小説

『せまい村と、その円環』高乃冬(『三匹のやぎのがらがらどん』)

 

 

「こんな村、絶対出て行く」

 編込みのカーディガンを揺らすひんやりとした風。木陰から青白い空を見つめながら、クランは言った。

「でもクラン。村を出ていくのは大人になってからじゃないとだめってパパとママ言ってたよ」

 眉が下がった不安そうな表情で、ノルウェールはクランの肩を引っ張る。

「大人になんか一生なれないよ。こんなところじゃ」

 そのつぶやきは、そよ風にさえ流されてしまう。

 三方を山。もう一方を深く大きな谷。凛々しい自然に囲まれるように存在するこの村では、五十人程度の住民が穏やかに暮らしている。狩猟、農業、採取を営み、不作や不況の家があれば村人みんなで協力し助け合う。それがこの村の温かさであり、掟でもあった。

「村を出てどこに行くの?」

「もちろん街さ。橋を渡って、汽車に乗って」

 村の住宅地から少し離れた所にある谷。その谷には細く長い橋が架かっている。

 街へ行くにはその橋を渡り、それからずっと進んだところにある駅で汽車に乗るほかない。

「だめだよ。子供は橋へは近づいちゃいけないんだよ。子供は危ないから、村から離れて遊ぶなって」

「うるさいなあ」

 クランは立ち上がり、木陰を飛び出す。

「ここに居たって何も変わらない。朝起きて学校に行って帰って寝るの繰り返しさ。一生それを繰り返すんだ、村の大人たちみたいに。だから街へ行く。10歳でもできる仕事を見つけて自分の力だけで生きていく」

「おじさんとおばさん心配するよ?」

 クランは広げていた両腕をおさめ、手をポケットに入れた。

「関係ないよ。仕事が一番大事な親なんて」

 ノルウェールから、クランの表情は見えない。

「だからこの村に心残りなんかない。俺はもうすぐ出ていく」

 強く吹いた風が、彼の小さな背中を押す。しかし、木陰にいる少女の不安そうな顔が、クランの息を苦しくする。

 残しては行けない。

「ノルウェール、一緒に村を出よう。こんなところ出て、街で一緒に暮らすんだ」

「う、うん。クランと一緒に暮らす」

 およそ何も考えていないであろう返事だった。

 二人は、決行日を明後日の夜に決めた。

「あとは、橋の近くに住む『あの人』に見つからないようにしないと…」

「わたしも、あの人怖いから会いたくない」


 時計は9時を示す。両親の帰りが遅いクランの夕食はいつもこの時間だ。

「ごちそうさま」

「もう食べないの?」

「うん。もう寝る。おやすみ」

 階段を上がり、自室の灯りをつけると、大きなリュックを中心に物が散乱していた。

 空腹を感じる。

 何故だろう。これから先も父さん母さんと過ごしている自分が思いうかんでしまう。

 明後日の夜には橋を渡っているのに。街にいるはずなのに。

 どこに目をやっても、部屋中に散らかった荷物はクランの視界に入り込んでくる。たまらなくなって部屋の灯りを消した。冷たい手をこすり合わせると、指の輪郭がはっきり感じられる。指を絡ませて右手の震えと左手の震えを一つにする。

