小説

『三千円世界』柿ノ木コジロー(『さんまいのおふだ』)

 

 

 たまに思う。人生の最後の最後に、誰もがなにかを支払って、受け取り、それを繰り返して結局のところ、収支プラマイゼロで人生を終えるのではないか、と。



 三軒目のスナックで会ったのは、とにかく人をそらさない、面白い女だった。

 決して若くはなく、そこまで美人というわけでもなく、スタイルも印象に残らなかったのだが、とにかく、飽きない女だったのだ。

 何となく話が合って、「続きはウチで飲む?」のことばに俺はホイホイとついていった。

 女には連れがいた。そいつは運転手ということでまったく酒っ気はない。どちらかと言えば土色の顔にやせ型で陰気な感じだった。足を引きずりながら、車を取ってくる、と外に出て行った。


 かなり走ったと思う、辺りはしんと静まり返り、人家がある様子がない、曇りというわけではなかったと思うが、星ひとつ見えなかったので高い木立の合間をずんずんと進んだのだろう。

 やがて、ぽつりと玄関灯の灯る一軒家に車はすっ、と止まった。

 女がひとりでしゃべくって笑うそんな中、雰囲気で愛想笑いをしながら家の中に入り、そのうちに暖房もついたらしく、とりあえずビールで乾杯! となった。連れの男もようやく少しだけ缶に口をつけているのが横目にみえた。

 リビングの片隅に古い婦人用自転車が変な台座に据え置かれているのが気になって聞いてみると、「すてるの勿体ないし、健康器具代わりよ~」女がガハハと笑う。

 はい、と手渡された500ミリの缶の飲み口が、少しばかり砂っぽくざらついて、ようやく俺はほんの少し、我に返っていた。

 ここはどこだ?

 女が「ちょっと、つまみ出してくるから、それから、とっときの酒もね~」

 上機嫌に引っ込んでいったと同時に、脇で気だるげにソファに座っていた男が、ゆっくりとこちらを向いた。

「アンタ」この声もざらついていた。

「な、なんでしょうか」可笑しなもので、女にはタメ口だったが、この男にはつい丁寧語になった。彼は上目遣いに缶ビールの缶を傾けながら言った。

「やばいとこ、来たの分かってるか」

「やばい?」

 男の白目はすっかり青黒くひかっている。

「あんた、さっきのスナックでタブレットにサインしたろ?」

「あ、ああ、ひとつばかり……」

 女は保険員をやってたらしく、俺が家の火災保険が高くて、と愚痴った時にすかさずアドバイスをくれたのだった。

 話に乗って、俺は女の勧める保険を契約した。

「いや、あんた、3つサインしてたよ」

「……でしたっけ」

「最後のやつ、死亡保険だよ、受取人があの女でさ」

 石油ファンヒーターのぬくもりが一瞬に引いた。

「うそだ」声が震えたのは、寒さのせいではなかっただろう。

「俺は車の運転ができるから、アイツに雇われてる、でもな」

 男の痩せた顔が寄って思わず下がる。

「気をつけた方がいい、お前がひとりめじゃないそれに、前に俺の脚を折ったのもアイツだ。赤い瓶に入った酒を飲むな、もう酔ったフリしていったん寝るんだ、一時間したら裏から逃げろ、いいな」

 男は俺にたたんだ紙切れを押し付けた。よく見ると、千円札が三枚。

「今、俺が自由になる金はそれで全部だ、いいか、命が惜しかったら」

 その時、男が飛び上がるようにソファに戻った。女の声が響く。

「干物炙ってきたよー、それと、この焼酎が年代モンなんだ、ぜひ」

 女が下げる赤い瓶を見るなり、俺はテーブルにうつ伏せに倒れ込んだ。

「……も、もうのめない、もうねるろぉ」

 女が笑って「健ちゃん、案外弱いんだ~」言いながら近寄った気配があった。俺は身を固くした、が、

「ショウちゃん、健ちゃん寝かせてやって、奥のあそこ、布団一応敷いてあるから」

 その声で、いったん記憶を失った。


 しゃーこ、しゃーこ……絶えず何かをこするような音が意識に割り込んで、俺は目覚めた。時腕時計を見ると、夜中の11時過ぎだった。

 ふすまのわずかな隙間から漏れる光に、そっと目を当てて向こうをうかがった。

 こちらに尻を向けて、中古自転車をこいでいるのはあの女、とぎれとぎれの声がする。息が上がりながらも口調は冷静だった。

「まだ寝かせて……明け方に……いつもみたいに裏の雑木林に、独り者だし住所も持ち家だし近所付き合いも……新聞取ってないし車の免許も失効(笑)……しばらくはアシが……」

