小説

『after revenge』葵一樹(『七ひきの子ヤギ』)

 

 

 深夜のことだ。村外れの井戸のあたりに、荒い息遣いが響いていた。ぐっしょり濡れた体を井戸の石組みにもたれかけ、狼は今にも大声で叫んでやりたいのを必死にこらえていた。

 叫んで暴れるには体力が限界だった。腹に詰められた石を吐き出し、深い井戸の底から這い上ってくるまでに、無尽蔵ともいわれる狼のスタミナは消耗しきっていたのだ。

 狼は地面に爪を立てて抉った。留守番の子ヤギどもを好き放題に食い散らかし、あの家を後にしたはずだった。すべてうまくいっていた。どこで間違った? いくら考えても全く分からない。しかし、確かに食ったはずの子ヤギたちは腹の中で残らず石に姿を変え、自分はおぼれて死にかけた。

 あの母親ヤギが何かしたのは明らかだった。ちくちくと腹が痛むので毛をかき分ければ、そこには記憶にない手術の縫合跡がある。そして真新しい傷口を間隔もまばらで適当に縫い留めているのは、どう見ても皮膚に直接刺すにはそぐわない木綿の太い糸である。

 高慢ちきな母親ヤギの高笑いが耳に突き刺さるような錯覚に陥り、狼は頭をかきむしった。気が狂うほどの屈辱に、彼の喉からは声にならない何かがほとばしる。

 ――たかだか一次消費者の分際で。

 地面に突っ伏して唇をかむ狼の目の奥には、復讐の炎が燃え滾っていた。


 その日、森に住む七ひきの子ヤギはお母さんヤギと一緒に家の模様替えをしていた。狼に襲われてめちゃめちゃになった家具や食器を昨日のうちに街で買いそろえたので、今日はそれを好きなように並べてよい日なのだ。

 七ひきはみんなうれしくて、飛び跳ねるようにお気に入りのクッションやコップを並べ始めた。お母さんヤギは誰一人欠けることのない子どもたちを見て、幸せをかみしめていた。

 お日様がずいぶんと上まで昇りお昼ごはんの時間が近づいてくると、お母さんヤギは子ヤギたちを集めて言った。

「おかあさん、お昼ごはんを探してくるわ。あなたたちはまだお部屋のお片付けが終わっていないし、少しお留守番をしていてくれる?」

「わかったよ、おかあさん」

「家の鍵はちゃんと閉めておくのよ。悪い狼はこの間やっつけたけど、世の中にはほかにもいろいろ危険なこともありますからね」

「はーい、行ってらっしゃい、おかあさん」

 子どもたちのいいお返事を聞いて、お母さんヤギは安心して森へお昼ごはんを探しに行くことにしたのだった。ヤギのお昼ごはんとは、つまり草である。お母さんヤギは、子どもたちが食べやすい柔らかい草の芽を摘んでこようとスキップをしながら出かけて行った。

 しかし、その様子をこっそりと物陰で見ている者がいた。

 黒く大きな体躯、ぎらりと光る眼、てらてらと唾液が絡む牙。そう、あの狼だった。

 あれからずっとこうしてこの家を見張り続け、虎視眈々と次の機会を狙っていたのだ。

 家の中からは子ヤギたちの仲の良い声が漏れ聞こえた。花柄のクッションの所有権をじゃんけんで決めていたり、飛行機の柄のついたコップがお揃いだと笑ってみたり。

 狼はくくっと笑いを漏らした。

 もうすぐまた食われるとも知らず、暢気なものだ。今度は一匹残らず食い尽くしてやる――そう心に誓いながら、狼はドンキで買った羊の蹄柄ソックスを履き、耳を伏せてコスプレ用白髪ウイッグを被った。首の後ろにはこの前侵入したときにヤギの母親の鏡台で見かけたのと同じ香水を吹きかける。そして最後にヘリウム入りのボイスチェンジャーを一気に吸い込み、ヤギの家の前に立ったのだ。