 瞬間、暗い部屋のなかでクランは、一瞬だけ光って動いたものを目の端に捉えた。息をひそめて、その方向をじっと見つめ、気づく。クランは肌寒さを忘れ窓を開けた。

 黒い空に敷き詰められた、星。

 何度も何度も数えようとしては失敗した、小さな光の塵。

 見つめるクランの目には、宇宙ができていた。

 街はどんなところだろう。どんな人がいるのだろう。

 部屋に灯りをともし、準備を再開した。


 決行日の朝。朝食を済ませて、着替える。両親の帰りは今日も遅いらしい。

学校が終われば荷物を取りに家に戻り、ノルウェールといつもの木の下に集合。人目が少なくなる、夜とも夕方ともいえるような明るさの時を見計らって決行する。

「いってきます」

 両親と別れの挨拶を済ませて家を出た。


 パンパンに膨れ上がったリュックの隣に座って、ノルウェールを待っていた。

 肌寒い。頭上で聞こえる葉っぱたちの会話を聞いていると、場違いにもほんのりとねむたくなった。

 このまま家に帰ったらどうなるのだろう。もしノルウェールが来なければ、今日も家に、何事もなかったように。

「クラン」

 お待たせと言ってノルウェールはクランの隣に腰を下ろした。

 眠気が一気に飛ぶ。

「もう少ししてから行こう。まだ人が多い」

「うん」

 やはり今日はいつもより風が冷たい。


 空が暗くなる準備をしている。

 村の居住地から離れるのにそう時間はかからない。家々の裏手に回り、影を縫うようにして進めば、簡単に抜けられる。

 ここまで来るのは多分久しぶりだ。そしていよいよ、ここからは未踏の地だ。

 鼻呼吸から口呼吸へ切り替わる。心臓が全身を揺らす。

 ついに。視界に小さく、橋と谷を望む。

 だが突然、クランは動けなくなった。

 口内に残った唾液をかき集めて飲みこむ。

 聞いたことがあるだけで見たことは無かった。だが実際に橋が見えてきた今、深く黒い谷が見えてきた今。

 自分が今何をしているのか、クランは一瞬だけ分からなくなった。

「クラン?」

 ノルウェールの声。行こう、と言って歩を進める。もうどうしても、進まなくてはならない。

 クランはたどり着いてしまった。閉鎖と隔絶のこの村から、自由になれる橋。向こう側にも同じ景色が続いているのに、今立っているこちら側とは絶対的に違う何かがある。

 だが、どうしてだろう。

 今日は本当に風が冷たくて、体が冷える。


「クラン」

 

 一瞬体が浮いた。ノルウェールの声じゃない。一番聞きたくなかった低く野太い声だ。

 数メートル後ろにその男はいた。

「クラン、こんなところで何をしている」

「トールおじいさん…」

 上背はないが筋肉の付きが良い体。鼻が大きく、目はぎょろっと大きい。

 トールは村から距離をとって、橋の近くで一人暮らしていた。村の住人が互いに協力しながら生活していくところをトールは、食材の調達、農業、薪割り、衣類の手芸まで、生きるための営みをすべて一人でこなしていた。

「そこで何してる。もうすぐ夜だ。ほら、村に戻るぞ」

 クランたちは身を寄せ合い警戒する。

 二人のすぐ後ろは谷だ。近寄るのは危険だと判断し、トールは近づかない。

「村のルールは知っているよな。子供だけで村の居住区から離れてはいけない。橋に近づくなんてもってのほかだぞ」

「うるさい!」

 急な大声に、ノルウェールは驚き体を硬直させた。

 隣に居るのが自分の知っているクランであることを確かめるように、彼の手を握る。

「…トールおじいさん。今、歳いくつ」

「うん?70だな。」

「じゃあ分からないよ。10歳の気持ちなんて」

 クランはトールを睨む。

「村の皆、ずっとこのままでいいと思ってる。ずっとこの村に居て何も知らないくせに、歳を取ったときに『幸せだったなあ』って決めつけるつもりなんだよ!」

 体から水分が失われていくのを感じる。

「どうしてみんな、それが怖くないんだよ」

 星の光がはっきりし始めていた。西方の山際だけ朱色に明るく、山の向こうが火事になっているみたいだ。

 「マーリアおばさんが病気で亡くなって、おじさん、村の人たちと関わらなくなったじゃないか。そんな独りぼっちの人に俺の気持ちは分からない!」

 不条理な弁を早口に吐く。

 その少年を見るトールの体は、熱かった。

 どうしてもクランから目が離せない。

 そうだった。こうやって村を否定して、なんでもいいから村の人間たちを攻撃して、強がっていた。生まれた環境を憎んで悲劇だと嘆いて、街へ行く理由を唱え続けるしかなかった。

 そうしないと、不安に惑わされて簡単に引き返してしまいそうで、「やっぱりやめよう」って簡単に言えてしまいそうで。

 かつて、自分はこんな顔をしていたのかと、トールは思う。

「クラン」

 ようやく開かれた口にクランは身構える。

「橋を渡って、汽車に乗って、どこへ行くんだ」

 クランは、手を握っている右手を見る。

 傍で呼吸だけしているノルウェール。いつもの自信の無さそうな顔がそこにある。

 トールに向き直ったその表情は、さっきまでの少年とは天と地の差。

 

