小説

『glitched moon』和織(『最初の苦悩』)

 

 

 水面に映った満月を見ると、自分の苦悩が終わった瞬間を、人を殺したときのことを思い出す。もちろん後悔などしていない。過去に対して使う「もし」に意味はないれけど、時間を巻き戻せたとしても、私は必ず同じことをする。他に方法が、殺さずにいてやれた方法はなかったかと、考えたことがない訳ではない。ただ何度考えてみても、あの頃の、今よりずっと無力で無知だった自分のしたことがやはり、当事者ではない私に出来る精一杯だったのだ。

 彼女が私を裁くなら、甘んじて裁かれたと思う。けれど彼女はそうしなかったし、それを、誰一人見ていなかった。まるで神がそこへ帳を下ろしたように、無意識で突発的だった私の殺人は、一瞬で人知れず成されてしまった。要は、裁かれずに生きることが私に与えられた罰だった訳だ。あれ以来、誰かを傷つけたことはないし、傷つけたいと思ったこともない。普通に生活し、命が大切だという気持ちも持っている。つまり、真っ当に生きている。だけど、この人生の中で、自分が誰かを深く愛することはないだろうという、確固たる確信がある。どうやらそういう心の部分を、あのときあの男と一緒に、用水路へ捨ててしまったらしい。そしてそれでもまだ、この人生で良かったと、そう思っている。殺していなかったとしたら、きっと今もまだ、「なぜ殺さなかったのか」という混沌に苛まれて生きていただろうから。

 あの日私は、朱美からの「もう無理かも」というメッセージを見て、いてもたってもいられず、夜中に家を飛び出した。一度だけ、朱美の住むアパートの部屋を訪れたことがあった。駅から少し離れていて、アパートの前には用水路があった。夜にここを歩くのが少し怖いと、朱美は言っていた。確かに、明るいときとは全く雰囲気が違っていた。街灯も少なく、薄闇の中で水音を聞いていると、実際よりも寒く感じるような気がした。アパートの近くまで来ると、前から男が歩いて来るのが見えた。男の足取りはふらついていた。男との距離が縮まると、物凄い酒の匂いがした。そして1メートル先で、男がスマートフォンを見た。画面の光に照らされた顔、そのそっくりな目元を目にして、全身が震えた。体の中の液体が、皮膚を破って流れ出ていくような感覚がした。

「朱美」

 男とすれ違う瞬間、私は言った。男は立ち止まり、こちらを振り返った。

「え?」

「朱美の、お父さんですか?」

「・・・朱美の友達?」男は面倒そうにあくびをし、呂律の回らない口調で続けた。「何、こんな夜中に・・・ああ、なんか、連絡、したあいつ?死ぬ、とか?ははっ・・・もういいけどねぇ、いても、いなくても・・・」

 たったそれだけの言葉で、男は娘の友人である私に対し、自分が犯していることを悪びれもせず認めてしまった。それだけのことが、私には十分な動機になった。気がついたときには、右側にあった用水路の水の中から誰かの声が聞こえた。男も私も、男が溺れてもがき始めるまで、状況が理解できなかったのだ。自分のしたことをやっと認識すると、私は男が溺れている辺りへ目をやった。暗くてもそれがわかったのは、ちょうどそこに映っていた月が、男にバシャバシャと叩かれて切れ切れに光っていたからだ。私はただ、その様子をしばらく眺めていた。だんだんと、男の声も水が跳ねる音も小さくなり、月が丸い形を取り戻し、静かになった。なぜか、流れる水音すら聞こえなくなっていた。「死んだ」、と思って息を吸うと、私の手は徐々に熱を帯び、頭の中は冷めていった。私は朱美に電話をかけた。彼女は電話に出たが、何も言わなかった。

「朱美はもう自由になれるよ」

 私は言った。

『・・・どういうこと?』 

「朱美は自分でいるのがずっと苦しかったと思うけど、私は朱美に出会って、自分が自分で良かったと思えた。だから朱美に生きててほしい」

『何言ってるの?・・・何があったの?里紗・・・」

「私の為に、生きてて」

 そう言って、私は電話を切った。朱美が生きていることを確認できたので、会わずにそのまま帰ることにした。朱美と話したのは、それが最後だ。朱美が私のしたことに気づいても、誰にも言わないということはわかっていた。私の最後のお願いを、ちゃんときいてくれることも。だからお互いもう会わない方がいいと思い、一切の連絡を絶った。朱美は生きていくだろうと思った。それで自分の目的は果たせたので、十分だった。私は朱美を誰よりも理解していた、と思っている。彼女はずっと辛い目に遭っていたけれど、弱い人間ではなかった。むしろ、強い人だ。だからこそ、あんなになるまで我慢してしまったのだ。

 朱美がそれをやっと打ち明けてくれたのは、私が男を殺す半年ほど前のことだった。私は彼女の力になりたくて、あの頃の自分なりに考え、いろいろ提案した。けれど朱美にとっては、そのどれもが今以上の地獄を産むことにしかならなかった。父親によって心も体もボロボロにされ、尊厳を削り取られ、そのときの彼女は既に、抱え込んでいるだけで精一杯で、指先すら動かすことが出来なくなっていた。あんな生き物と彼女が繋がっているなんてとても信じられないけれど、あの男はまぎれもなく、朱美の実の父親だった。実の父親が決して娘にしてはならないことを、あの男は繰り返していた。あの日も朱美は、酔った父親によって弄ばれた。それは今までと同じことだったけれど、修復なく摩耗し続ければ、何だって壊れる以外の結末を持たない。私はずっと恐れていた。何よりも恐れていた。朱美が壊れてしまう様を見るのを。 

