夕日の差す美術室で女子学生-――黒牧緑は絵を描いていた。
黒牧がスケッチブックに描いているのは、線の細い男性のイラストで、最近流行りのアニメのキャラクターの一人だった。
黒牧は美術部の部員だが、いわゆる絵画と言うものにはあまり詳しくない。
他の部員も同様でやる気も無く殆どが幽霊部員だ。今日も実際美術室に来ているのは黒牧だけだけだった。
「誰も来ないなぁ」
鉛筆を机に置いて、黒牧はひとり呟く。
こうしておおっぴらにイラストが描けるのは良いが、一人はやはり寂しい。
ちらりと見た掛け時計の時刻は既に十九時近い。黒牧は帰る事に決め、スケッチブックと筆箱を鞄にしまうと席を立って背伸びをする。
そして、美術室の電気を落として廊下へ出た。
その時だった。
「「あ」」
黒牧の目の前には、一人の女子学生が立っていた。彼女はまさに今から美術室に入ろうとしていたようだ。
「もう帰るの?」
そう聞いてきたのは、同じく美術部員の門田香帆だった。
「あ、うん」
「そっかー」
質問に答えると、門田は特に残念がる様子もなく踵を返して帰って行った。
黒牧は去っていく彼女の背中をじっと見ていた。
「緑、お待たせー!」
突如、後ろから声を掛けられて黒牧は振り向く。
すると、向こうから友人の田崎茜が廊下を走って来た。
「茜、もう部活終わったの? 今日は早いね」
「うん、こないだコンクールが終わったばかりだからね」
そう言って田崎は手に持っていた楽器ケースをちらりと見た。田崎は吹奏楽部でフルートを担当している。吹奏楽部は美術部と比べてやる気があって、田崎もかなり練習していることを友人である黒牧はよく知っていた。
と、田崎は小声で黒牧に聞く。
「……門田さんも美術部だったの?」
田崎の視線はいつの間にか、廊下を歩く門田へと向けられていた。
「え、あ、そうみたい」
ふと田崎に聞かれて、黒牧はしどろもどろになりながらも答えた。
同じ部活なのに把握してないのかと、あまりにもお粗末な答えだが実際、黒牧が門田が美術部員なのを知ったのはつい最近なので仕方がない。
と、田崎の顔がどこか険しいのに黒牧は気付いた。
「あまり好きじゃないの? 門田さんのこと」
黒牧は田崎に聞く。
「あ、ごめんね。そんなつもりはないんだけど……」
田崎はそう言うと、バツの悪い表情を浮かべた。
そして、少しためらった末に言う。
「ねえ、あの子にはあんまり近づかない方がいいと思うよ」
こんな風に人の事を言う田崎が珍しく、黒牧は驚いた。田崎はどちらかと言うと、面倒見が良い性格だからだ。
「え、どうして?」
「私、昔、門田さんと同じ小学校だったんだ。その時から何かおかしかったんだよ」
「……それはどんな感じに?」
「よく分からないけど、いつも見えない誰かと話してて気味が悪かった。だからいつも一人でいたよ。その時から学校にもあまり来ないし、途中から来なくなったと思ったら、まさか高校で会うなんてね」
「ふーん。そうなんだ……」
田崎の言葉に黒牧は驚きつつも、どこか納得していた。
門田の雰囲気はどこか他の人は違うことは黒牧も何となく分かっていた。
「ほら、そんなこと良いからさ早く帰ろ。今日は折角早く帰れるから、ゆっくりしたいしさ」
笑顔に戻った田崎の言葉に、黒牧は「そうだね」と返し、二人は一緒に歩き出した。
階段を下りて昇降口を抜け、学校を出る。
帰りながら二人は他愛の無い会話をする。今度の試験の事や部活の事、そして昨日見たテレビ番組――話題は尽きない。
話に夢中になり、気付いた時には黒牧の家の近くまで来ていた。
「じゃ、また明日」
「うん、じゃあね」
田崎と分かれた黒牧は家の鍵を開けた。まだ家族は帰ってきておらず中はしんとしている。
黒牧は自室に戻って鞄からスケッチブックを取り出し開いた。
ページを捲ると、今まで描いてきた色々なキャラクターがいる。その中の一枚に小さく門田の似顔絵がスケッチされていた。
「門田さんと話すチャンスだったのにな……」
ため息交じりに黒牧は呟く。
最近、黒牧がよく放課後美術室に行っていたのは一人静かにイラストを描くためだけではなく、門田に会うためだった。