 ――トントントン


 ノックの音が響いた途端、それまで跳ねまわっていた子ヤギたちの間に緊張が走った。

 さっとイチタロウとニキータが玄関に駆け寄る。小声で「誰ですか?」と尋ねると、ドアを叩いた相手は「お母さんですよ、開けて頂戴」と優し気な声で応対した。

 薄気味悪いほどの高音ボイスに子ヤギたちの表情はますます硬くなる。そうっとドアの隙間から足をみればお母さんのような蹄が見えるし、上のほうは白い頭だ。

 一番小さなナナミが「おかあさん」とドアに駆け寄ろうとした。

しかしだ。ナナミはドアの近くでひくひくと鼻を動かして立ち止まった。ドアの先から漂ってくるにおいが、やけに濃厚な花の香だったのだ。イチタロウとニキータはお互いに顔を見合わせて頷きあう。

 ――今日の香水と違うにおい!

 実はお母さんヤギはとてもおしゃれさんで、森でも有名なお洒落番長として名を馳せている地方誌の読者モデルだった。近所の奥さんたちのファッションリーダーでもある彼女は、その日の気分や季節によって香水をいくつか付け替えるほどの香水好きである。

 今日はお日様が気持ちいいピクニック気分だといって「しあわせ」という柑橘系の香水をつけていたのだ。

 イチタロウが室内に向かっていくつかハンドサインを出す。それを見た子ヤギたちは、お互いに頷きあって室内の方々へと散った。そして――。


 ドアをノックして相当な時間が経った。子ヤギが誰ですかと聞けば、これまでにないほどの優しい口調でお母さんですよと答えたというのに、一向にドアが開く気配がない。

 狼はもう一度ドアをノックした。あまり時間が経つとボイスチェンジャーの効果が切れてしまうし、なにより母親ヤギが帰ってきてしまう。

 いっそ母親ごと食ってやろうかとも思ったが、大人のヤギは意外と脚力もあり戦闘力は侮れない。渾身の前蹴りを喰らったら顎が砕けた、なんていう仲間の話も聞いたことがある。子ヤギを残らず食ったところを見せつけ、絶望に打ちひしがれて弱ったところを食うのが良い。

 母親ヤギの絶望を想像し、狼はのどを鳴らすように笑った。それでも口から出る音は「ふふふ」となるから、このボイスチェンジャーは相当使えるシロモノだ。

 再三ノックをしたが中からは「待ってー」という声しか反応がない。子ヤギたちが鍵の取り扱いにまごついているのか、ドア越しでしきりにかちゃかちゃいう音だけがする。

 次第に狼は焦れ始めた。鼻先をくすぐる子ヤギのうまそうなニオイがたまらなく食欲を刺激する。前に食ったときは丸飲みにしてやったので歯ごたえや味は分からないが、この分なら相当美味いに違いない。

 ちょっと開いた口元から、つつっとよだれが垂れる。慌ててぬぐうが、とめどなくあふれ出るよだれがますます食欲を刺激した。そろそろ我慢の限界だ。

 すると。

「いいよ、おかあさん。あけてー」

 何も知らない哀れな一次消費者の子どもたちが、三次消費者の頂点を招き入れる声がした。


「いいよ、おかあさん。あけてー」

 満を持してイチタロウは扉の向こうへ声をかけた。次の瞬間、扉の向こうではノブを握ったらしい狼の断末魔の叫び声が上がった。

 にやりと笑みを浮かべ小さくガッツポーズをしたイチタロウは、窓際にスタンバイするニキータとサンタに片手でハンドサインを送る。

 そのもう片方の手に持っているのはガスバーナー。ごうごうと音をたてて燃え盛るそれはドアノブをじっくり色が変わるまで熱していたのだった。銅製のノブはさぞかしいい温度になっているはずで、それを握った狼の手はどうなっていることやら。イチタロウは次の持ち場へと移動しながら肩をすくめた。

 家の外で響く騒がしい叫び声が落ち着くと、今度はすごい剣幕で狼が怒鳴り始めたらしい。しかしボイスチェンジャーのせいでちょっと面白い感じになっていて、ニキータとサンタはくすくす笑いながら窓の両脇でロープを握っていた。