「誰も知らない街まで行くんだ」


 マーリアがいない今、もう思い出すことは無いと思っていた。

 あの時、あの木の下で、同じ10歳だった彼女に向けた言葉。

「そうか」

 頭上では、月と星の時間が始まっていた。西側の火事も、もうすっかり鎮火したようだ。

「東部行きの汽車に乗れ。行くなら東部だ、西部は治安が良くない」

「え?」

 言葉の解釈にクランは戸惑った。

 トールは二人に近づくと膝を立ててしゃがみ、目線を合わせる。

 二人の固く握られた手、一体化してしまいそうなその塊を、トールの大きな手で包む。

「いいかクラン。ノルウェールの手、絶対に放すなよ」

 トールは強い視線をクランに送る。

クランはトールの大きな目を怖がらずに見つめ返す。

見つめ返すことが、今のクランにはできる。

「うん」

「ノルウェールは怖くないかい?」

 ノルウェールには目を細め、穏やかな顔を見せる。

「う、うん。クランと一緒だから」

「じゃあ、クランの手を放しちゃいけないよ」

 トールは立ち上がる。やはりそこには確かな身長の差がある。その差だけは、今のクランには埋められない。

「早く行け、村の奴らが探しに来るぞ。こういう時の団結は得意だろうからな」

 「…うん」

 二人はトールに背を向け、橋と向かい合う。

 不安だ。だって初めてだから。

 いけない事をやって、見た事もない場所へいくのだから。「街へ行く」という夢は、クランに優しくはしてくれない。けれど、それは敵じゃない。

 クランは星を見上げる。この村で見る最後の星。

「行こう。ノルウェール」

 二人は勢いよく駆け出し、橋を渡った。

 暗闇の中で、その姿が消えるのに時間はかからなかった。それでもトールはその大きな目で、いつまでも橋の向こうを眺めていた。

 背中から騒がしい大勢の声と足音が聞こえる。

 やはりこういうところは昔から変わらない、この村の「せまさ」だとトールは思う。

「おお!トールさん聞いてくれ!クランとノルウェールがいなくなっちまった!今、村人総出で探しているんだが、まさか橋を渡ったりしてねぇよな!あんた、なんか見てねぇか!」

 けれど、たった二人のためにここまで「せまく」なれる。

 トールは見上げた。


「ねえ、ちゃんと見てる?」

「見てるさ。星の数を数えてた」

 テラスに二つ椅子を並べ、星を見る。いつも通りの二人の過ごし方。

「子供の時と変わらないね。この星空は」

「そうだな」

「いつもあの木に集まって見てたよね」

「ああ」

 もう何回目かわからない会話。

「あの木の下で、あなたが『一緒に村を出よう』って言ってくれたね」

「もういいよその話は。50年以上も前の話だろ」

 マーリアは、ふふっと、息をもらしながら笑う。その笑い方が、トールは好きだった。

「お互い10歳だったけれど、あれ、今思えばプロポーズよね」

 彼女の顔がこちらを向く。トールは夜の暗がりに少しだけ感謝した。

「うれしかったな。子供の頃は、ずっと村で過ごすことを考えると、怖かったから」

「結局、3日で戻ってきたけどな」

 そうそうと、マーリアは笑いながら、トールの肩をたたく。皺が似合い始めたような手だ。

「でもトール。私の手、絶対放さなかったよね」

 トールは星を見続けている。今日も数えきれないかもしれないと思う。

「橋を渡るときも。街で大人に騙されて痛めつけられたときも。村に帰ってきて、私のお父さんに何回も殴られたときも」

「よく結婚許してもらったよ、本当」

 そうねとまた笑う。

「あの頃の私たちには、不安が必要だったのよ。きっと」

 とっさにマーリアの顔を見る。だが既に彼女の顔は、星空を向いていた。

 マーリアの瞳には無数の星が映し出されていて、宇宙ができているみたいだと思ってしまう。

「あ。ながれぼし」

 トールは、宇宙から目が離せない。昔からずっと。

「ねえ。今は村から離れて、橋の近くに住んでるけど、もし私が先にさよならしたらトールは、村の近くに引っ越して」

 トールの視線が夜空から落ちてしまう。

「合わせる顔がない。村を捨てたような奴に、近くで暮らしてほしくないだろ」

「50年以上前の話でしょ。もう年下の人たちばかり、憶えていない人たちばかりよ」

 それに、と彼女は付け加える。

「知ってるでしょ。この村はとっても『せまい』のよ」

 二人の視線が初めて合う。笑いあい、また、星を見上げた。


 その後すぐに、マーリアと見られなくなった星空。もう二度と見ないと思っていた星空。

 その星空から目が離せないまま、トールは村人に言った。

「さあな。橋には来てない」

 その瞳には、宇宙ができていた。