門田が美術室に来ることは滅多になく、今日は久々のチャンスだったのだ。
黒牧は門田の事が気になっていた。
その理由は初めて出会った時のことだ。
ある日、部活中の田崎を迎えに行く途中に偶然美術室の前を通りかかった。
そして、中を覗くと、そこにはイーゼルの前に立つ門田の姿があった。
黒牧は気付けば扉を開けていた。
「……あ、こんにちは」
ゆっくりと近寄って黒牧は門田に声を掛けた。
「……」
しかし、門田は真剣に絵を描いているのか、気付いていないのか返事もせず筆を走らせていた。
無視されて少しムッとしたが、何を描いているのかと、黒牧はキャンバスを覗き込んだ。
そして、黒牧は目を見開いた。
キャンバスに描かれていた絵は静物でも、風景画でも、人物画でもない。
カテゴリとしては抽象画に近い。様々な色の油絵具で荒々しく、キャンバスにはひだのような模様が無数に描かれている。
黒牧は何を描いているのか理解出来なかったが、どこかその絵に惹かれている自分に気付いた。
と、次の瞬間だった。
ふと門田が髪をかきあげた。黒牧は思わず息をのんだ。
何故なら門田の左耳のみみたぶの大部分が欠損していたからだ。
一瞬、見間違いだと思った。だけど、どう見てもあるべきものが無い。それは絵より衝撃的で、見てはいけないもの物を見てしまったと思った。
その時、唐突に門田が振り向いた。
「わ、びっくりした!?」
本当に気付いて無かったのか、門田は驚いた表情を見せる。
「あ、ごめんなさい。何描いてるか気になっちゃって」
気まずくなって黒牧は謝った。
だけど、門田は「ううん。いいよ」と告げると、再びキャンバスに向かった。
門田はじっと前を見て絵を無心で描き続ける。
黒牧は近くの椅子に座り、鞄からスケッチブックを取り出した。
そして、門田の真剣な横顔をスケッチブックの隅に描き始めた。
整った小顔、肩に掛かるくらいの黒髪。
これと言って特徴の無い容姿だ。こうまじまじと見ていてそれほど魅力的には感じない。だけど、この黒い髪に隠されて『あの耳』がある。
そして、黒牧がスケッチが終わると、ちょうど同じタイミングで門田もまた筆を筆洗器に放り込んだ。
「完成したの?」
「うん、一旦ね」
黒牧は絵を見る。確かに先ほどの絵からは進んでいた。色も増え、どことなく賑やかさを感じる。だけど、相変わらず何が描かれているのか分からなかった。
「変な絵だって思った?」
「ッ!?」
気付けば門田の顔が横にあって黒牧は思わず一歩引いた。
「い、いや、私にはちょっと分からないよ。美術あまり詳しくないし」
「そっかー」
黒牧の答えに何故か門田は満足げに頷いて笑った。
そして、そのまま絵具と筆をロッカーに仕舞い、キャンバスを大きな紙袋に放り込んだ。
「じゃ、お先に」
そう言うと門田は荷物を持って美術室を出て行った。
まるで嵐の様だった。いや、その嵐に近寄ったのは黒牧の方だったのだが、今や完全に黒牧は彼女に惹かれていた。
一人残された黒牧は門田が出て行った扉の方をじっと見ていた。
※ ※ ※
――放課後、今日も黒牧は美術室に向かう。
扉の窓から中を覗くと、そこには門田がいた。
黒牧は冷静を装いながら扉を開けて中に入った。
「こんにちは」
「あ、おつかれさま」
来たばかりなのか門田はロッカーの中を漁っていた。まだ絵を描いていないからか、今日は普通に挨拶を返してくれた。
「掃除?」
「ううん。置いてた画材を持って帰ろうと思って。置いていったら邪魔でしょ」
よく見るとロッカーの中はすっきりしていた。
そして、門田は事も無げに告げる。
「私、明日で学校辞めるんだ」
「へぇ」
何故か黒牧は全く驚かなかったし、残念にも思わなかった。
いつか門田はどこかに行ってしまうだろうと、以前から感じていた。
そして、これからどうするかも聞かない。
そんなに関係性はないし、聞いたところで何も変わらない。
その代わりに黒牧はこう聞く。
「門田さんは絵を描くの好き?」
「うん。好きだよ。って言うか、それくらいしか私、趣味ないし」
そう言って振り向いた門田はにこりと笑った。
