小説

『vanilla』酒瀬隼人(『浦島太郎』)

 

 

 亀を助けた浦島太郎は竜宮城で玉手箱を貰って最後にはシワシワのおじいさんになってしまった。じゃあ、玉手箱なんかなければ?


 秋の学校は文化祭の準備でガヤガヤせわしい。うちのクラスも例外ではなく、展示物の制作で騒々しかった。長時間椅子に座るせいで背中が丸まる。大きく伸びをするとバキバキっと体の中から音がした。教室の窓に目をやると、イチョウ並木が鮮やかな黄色に染まっている。それを背景に笑顔で携帯電話を向けている人々。きっと写真を撮っているのだろう。

 写真は苦手だ。撮ったその刹那が楽しければ楽しいほど、写真を見返して虚しくなるから。

商社勤務の親の都合で物心ついた時には海外に居た。日本に戻っても転校の日々。今は寮のある高校に入学し、転校のない平穏な生活を送っている(両親は相変わらず世界中を飛び回っているが)

 対照的に寮で同室のナミは写真に夢中だ。撮るのも撮られるのも好きで仕方ないらしい。私からしたら鬱陶しいくらい。

 ナミはいわゆる典型的なギャルだ。服装検査で毎回引っかかる常習犯。肩まである金髪、膝小僧が余裕で見えるスカート丈。教師に目を付けられるのが面倒な私とは大違いだった。

「カオリ、手伝おうか」

 アユコがポンっとカオリの肩に手を置いた。アユコもカオリと性格は違うが、寮組という環境のせいか気兼ねなく話せる間柄だ。そこがカオリにとって今までの学校とは違った。

 さて、写真大好き女子高生ナミにとって文化祭の撮影係は天職なのだろう。係決めの際に真っ先に志願していた。「授業もそれくらい気合いを入れてくれ」と、教師から小言をくらうほど。その時のナミの目がキラッキラに輝いていたのを覚えている。思わず笑ってしまったから。

 本日もずっと真剣な表情で、教室内外で作業をしている同級生や買い出しの生徒にも目を配ってデジカメを構えていた。けど、撮影だけに専念されても困る。

「ナミー!写真ばっか撮ってないでこっちの作業も手伝ってよ」

「あ!ごめんごめん」

ナミがてへっと笑った。舌を出すふざけた仕草を見ても怒る気にならないのは私が甘いのだろうか。悪びれた様子のないナミは手に持っていたカメラを大切そうにケースに入れて、アユコの隣に座る。アユコは器用にカッターを動かして亀の飾りを作っている。ナミは絵の具を準備し始めた。

「本当に写真撮るの好きだよね。携帯でもよく撮ってるし」

「うん!だって後で写真見返すと、こんなことあったなーってその時を思い出して楽しくなるじゃん」

「そう?逆に寂しくならない?その楽しかった時間は二度と戻らないんだよ」

――しまった。そう思った時にはもう遅い。真剣に返事をしてしまう私の悪いクセはこれまでの学校でも会話の空気を壊す常習犯だった(気をつけていたのに……)

そんな私を見て、絵の具をパレットに足していたナミの手が止まった。胸がどくんどくんと鳴る(嫌われたくない)

「なるほどー!」

ポンっと、瞳を丸くして手を打つナミ。100均のつけまつ毛のせいでフクロウのように大きな目。

「だからカオリはいつも写真イヤがるんだねぇ」

なるほどなるほど〜と繰り返しながら、手元に視線を戻して何事もなかったように作業を再開していた。ナミなりに私の普段の行動に思うところがあったらしい。気にかけてくれていた事実が少し嬉しくて口元が緩む。これがナミに甘い理由のひとつかもしれない。

 カオリが胸を撫で下ろしている様子を見て、アユコは微笑んでいた。周りと一線を置いているように感じていたのは、寂しい気持ちがつらくて予防線を張っていただけらしい。理由が分かってアユコは更に微笑みを強くした。


「わ!夕陽めっちゃ綺麗!」

 誰かの声が聞こえた。三人同時に顔をあげると窓の向こうが橙色に染め上げられている。太陽が地上に落ちていく。円の美しさに目を奪われた。

「ちょーキレイだねぇ」

「うん……」

じんわりと目に染みる。感慨深く眺めているとカシャッと音がした。振り返ると夕陽をバックに私とアユコをナミが撮影していた。私はナミがニコニコしている様子を見てため息をつく。