 朱美は私の高校のクラスメイトの中学時代の友人で、高校へ入ってすぐに、そのクラスメイトの紹介で出会った。私たちは最初から馬が合い、すぐに二人で遊びに行くようになった。朱美はアトピーの跡があって恥ずかしいからと言い、夏でも長袖を着ていた。しかし出会って一年ほど経つと、私はそれが嘘ではないかと考え始めた。明確な何かがあった訳ではないけれど、なんとなく、違和感を持っていた。朱美の母親は彼女が中学の時に家を出て行き、父親と二人暮らしだということは知っていた。けれどそれ以外、彼女が家族について語ることは一切なかった。そういう環境だから何かはあるのかもしれないと思っても、やはり探るようなことははばかられた。私にとって朱美は唯一無二の友人だったので、彼女の嫌がることはなるべくしたくなかったのだ。彼女程気を使わずに安心して接することのできる友人はそれまでいなかったし、これからも現れることはないだろうと思う。朱美はとにかくやさしい子だと、私はそう感じていたけれど、彼女にとっては全てが自然な行動だった。素直だけれど勘もよくて、気が利くのに余計な言葉は口にしない、十代とは思えない大人っぽさがあった。割とすぐ文句を言うタイプの私は、彼女のそういう性格に魅了されたのだ。それが、恐れによって育まれたものだとも知らずに。

 明確な何かを得ようと意を決したのは、もしかしたら、朱美はたった独りなのではないかという考えが消えなかったからだ。彼女が独りで遠くにいるような、声を発することのできない冷たい場所にいるような、そういうビジョンが、いつもチラチラと浮かんでいた。そういう、夢を見ることさえあった。朱美が、明かり取りのような穴が開いているだけの、石造りの建物の中に一人で座っている。穴から中を覗くと、そこは暗くて、冷たい空気が漂っているのがわかる。でも私は、彼女に声をかけることができない。声をかけることのできないまま目が覚めて、酷い後悔に襲われるのだ。

 その日、朱美と二人で、前から気になっていたカフェへ行った。二時間ほどたわいのない話をし、店を出る前にトイレに入った。私は先に済ませて、洗面台の前で朱美を待っていた。他に人が入って来なかったので、チャンスだと思った。案の定、トイレから出てきた朱美は、手首まで下りている袖を捲らないまま手を洗い始めた。

「袖が濡れちゃうよ」

 そう言って私は、自然な風を装って彼女の服の袖を捲り上げた。朱美は反射的に私を突き離したが、私はちゃんと見た。彼女の腕の痣を、傷跡を。朱美は明らかに、見られたことにショックを受けていた。

「ごめん、わざと。ごめん、嫌だろうと、思ったけど・・・」

 私は言った。すると朱美は、諦めたように目を伏せ、無言で私の横を通り過ぎた。私は、彼女の後を追った。声をかけることが出来ず、でも離れることも出来ず、ただ黙って彼女の後をついて行った。朱美は電車に乗り、ある駅で降り、ついてくる私を拒絶するでもなく、しばらく歩き続けた。用水路の横で、朱美は立ち止まった。私は彼女の隣に並んだ。朱美は、泣いていた。

「・・・独りで、大丈夫な訳ない。そう思いたくなかったの。だって、誰も気づかなければ、大丈夫にしてるのが、おかしくないでしょ・・・・・だから、特に里紗には、見ようとして欲しくなかった」

 それを聞いて初めて、彼女の周りの人間は誰一人、「見ようとしない」のだと知った。傍から見て、朱美は確かに、どこかおかしかった筈。でもその違和感を無視すれば、普通に接しているだけでいい。心配したり、悪いことを想像したり、力になろうとしたり、しなくていい。会えば挨拶をして、笑い話をして、そのまま別れ、どこかで噂話をする。直接見ようとしなければ、近くにいる誰かを「気にかけない自分」を、許すことができるから。でも、そうやって自分を許し続けるのは、薄い罪悪感を重ねていくということだ。それが苦しいことでない筈がないし、自分はその苦しさを選べないと、私は思った。私にとって朱美は、気づかないフリをして過ごせるような相手ではなかったから。でも、そのときはまだ、そういう気持ちを口にしてはいけないと感じた。

「ごめんね。もう、無理やり見ようとしない」

 私がそう言うと、朱美は頷いて、涙を拭って少し笑った。今は家に誰もいないからと、朱美は私を部屋に上げてくれた。紅茶をご馳走になって、次に会う約束をして、帰った。結局その日は、痣や傷については何も話してもらえなかった。けれど、とりあえず拒絶されなかったことで、私はほっとした。そして、いつか彼女が話してくれるのを勝手に待つことと、必ず彼女の力になることを決意した。つまりその瞬間が、私の苦悩の始まりだった。