「ねえ、絵を描いて交換し合わない?」
おもむろに黒牧は提案した。
「え?」
門田は初めはきょとんとしていたが、すぐに笑みを取り戻す。
「うん、いいよ。やろう」
門田はあっさりと了承すると、片付けていていた画材の一部を机に広げる。そして、美術室の隅に転がっていた小さなキャンバスボードをイーゼルに置いた。
「モチーフは何にする? あまり時間無いから細かいのは無理だけど」
「何でもいいよ。それに私はイラストだしね」
「そっか。じゃ、何でもありでいいね」
「うん」
黒牧もまた鞄からスケッチブックを取り出して椅子に座った。
鉛筆をとると、「門田さんって何かアニメとか漫画とか見る?」と聞く。
しかし、返ってくる言葉は無かった。
既に絵を描き始めていた門田は早くも集中しており、もうキャンバスしか見えていない。
黒牧はすんと鼻を鳴らすと、彼女もまた絵に向かい合うことにした。
二人は自分の世界へと入っていた。
部屋の中には筆をはしらせる音、紙をこする音、そして二人の呼吸の音しか聞こえない。長い沈黙だったが、二人は全く気にしなかった。
今はただひたすらに目の前の白い平面に色を重ねる。
どれくらいの時間が経っていたか分からない。
先にこの静寂の世界から抜け出たのは黒牧の方だった。
「ふう、出来た」
大きく息を吐いた黒牧のスケッチブックに描かれていたのは絵を描く門田だった。少し悩んだが髪の隙間から見える門田の左耳は欠けている。
今までで一番よく描けたと黒牧は満足していた。
「どう? 終わった?」
黒牧は声を掛けるも門田からは返事はない。
どんな絵を描いているか気になったが、後のお楽しみだと黒牧はスケッチブックに落書きをしていた。
それからさほど経過しない内に門田が筆を置いた。
「いいのが描けたよ」
門田は画材を片付けながら自信気に言う。
黒牧は立ち上がり以前と同じようにキャンバスボードを覗き込んだ。
描かれているのは灰色の羽衣の様なベールが宙に舞っている絵だった。これまた抽象的で何を描いているのか分からない。
「これは何を描いているのか教えてもらっていい?」
今回ばかりは黒牧は聞いた。もし聞かなければもう二度と知ることは出来ないと思ったからだ。
「私はね。音の色が分かるの」
「は?」
黒牧は耳を疑った。
「音の色って何? 何でそんな物が分かるの?」
「文字通り。音の色だよ。耳元で妖精が教えてくるの」
言っている意味が理解出来ず、黒牧は軽く眩暈がした。
やはり前に田崎の言う通り、門田は変な奴だったのだ。
しかし、何とか意識を保って再び絵の方を見る。
よく見ると筆のタッチは直線的ではなく小さく揺れて歪んでいる。
そして、灰色に見えていたが、よく見るとそれは無数の色が混ざった見たことの無い色だ。綺麗と言うより汚くも見える。
だけど、初めて彼女の絵を見た時と同じく、不思議と黒牧は惹かれていた。
「私ね、この変な力のせいで気味がられるんだ」
そう言うと、門田は髪をかきあげて欠損した左耳を見せたので黒牧はドキリとした。
「これはお母さんにやられたの」
初めにそう告げて門田は子供の頃に、音の色について話して親にも気味がられた事を説明した。そして、怒られた末に耳をちぎられたのだと。
あっけらかんと話す門田とは逆に、黒牧は背筋に冷たい物を感じた。
「だけどね。今は前よりよく音が見えるの。だから絵を描くのが楽しいよ」
そう語る門田の少し茶色味がかった黒目がじっと黒牧を見ていた。
「あ、その絵貰っていい?」
ふと門田がスケッチブックを指差したので、黒牧は金縛りが解けた。
「え、あ、うん。もちろん」
黒牧は慌ててスケッチブックのページをちぎると、先ほど描いた門田の人物絵を渡した。
「わぁ、凄い。これ、大切にするね」
そう言うと、門田は大事そうに鞄にしまい、そのまま別れの言葉も言わずに去って行った。
黒牧は一人美術室に取り残される。
まるでそこには最初から他に誰もいなかったのようだ。
恐る恐る黒牧はイーゼルに掛けられた絵に触れる。
指先に乾いていない油絵具がついたが、気にしなかった。
(了)