 するとすぐに窓の外に大きな黒い影が現れた。

 作戦通り――、二人は目配せをしあって握ったロープから手を離した。力任せにガラスを破り窓をこじ開けて体をねじ込んだ狼の真上に、がらがらと音とたてて大量の空き缶を落としたのだ。

 狼の頭上に見事にヒットし、ニキータがガッツポーズをして奥へ逃げると、サンタは夜店で買った爆竹に火をつけて空き缶の上に放り投げる。サンタのガッツポーズとともに弾けるけたたましい炸裂音と煙に包まれた狼は、じたばたしながら窓枠から飛び降りた。

 降りた先にはシータが敷いたビー玉トラップ。煙で目をやられた狼は、足元を確認することもできないのだろう。もんどりうって倒れたところにゴンが水入りのバケツをひっくり返してかぶせてやった。

「お前優しいなぁ」

「そうでもないよ?」

 だってあれ塩水だもん、と自慢げに胸をそらすゴンに、よくやったとシータがサムズアップを送る。それを横目にロックが台所から持ち出したナイフや包丁のかごを狼に向かって放り投げた。

 各種の傷に超絶しみる塩水をぶっかけられ、悶絶する狼の鼻先にそれらの刃物が突き刺さった。本人に刺さらなかったのは、ほぼ奇跡といっていい。三匹はお互いの健闘を称えあい奥の部屋へと走って行った。

 そして、突如目の前に落ちてきた刃物に身を竦ませた狼の目の前にナナミが立ちはだかった。

 息も絶え絶えであろう狼だが、それでも威勢よく唇の端を吊り上げて大きな牙を見せつけてくる。体の大きな狼がひと蹴りすればすぐ届く距離にいる恐怖に竦みそうになりながら、ナナミは叫んだ。

「とんでひにいる、なつのむしだ!」

 狼は激昂した。耳元まで裂けた口を大きく開けてナナミに飛び掛からんと立ち上がる。その瞬間だ。

 ふわりと赤いものが狼の前に降り立った。それは一人の少女だった。真っ赤なフードを目深にかぶり、手には細身のライフル。深紅のミニスカと縞々タイツ、ゴシックロリータスタイルのその人は目を見開いた狼に向かって鈍く光る銃口を突き付けた。

「へい、ベイビー。にぎやかなパーティーランチは楽しんでもらえたか? アフタースイーツがまだあるぜ。極上の鉛玉だ。尻の穴と鼻の孔、どっちを増やしてほしい?」

 凛とした声が狼を射抜く。か弱いヤギを食ってやろうと侵入した狼は、この時になってようやく自分が罠にかかった獲物だと理解したのだろう。ガタガタと震え始め、腰が抜けた状態であとずさりをした。

 とどめだ。

「ごら! あんたって子はヒトさまんちで何悪さしてんだ! 早く帰って家の仕事手伝いな!」

 イチタロウが、ここ数日練習していたデスボイスで狼の母親の声音をまねて怒鳴った。すると顔色を失った狼はびくっと飛び起きて、きょろきょろあたりを見渡したかと思うと一目散に窓から外へと飛び出していったのだ。

 狼の後姿を見送りながら、「やっぱり、どこのうちもお母さんに怒られるってこわいんだなー」とのほほんとしたゴンがつぶやき七ひきは頷きあった。

「でも、狼追い払ったよ!」

「やったね!」

 子ヤギたちは口々に喜び、手をつないでくるくるとその場で踊りだす。ランチを一緒に食べようと電話で呼び出された赤ずきんも一緒になって踊った。


――勇敢な子ヤギたちのおかげで森に平和が訪れた。リベンジにも失敗した狼はその後、他の肉食獣たちに白い目で見られひっそりと姿を消したという。


 しかしこの後、子ヤギたちと赤ずきんは勇者と呼ばれたかと言えばそうではなかった。

 子ヤギたちは玄関を開けてはいけないという約束を破り、おまけにせっかく買った家具をダメにしたため、帰ってきたお母さんにこっぴどく叱られたのだった。