小説

『龍宮より見上げた空』柊遼生(『浦島太郎』)

 

 

 烏賊(いか)が余興に墨をぷいぃとはき、宙に龍を描きだす。虹色の輝く玉を手にした黒龍が、一同の頭上をうねうねと舞った。おおぉ、感嘆の声と吐息とがここまで聞こえてくる。琴の音色の中、烏賊が(とお)(かいな)を淑女のようにひらめかせ上機嫌で退出するのが、揺らめく明かりのなかに遠くみえた。


ーー毎夜毎夜、にぎやかなことよ。

リュウグウノツカイは、その銀色に輝く長い体をゆったりと横たえながら、ふわりと微笑んだ。宴に面した引き戸をしめるよう、側に仕える海老に目配せをした。海老は腰をまげたままするりと戸をしめ、そのまま後じさり、おやすみなさいませというように身を伏せた。


松葉の蟹が奏でる琴の涼やかな響きが、引き戸をとおしてかすかに聞こえた。

リュウグウノツカイはくるりと体をひるがえし、宴に背を向けた。


ーーいったい、いつになったら。

リュウグウノツカイはひとりごちた。

ーーあぁ、一体いつになったら私は日輪様とお会いできるのか。聞くにそのお姿は黒龍のあの虹の玉よりはるかに強く輝くというではないか。

 リュウグウノツカイは、ふぅぅと長く嘆息して首をふり、幾度繰り返したかわからぬ問いを抱きかかえたまま、眠りに落ちていった。



 リュウグウノツカイには、お役目があった。

岡が()(ぶる)いする際に、必ず全なる神からここ龍宮にお達しが届く。その報を抱えて岡にゆき、そこに住まう生きとしいけるものに申し伝えるのが、リュウグウノツカイ一族のお役目だった。


ーー私は待っている。私のお役目がくることを。その折には、あぁ、たった一度きりであろうとも、日輪様の光をこの身すべてに浴びるのだ。

 漆黒の海の底で永く永く生きたリュウグウノツカイの、それは小さな小さな願いであった。もうすでに八百と八十と八の年がすぎた。先代のリュウグウノツカイは五百の年と十日で、その前は千年の時を待ったという。

 お達しは必然であり、お役目を頂くものはただ淡々とその役目を果たし今につないできた。いつ来るやもしれぬ知らせを、ただただ受けとり伝えるために。


 リュウグウノツカイは、さて、幸せであった。

美しくきらびやかな城も、日々催される宴や楽器の会も、城の外ですれ違う年老いた鯨との静かなふれあいも、リュウグウノツカイの心を幸せで満たすに十分なものばかりであった。

 されども、リュウグウノツカイはまだ見ぬ日輪に心奪われたまま、いつか訪れるその日を静かに待ち続けるのであった。


 今夜もことさら賑やかに宴が張られ、広い城中は喧騒に満ちていた。

リュウグウノツカイは、(うみ)(ほたる)の青白い光が照らす廊下を深紅の長いひれをふうわりふうわりと揺らめかせながら、一人渡っていた。長く薄暗い廊下の向こうから、ふらふらと揺れながら歩みくる影に気づき、リュウグウノツカイは目をこらした。

――ウラシマか?

リュウグウノツカイは、千鳥足の男に問いかけた。

「あぁ、リュウグウノツカイ様。浦島でございますよ」

男は弾んだ声で答えた。ほのかに酒の香りが漂った。

――随分と機嫌がよいようじゃな。

「そりゃあ、もう楽しゅうて楽しゅうて」

と、男は朗らかにこたえ、酒に赤らんだ額を片手でぺちんとうった。

ーーふ……。

屈託のない笑みをうかべる男に、興を覚えた。

リュウグウノツカイはふと思いつき、再度男に問いかけた。

ーーおぬしの心には、誰がおる?おぬしの心をぬくめる者を教えてはくれまいか?

「は……?」

男はそういうとドタリと廊下に尻もちをつき、片手を頬杖にして思案した。

「う……ん。まずはよめごじゃ。して、ととさまにかかさま。よめごはもうすぐ赤子をうむ」

指折り数える男の思いおこした家族の魂が、男の心にぽん、ぽんとシャボンのごとく浮かび上がる。一つ、強く輝く小さな魂は、もう生みおとされた赤子のものかーー。

輝く魂のシャボンたちは虹色に光りながら互いに手を取り合い、やがて一つになってくるくるとまわり始めた。幾つもの楽し気な笑い声が響く。それはいつしかきゅぅと小さくまとまると、まわりながら薄桃色の蓮のつぼみへと姿を変えた。つぼみはみるみるうちにふくらみを増し、やがてにこにこと座る男を包んだまま、柔らかな花びらを大きく大きく開かせた。きらきらと輝く金粉があたり一面に舞いおりて、うす暗い廊下にふりつもり、すぅ、と消えた。