「まーた撮ってる。夕陽なんていつでも撮れるじゃん」

「今日の夕陽は今日しか見られないんだよ!それにこうやってワイワイ文化祭の準備した時のこと思い出すじゃん」

「まぁ確かに」

 アユコと違って私は簡単には頷けなかった。思い出のアルバムを開く頃、その楽しかった時間は手に入らないと何度も思い知らされてきたから。友人と離れ離れになった寂しい気持ちを私に与えるだけ。

 この茜色の太陽はとても美しい。三人で笑い合う。私にとってときめく時間だ。でも幸せなのは今だけ。この時間には終わりが来る。この夕陽が沈むように。

――心臓がギュッとする。痛い。


「私さぁ、文化祭が来なければいいのにって思ってる」

 イベント好きの彼女とは思えない発言に驚くと、ナミは微笑んだ。心を読まれたようでドキッとする。金髪を夕陽がゆらゆら茜色に染めていった。

「クラスのみんなでさ、こうやって騒ぎながらこーんなにもキレイな夕陽を見る。こんな楽しい時間なんてもうないよ?私さ、文化祭準備の時間がちょーキラキラして見える。だから終わってほしくないなーって」

「キラキラに見えるのはこの時間に終わりがあるからだよ」

そう返すと、ナミが「カオリはいっつも教科書みたいなこと言う〜」とリップが取れかけた口をあけて笑った。夕陽で気づかなかったが、その頬には黄色い絵の具もついている。指摘するとポケットから手鏡を出してゲラゲラ笑っていた。

「こういうのもさ、後で写真見ると思い出すよ」

「ナミはお馬鹿さんだなって?」

ニヤニヤしながらアユコがナミの顔を覗き込む。

「アユっち見て見て、ちょーおもろくない?」

頬をさして見せるナミだったが、今度は薬指に付着した別の色で上塗りされてしまった。

「ナミ。もう一度鏡で見てみな?今ので赤い絵の具もついちゃってるよ」

「まじ!?」  

ギャル御用達のキラキラ石でデコった手鏡は、絵の具でどんどん色づいていった。


「あ、ねぇねぇ。この文化祭用のカメラで私撮ってよ」

「――ナミ。自分の人生の汚点を学校に残すの……?」

「汚点じゃないし!絵の具だらけになるくらい頑張って文化祭の準備してますよーっていうアピール!」

「え、ちょっと、私デジカメ触るの初めてなんだけど……」

――カシャッ

私の意見なんかお構いなしだったが、シャッターを切る音は案外気持ちのいいものだった。

「さすがカオリ。キレーに撮れてる」

「もうナミの遺影これでいいんじゃない」

「アユっちそれはちょっとひどい〜」

爆笑する二人に私もつられてしまった。


 校舎から寮までは街灯が少なく星がよく見える。それでも夕陽の話で盛り上がった。

「今日の夕陽ほんとキレイだったね〜」

「そうだね」

「でも、これはあの時間は楽しかったって、後で寂しくなるやつだよ」

「まーた、国語の教科書みたいなこと言ってるぅ」

普段と変わらない私とナミのやりとりを見て、ふふふとアユコも笑う。

「ずーっと三人で一緒にいたいなぁ」

ナミが煌めく星空に向かって手を伸ばした。

――別れは必ず訪れる。今まで通りに。


 寮室のテーブルにはナミがこれまでに撮影した写真が散らばっている。アユコが1枚手に取って「あ、これ欲しい」と物色し始めた。

「アユっち、また欲しい写真あるの?」

「あ、そうだ!思い出した。ちょっと待ってて」

そう言ってアユコが部屋から出て向かった先は寮の共有冷凍庫。紙袋を取り出して部屋へ戻った。

「はい、これ」

アユコが冷たい紙袋をそのままナミに渡す。中身を覗き込んだナミの目が宝石のように煌めき、勢いよくアユコに抱きついた。一連の流れについていけない私はただ呆然とするしかなかった。

「これちょー高い亀丸印のアイスじゃん!どしたの!?」

「前にナミが撮った体育祭の写真を親に送ったじゃん。そのお礼らしい」

「えー!!やったぁ!ありがとうアユママ!