 音を立てぬように置き上がり、リビングの反対側の襖をそっと開ける。すぐに廊下がのびていて、男が先ほどあごで指した方向に、裏口がみえた。内側から鍵は掛かってないようだ。

 俺は、たたきにあった古いサンダルにそっと足を通し、ドアがきしまないようにゆっくりと両手で開けて、外に出た。

 そして走った。とにかく、もと来たと思われる方向に。


 小高い針葉樹林の合間に続く一本道は、やがてかなり急な登り坂になっていた。俺は息を切らして駆け上る。道から少し入ったあたりに民家も少しはあるようだが、どこも真っ暗だ。

 すぐに気づいた。ポーチを忘れてきた、札入れにはわずかな金しかなかったが、全財産はあの中だ、クレジットカードも自宅に置きっぱなしだし免許証も元々持ってないから良いのだが、携帯電話も置いて来てしまっていた。

 ポロシャツの胸ポケットに手を当てる。さっき男が押し付けた三千円が折りたたまれて入っていた。これだけしか持ち出せていない。

 しんとした中、しゃーこ、しゃーこと聞きなれたおぞましい音が近づいて来た。

 自転車の音だ、俺はようやくついた坂の上で身を固くした。

 待てー、というどすのきいた声がしたような気がして、おろおろと辺りを見渡す。

 乏しい街頭に照らされたすぐ道の脇に、小さな無人販売の屋台を見つけた。この中に隠れようか、いや入れない、見ると台の上には真夜中にも関わらずまだ商品が並べられていた。

「りんご 1袋 300円」暗がりでも、袋ひとつにりんごが5個ずつくらい入っているのが判った、かなり安い……いや、感心している場合ではない。夕方商品を回収するのを忘れてしまったのか、急病か何かで取りに来れなかったのか一瞬考えたが、自転車の音が迫っているのに気づいて俺は飛び上がった。

「いたなぁぁ」

 坂の下で、女が舌なめずりしたのを感じた。自転車のライトがいっしゅん暗くなってからすぐに燃えるように輝き、彼女は立ち上がるようにして坂をこぎ上がってきた。

 考える暇はない、俺は胸ポケットから千円出して鉄缶の料金箱に押し込み、残っていたリンゴの袋を取り上げ、すぐに袋を破り、次、また次……3袋、合計15個のリンゴを道にばらまいた。勿体ないオバケに心の中で謝りながら。

 不規則な軌跡と軽快な跳ねを見せながら赤い球体が坂を次々と転がり落ちる、そして女の自転車はリンゴの襲来をよけ切ることができなかった。

 けたたましい悲鳴とブレーキ音、そして派手な衝撃音が左の藪から響く。壊滅的な音が次々と続き、やがて、静かになった。

 俺はまた、走り出した。しかし、まだ安心はできないという不安が胸をしめつけていた。

 

 酔い覚めだというのにずいぶんと走っただろう、全身汗まみれになって、よろめきながら立ち止まった時には閑静な商店街までたどり着いていた。そして、まっすぐ続く道路の先には白いかまぼこ型の建物……JRの駅だ。つんのめりながら駆けて行く。

 交番がないかあたりを急いで見回すが、見当たらない。とにかく逃げるしかなさそうだった。

 駅の名を見て安堵のため息をつく。自宅から40キロは離れていたが、名前だけは知る駅だった。よかった、これで残りの金で行けるだけ遠くまで切符を買ってとりあえずここから離れて……

 しん、と静まり返った構内を覗いて泣きそうになった。終電はとっくに終わっていた。自動券売機は動いていたが、助け舟、いや助け電車がないのだ。

 いや……右手側路地からロータリーに車のライトがゆっくりと近づいてきた、車体は黄色く、行灯とフロントには『空車』の表示。俺は迷わず駆け寄った。

 ドアの開いたタクシーに、『大川方面、できるだけ離れた所……2千円までで』

 そう転がり込んだ。

 タクシーはかすかに振り返ったが目の前に出した札二枚で納得したのか、元々詮索好きではないのか、すぐにドアを閉めて発車した。前方の名札には『小林旭』と書かれ、よくありそうな名前だな、と少しだけ思った。しかしその時かすかにしゃーか、とこすれる音がした気がして、俺は恐々振り返る。はるか後方にライトがひとつ、脈動を繰り返しこちらに向かっている。