 男の想念はリュウグウノツカイにそのまま伝わった。なんとも幸せな温かみを

 ふくふくと放っている。

ーーほほぅ、人とはかように幸せか。

小首をかしげた男の横をリュウグウノツカイはゆぅらりとすり抜けた。見上げた海は遠く暗く、月を映すその海面は漆黒の闇のはるか上。しかし、リュウグウノツカイは、今感じた魂たちが岡で仲よく笑いあう様子を思い描き、ふふと微笑んだ。

ーー会ってみたいものよのう……

二人の立ち去った廊下で、(うみ)(ほたる)が静かに明滅していた。



 その時がきた。それは突然やってきて、屋敷中を震撼させた。リュウグウノツカイの部屋へ知らせの者が急ぎ走る。

 狼魚おおかみうおが、眉間に深いしわを刻んだまま、きらびやかな珊瑚の大広間で天を仰ぎ待っていた。やがて、リュウグウノツカイがすらりと大広間へ入ってきた。

 狼魚は居ずまいを正したのち、真っすぐにリュウグウノツカイをみつめて、おもむろに口を開いた。

「お役目にございます」 狼魚は、しかし目を伏せ、苦し気に続けた。

「なにとぞ、ご支度を」

大広間の時が、かちりと止まったかのようだった。誰もが息をのみリュウグウノツカイをみつめている。

「承知した」

リュウグウノツカイは短く答えた。胸が早鐘(はやがね)のようになっている。

ーーあぁ、とうとう……待ちに待ったこの時が。

リュウグウノツカイは溢れくる喜びに、その白銀色に輝く長い体をふるふると震わせていた。

 そこへ、乙姫がついと進み出た。

リュウグウノツカイの前に三方(さんぽう)を据え、静かに両手をついた。

「こたびの()(ぶる)い、まことに激しきものとなりましょう。さすれば客人浦島の岡の一族とて難はまぬがれませぬ。どうかこれをお持ちになり、荒ぶる山の火の口へ投じてくださいませ」

乙姫は艶やかな黒髪が流れるままに、そのこうべを深々と下げ、震える声でそう言った。みると三方の真っ白な布の上で虹色に輝くものがある。リュウグウノツカイは、深紅のひれを三方に伸ばし、虹色の光のかたまりをしっかりと包みこんだ。

「確かに受けとった」

それは龍落子(たつのおとしご)を形どり、その表面の虹色は生きているかのごとく、ゆらゆらと揺らめいている。

「確かに」

リュウグウノツカイはそう呟くと、顔を上げてすっくと立ちあがり、背をまっすぐにして皆に一礼した。

「さらば。皆に感謝する」


 リュウグウノツカイは、ぐいと上をむき水を切って進んだ。

上に向かって泳ぐなど、一族の禁忌とされかつて試したこともない。ただ一度のお役目のときを除いて。


 どれほど長い闇を泳ぎ続けただろう。真っ暗な闇の遠いむこうに薄淡い光の世界がかすかに見えはじめた。リュウグウノツカイはひたすらに泳ぎつづけた。やがて、うっすらとまわりが明るくなってくる。うすい光が、くねるリュウグウノツカイの銀の体にぶつかって、きらきらと砕け散った。

ーー日輪の……かけら。

その途端、泳ぐリュウグウノツカイの体に稲妻がはしり、新しい力がむくむくとわいた。体中に喜びがあふれ、リュウグウノツカイは自らも白銀のきらめきを放ちながら、上へ上へと登っていった。


 なにかがその顔を打った。リュウグウノツカイは突如きらめく光の中に躍り出た。海面だ。見上げた空に燦燦とかがやく日輪をみつけ、リュウグウノツカイは大粒の涙をぼろぼろとこぼした。

ーーあぁ、まぶしい……

リュウグウノツカイは、天を仰いだままで涙を流し続けた。凝り固まった思いが優しい日の光にとかされてゆく。

ーーなんとあたたかい……

おちる涙をそのままに、リュウグウノツカイは日輪に向かい呟いた。

ーーさぁ、行かねば。岡の子らにはもう時がない。

その時、影がさぁっと水面を走った。見上げると、(とび)が上空をくるりくるりと舞っている。リュウグウノツカイは、深紅のひれで結わえてきた龍落子(たつのおとしご)を鳶に向かって差し出した。鳶は心得たとばかりに向きをかえ、まっしぐらにリュウグウノツカイの待つ海面にむかって下りてきた。そのまま海面すれすれをかすめ、風と共に舞い上がる。鋭いかぎ爪のついた足に虹色の光がしっかりと掴まれているのをみてとり、リュウグウノツカイは安堵した。

