダサくて貧相な田舎者として、学内の学生たちに見下されているのだと思っていたが、そうではなかったのだろうか。ヒロムは胸中で首をかしげた。

「クロって、あの見た目だけに惹かれて近寄ってくる女子が多いんだ。男子も、クロと一緒にいるだけで、何かの恩恵に与れそうだと考えるんだろうね。そういう奴が多いから、クロは友人作りに慎重でさ。クロが積極的に友好関係を築こうとするのは、そういう狡猾さのない面白い人間なんだ。なので、僕等はクロが好意を抱いた君に興味がある」

「はあ……」

 美形猫には美形なりの苦労があるらしい。ヒロムは胸中密かに吐息した。

 それはさておき。

「で……あなた方はどちら様ですか」

「クロの友だちだよ。私はシロ」

「私はタマ」

「僕はミケ」

「俺はブチ」

 彼等の名を聞いた瞬間、ヒロムは、かなり本気で、自分の目玉がどこかに飛んでいくような感覚に襲われたのである。彼等は、クロ同様、人間に化けた猫――要するに化け猫たちだったのだ。

 そして、その時から、ヒロムは化け猫たちに懐かれてキャンパスライフを送ることになってしまったのである。

 意識せずにヒロムが放っていた人嫌いオーラはかなり強烈なものだったらしい。ヒロムが一人でなくなると、同じクラスの(人間の)学生たちも少しずつヒロムに話しかけてきてくれるようになった。


 夏休みに入る頃には、入学直後の孤独と不安はヒロムの中から完全に消え去り、ヒロムは虚心にクロに感謝できるようになっていた。

「クロ。ありがとう。なんていえばいいのかな。『君のおかげで、自分の卑屈な刺々しさに気付くことができた』かな。おかげで友だちもできた。恩返しはこれで十分だよ」

「は?」

「君、首輪をしてたよね。ちゃんとした飼い主がいるんだろ? あんまり飼い主以外の人間にべったりしてると、飼い主が焼きもちを焼くよ」

 高身長の美猫は、不思議そうな目をして、ヒロムを見下ろした。それから真顔で言う。

「何か誤解してるようだね。僕はヒロムに助けてもらった猫じゃなく、その飼い主だよ?」

「え?」

 クロはいったい何を言っているのだろう。猫だと思ったから、一人暮らしの部屋での宿泊も許したのに。

「猫じゃないーっ!?」

 ヒロムがその場で泡を吹いて倒れなかったのは、一つの奇跡だったかもしれない。


 猫のクロ改め人間の黒沢マコトは、春の連休前のある日、噂の鼠退治に役立つかと考えて、サークル棟に一匹の猫を連れていった。翌日構内で再会した愛猫の尻尾に怪我と治療のあとを発見。大学近くの動物病院を数軒訪ねて、ヒロムの名と連絡先を手に入れたのだという。

 彼の仲間のシロ、タマ、ミケ、ブチは、高校時代のクラスメイトと予備校仲間で、白埼、玉川、三ヶ田、田淵という名の歴とした人間だった。

「私は、これでも未婚の! 妙齢の! 女だぞ! よくもその部屋に堂々と上がり込んで……!」

 なぜか自分で言うのが気恥ずかしい。そして、無性に腹が立つ。

 どちらかといえば男子寄りの名前。スカート嫌い。髪はショートカット。ガリガリの痩せっぽち。しかし、脱がなくてもわかる程度の胸はあるはずなのに。

 激昂するヒロムに悪びれた様子も見せず、クロは浅く顎を引いた。

「そういう誤解をしてたのか。危機感も貞操観念もない、頭も心も股も緩い人間なのかと思っていたら」

 ヒロムの悪鬼のごとき形相を、人間のクロは我儘で気まぐれな猫らしく華麗に無視した。

「嘘ですよ。大学構内に鼠捕りの罠なんていうユニークな発想、クロの怪我への責任感、あげく、猫の恩返しを真に受ける冗談みたいな純真さ。何もかもが僕のタイプだ。彼氏が駄目なら、お友だちから始めましょう」

「ふざけるな!」

「僕をお友だちにすれば、クロと遊び放題という特典がついてきます。猫、好きなんでしょ?」

 随分と知恵のまわる猫もどきである。

「クロは元気なの?」

「はい」

 人間のクロがにっと笑う。そのしたり顔を、いっそ引っ掻いてやろうかと、ヒロムはかなり本気で思ったのである。

 猫好きの人間に、それはできない相談というものだったが。