 あ、じゃあアユっちが亀なら竜宮城へ連れて行ってくれるの?玉手箱もくれる?」

「何で亀なの?」

「お礼をしにきてくれたし。アイスが亀丸印だし」

「『絶対に開けるな』っていう玉手箱が欲しいの?」

「貰える物は貰いたい!てか、何が入ってたんだっけ?おじいさんになっちゃう煙?」

「竜宮城にいた間に経過した浦島太郎の寿命って言われてるね」

私の言葉にまた教科書みたいと笑われるかと思ったが、予想に反してナミは納得した様子だった。

「竜宮城で過ぎちゃった時間かぁ。なんかタイムカプセルみたいだね。玉手箱に楽しかった過去の時間が詰まってるっていうか。だから浦島太郎は一人になって寂しくて玉手箱を開けちゃったんだね」

タイムカプセルが玉手箱という発想はなかった。ナミならではの着眼点だ。

「空き箱に写真詰めたら玉手箱みたいにならないかなぁ」

「それはもうタイムカプセルじゃない?」

「しかも開けても楽しかった時間に戻れない」

「玉手箱を開けてもキラキラ楽しかった思い出はもうない。浦島太郎は自分を知ってる人も誰もいない。切ないね」

「今をたっぷり楽しんで終わったら忘れて消えていく。私はそっちの方が良いな」

アユコも頷く。

「確かに。楽しかったからこそ、思い返す頃には色褪せて見えるかもだしね」

「……年月が経ってシワシワになった思い出って胸が痛くない?」

「カオリ……」

アユコはカオリの気持ちを察してか心配そうな表情をした。

「カオリにも一口あーげるっ!」

 人の話を聞いていたのだろうか。既にアイスを食べ始めていたナミが、冷たいスプーンをカオリの口に突っ込んだ。まだ固さの残るバニラアイスがひんやり喉を通ると、心臓が大人しくなっていく(あまい)

 ナミはそれ以上何も言わず、ただニコニコしていた。

 数日後、文化祭は特に問題なく幕を閉じた。もちろん大量の写真を残して。


 秋の路地に圧巻のイチョウ並木。教室で見てから18年が経った。ナミみたいなキラキラメイクはできないが、ヒールを履く社会人にはなれた。

 久しぶりに元寮生と会い、気がつけばコスメではなく年金の話で盛り上がった。デザートのアイスを食べていると、アユコはバッグから冊子を取り出した。

「見て見て」

高校の卒業アルバムだ。表紙が少し色褪せている。

「懐かしいー」

一緒にパラパラとページをめくっていくと、アユコは1枚の写真を指さした。桃色のネイルが細長い指を一層際立たせている。

「これ」

それは私が撮影した絵の具だらけのナミの姿だった。今見てみると平凡な構図で恥ずかしい。ポニーテールをしたボサボサの金髪、汚れまくった学校ジャージ。満面の笑顔のナミ。

「いやぁ、当時は冗談で遺影にしなとは言ったけどさ。まさか本当にそうしちゃうとは……」


 数年前、ナミは亡くなった。一番長生きしそうだったのに。

「遺言だったんでしょ?困ってたもん。ご家族が」

「まさか高校時代の写真を遺影に使うとは思わないでしょう。他にも沢山写真あっただろうし」

「まぁナミらしいけどね」

二人で苦笑しながら続けてアルバムを眺めていくと、写真嫌いな私が苦手な時間が訪れた。高校生活が脳裏によみがえる。グラウンドの向こうで揺れる金髪。

「……ねぇ、アユコ。写真見てると高校生のナミが私を呼ぶ声が聞こえてくる。――つらいよ」

厚紙に印刷されたナミを触る。温かく感じた。

「ナミは幸せだねぇ」

アユコは苺のショートケーキをフォークで淡々と切って口に運んでいた。

「浦島太郎はみんなに忘れられちゃったけど、ナミは玉手箱を開けても覚えてもらっている」

目の奥がじんわりとした。あの日の夕陽がまぶたに残っている。「ナミのスマホは写真ばかりだったね」アユコが少し話題を変えたのは私の表情に気を遣ったからだろう。

「ナミには会えないけどさ、ナミのおかげで私はカオリと美味しいケーキを食べてる。今、この時間はキラキラしてるよ」


「どう?思い出シワシワ?」

「……ううん、キラキラしてるよ」

 口に入れた冷たいバニラアイスがしょっぱい。

 風が吹く。三枚のイチョウの葉が舞い落ちていった。


(了)