 早く! の怯え声に何か察したらしく、タクシーはいっしゅん、ぐん、と前に出た。

「……大川渡ります?」

「行ければ頼む」

「近道なら」

 タクシーは静まり返った工業団地の中を滑るように進んでいった。だが、突如

「すみません」

 橋に差し掛かったところで、タクシーは停車した。指さす方を見ると橋の入り口は、

『緊急工事 通行止』とでかでかと書かれた看板でふさがれていた。

「舗装をはがしてますねえ。どうします、川ぞいを、北に行けるとこまで行きます? 次の橋まではちょっと……」

 メーターを見る、1220とあった。「ここで降りる、ありがとう」

「おつりを」

「いいんだ、釣りは」耳を澄ますが、音は何もしなかった。

 この橋、徒歩なら渡れるかもしれない、川の向こうなら少しは地理に明るい……。

「いや、」急に運転手が真顔でこちらを向いた。

「橋が通れなかったのを知らなかったのは、私のせいですから」

 どこまでも乗せていくと言うのか? つかの間でも喜んだのは虫が良すぎた。彼が言った。

「千円で結構です」


 小さな橋は緊急工事、というよりも建造中と言った方が良かった。橋の中ほどではほとんど舗装がはがれていて、鉄鋼の組み合わせに鉄板が何枚か敷き重ねてあるような危うさだ。

橋げたも半分以上取られている。このところの雨で増水したのか、足元の隙間からどす黒い流れが渦となって見え、俺はみぞおちがすっ、と冷たくなった。

 急に風が強くなった、と同時に、冷たい雨がぽつ、ぽつと顔に、手足に当たりあっという間に本降りとなった。稲妻が景色をモノクロに引き裂いた。いっしゅん、身をかがめたが雷鳴が聞こえなかったので先を急ぐ。

 逆に良かったかも、と俺は濡れて滑るサンダルの足先に力を入れてゆっくりと進む。これならば、女は追うのをあきらめるだろう。

 と、急激に近づく擦過音。俺は身を固くして屈みこんだ。

 あの音だ。くるった自転車が、信じられないスピードで迫りくるあの音。

 しゃーかしゃーかしゃーしゃーしゃー

 そして「みぃつけたあぁぁっ!!」

 甲高い女の声が風雨を切り裂く。

 脈動するライトが、橋の向こうにいた。そして、ためらうことなくこちらに向かってくる。

 次の稲妻が縁取ったのは、崩れそうな自転車にまたがった女と、その喜色に満ちた顔だった。

 髪が乱れ擦り傷やら血やらリンゴの滓やらで悪鬼さながらだ、しかも、笑っている。

「けけけけけけけ」女がサドルから飛び上がる、とたんに自転車は霧散した。

「金づる、逃がさないよぉぉぉっっっ!!」

 弧を描いて俺に迫る女に、思わずはいつくばり、それでも両手で頭をかばいながら俺は叫ぶ。

「頼む! 命だけは! もうこれしかないんだ、たのむ、これで帰ってくれ!!」

 残った千円札をまだ握っていたのだ。俺は片手で頭をかばいながら、もう片手で必死で女に札を差し出す。

「頼む、これで、これで」

 突風が俺の手にあった札を吹き飛ばした。そして、札は女の両眼を覆い隠すようにぴたりと張り付いた。

「眼が!!」女は両手を振り回し、顔に張り付いたものを取ろうとよろめいた、その瞬間、激しい横風に煽られて……

 俺の目の前で、女は橋げたから濁流渦巻く川の中に転落した。


 女が浮かび上がるのを待っていたわけではないが、しばらく俺は、川面から目が離せず、その場にうずくまっていた。

 やがて雨が上がり、辺りがほんのりと明けかかってきた頃、ようやく俺は、強張った身体を起こし、よろめきながら立ち上がった。


 女はついに、ふたたび姿を現すことはなかった。


 橋を渡り終えたあたりの道端、足元をふと見ると、丸く光るものが落ちている。

 拾い上げたら、それは百円玉だった。

「ああ」

 急になんとなく納得が行って俺はよろめきながら、それを胸ポケットに収め、また、歩き始めた。


 シンちゃん、だったか、いつか3000円返しに行かないと。そして、運転手の小林旭さんにも、超過分を必ず。落ち着いたら、きっと。

 でもこの百円玉は、貰っておいてもかまわないはずだ……

 たぶん、リンゴ代のおつりなのだろう。