ーーまかせたぞ

リュウグウノツカイは遠くみえる岡へと向きをかえ、深紅のひれをなびかせて進みだした。


 ほうぼうの生きものに知らせまわったリュウグウノツカイは力尽き、波打ち際にちぎれた海藻のように浮いていた。波にゆれるたび濡れた砂が体をこする。美しい白銀の体はところどころはげ、赤い血が滲んだ。

 リュウグウノツカイに気づいた村人が、浜の奥の家並みに向かって何かを叫んでいる。わらわらと人が集まり、指差し騒ぎあう。

山へ。リュウグウノツカイは叫びたかったが、今、その頭ひとつ動かす力も残っていない。

 一人の(わらべ)がぱしゃぱしゃと波を踏んで近づき、リュウグウノツカイの真紅のひれに手を伸ばした。その幼い手が触れた途端、童の想念がリュウグウノツカイに流れこんできた。

ーーおまえ、わたしのととさまを知らない? 何年も前に、海の使いの背に乗って行ってしまったときいてるの。


リュウグウノツカイは、はっと意識を取り戻した。

今、その問いに答えるいとまはない。童、堪忍。

リュウグウノツカイは最後の力をふりしぼり、ひれを通じて童に意識を送り込んだ。途端、童はすっくと立ち上がり、その幼い手で後ろの山をキッと指差し叫びをあげた。

「山へゆけ!浜から去るのだ!」

ごごご……と低い地鳴りが響いてきた。人々ははっとして、立ちすくんだ。

童の後ろに立っていた女が童を横抱きにかっさらい、一散に山手へ駆け出した。皆もあっと気づいてそれに続く。その時はるかにそびえる山が突如大きな火の口を開け、噴火が始まった。大地を裂かんとする大きな()(ぶる)いがそれに続き、この地を真下からつきあげた。



 (とび)は一心に飛んでいた。

まっしぐらに進む山の頂き付近から、今、赤くたぎるマグマが天へ吐き出されるのを見た。鳶は足に持った龍落子(たつのおとしご)をぎゅうぅと強く掴み直し、持てる力をふりしぼり、やがて荒ぶる山の頂きにさしかかる。熱いつぶてが下から矢のように鳶に襲いかかってくる。かまわず鳶は火の口の真上へ向かってまっすぐに飛び、その荒れ狂う大穴へ光る龍落子を投げ入れ、飛び去った。


 龍落子(    たつのおとしご)はまっすぐに火の口へ落ちていく。落ちながら虹色の輝きは目を覆うばかりにまばゆく強くなっていく。赤いマグマに触れた瞬間、虹の光が大きく弾け、中から四柱の龍が躍りでた。

 真っ赤な龍は一度天にのぼり、向きをかえると突き刺さるように火の口へ飛びこんだ。金色に輝く龍は地割れの進む大地へともぐり、銀色の龍は茶色の土砂が流れこむ谷川へ踊りこんだ。ひときわ大きな虹色の龍は、まっすぐに海を目ざした。そして今や寄せんとする山のような大津波に、光り輝くその身を投じ、波を木っ端みじんに打ち砕いた。虹の光があたり一面に飛び散った。


 リュウグウノツカイは目の端に虹の龍が過ぎるのをとらえ、続く虹の光のきらめきを感じた。

——間に……おうたか……

リュウグウノツカイの体を、静かな波が包み始めた。

——さて、もうひとつ……


 童は裏山のほこらのそばで、かかさまに抱かれていた。じじさまもばばさまも一緒だ。大きな地震いはなぜか一度きりで、そのあと大地が嗚咽をもらすかのような、小さな揺れが、時折り地面を震わせた。その夜、みなは体を寄せあい眠った。


 童は夢をみた。

ととさまとかかさまが抱き合い喜んでいる。ばばさまもじじさまも泣き笑いしている。それから皆は色とりどりの魚が舞い踊る宴を心ゆくまで楽しんだ。童はととさまの膝にすわり、小さな頭をととさまの胸にあずけて眠った。

 朝日がさして目がさめた。そばでかかさま達が夢をみたと涙ながらに話している。童は小さく微笑み、また夢の世界へと戻っていった。


 そのすべてを見届けたリュウグウノツカイは、あふれる日輪の光とともに波うち際で穏やかに揺れていた。龍宮の琴の音が、海の底から遠く響いてくる。

(了)