小説

『泥を塗る』青田雪生(『天岩戸神話』)

 

 

 ついに堪忍袋の緒がブツンと切れ、元凶である上司の頭に労働基準法のパンフレットを叩きつけたらクビになった。正確には「頭が冷えるまで出社するな!」と怒鳴りつけられたから、用意していた退職届を追加で叩きつけて辞めてやったのだ。月平均百五十時間越えのサービス残業は、人間の凶暴性をいちじるしく上昇させるらしい。

 未練はちっともなかったので、そのまま「水野」のネームプレートを引きはがして退社し、出社の要請を蹴り続けてめでたく無職となった。元同僚からの連絡によれば、俺は社内で「民衆を導く自由の女神」のごとく祭りあげられ、水野に続け、労働者の尊厳を取り戻せ、と課内の何人かが同時に退職したらしい。あの泥船に革命を起こせたのなら願ったり叶ったりだ。

 昔は立派な帆船に見えていた。どうにかしてあの船に乗りたい、そのためなら友人だって蹴落とすし、歯の浮くような美辞麗句で自分を飾り立てることもいとわない。そうやって面接を何戦も勝ち抜いて、必死で乗り込んだ船だった。これは絶対に泥船じゃない、きっといつか美しい帆を張って走るのだ、とほこりだらけの憧れだけを杖にしてふんばってきたけれど、その日々すら今となっては疎ましい。重ねた努力も、なめた辛酸も、すべては水泡に帰したのだ。

 残ったのは行き場をなくした猛烈な怒りだけだった。社員がどれだけ辞めたところで、厚顔無恥なあの上司はのうのうとのさばり続けるに違いない。もっと硬いもので殴打しておくべきだったと何度も思った。一人で夜道を歩くのが怖くなるまで傷めつけ、自慢の愛車を燃やしておくべきだった。この国が法治国家でさえなければそうしていたはずだ。

 約五年にわたる我慢がたたり、退職してしばらくたっても頭にのぼった血がなかなか下りてこない。極度の怒りはささやかな欲求をぬりつぶしてしまうのか、腹も空かなければ深く眠ることもできず、体重はみるみるうちに減った。

 いつしか季節の変わり目にさしかかり、名残のセミの音が日に日に消えていく。そのいっぽうで頭はいっそう燃えるばかりだ。皮脂でべたついたふとんにくるまり、上司への呪詛をぶつぶつと唱えながら、わずかに寝てすぐ起きる。繰り返していると、まもなく微々たる退職金が振り込まれた。会社は会社、金は金だ、と思い込もうとしてみたが、銀行口座があの会社に汚染されたような気がしてどうにも気持ちが悪い。パーッと使ってしまおうと思って、すぐさま二週間後の飛行機の席を予約した。行き先は、なんとなく目についた沖縄県宮古島市の宮古空港。直行便。予約サイトを眺めながら、たった三時間で着くのだと知って拍子抜けする。地図で見ればゴマ粒のような離島には、何日もかけなければ行けないものだと思っていた。

 宮古島。エメラルドブルーの美しい海。雪の砂浜。壮大な伊良部大橋。検索すると断片的な情報だけが眼球をつるつるとすべり、頭が痛んでそのままうとうとと眠った。

 なんで宮古島にしたんだ? 目的があるわけでも、海が好きなわけでもないのに。

 ハッと我に返ったのは、旅の予定すら忘れかけていた搭乗前日だった。長年の長時間労働は、人間の記憶力と判断力をもいちじるしく低下させるようだ。旅への意欲などないに等しかったが、この期におよんでキャンセルの手続きをするのも面倒くさい。

 翌朝、仕事用のビジネスバッグに適当な着替えを詰め、ナメクジが這うように家を出た。空港でメールの履歴をさかのぼってみたところ、島の南側にある旅館を七泊ぶん予約していることがわかった。二週間前の自分にもなけなしの理性はあったらしい。

 飛行機に乗り込み、座席に深く腰かけて目を閉じる。気を抜くと薄暗い記憶がよみがえる。俺だけ挨拶を無視された。完成間際の起案書から俺の名前が消された。ミスするたびに舌打ちされた。どれもたいしたことじゃない。傷は浅い。野太い声が俺を呼ぶ。水野、水野! こぶしを握って怒鳴り返す。黙れ!

 脳内で上司の幻影を殴りつけた。こぶしから伝わる幻の痛みが腹部を走る。朝からなにも食べていない。なにか腹に入れるべきだとはわかっていたが、食欲はやはり一向にわかなかった。機内の閉塞感に吐き気がこみあげる。歯を食いしばり、なんとか眠ろうとしているうちに目的地についた。


 宮古空港は想像していたよりも閑散としていた。九月の、それも平日の離島ならこんなものなのかもしれない。予約確認のメールによれば、旅館の従業員が空港まで俺を迎えにきているはずだった。

 到着ゲートから出てすぐに、「水野様」と書かれた紙をひらひら振っている男と目が合う。俺と同じぐらいの歳だろうか。日に焼けてつやつやした肌と、ショッキングピンクのアロハシャツがまぶしい。頭には真新しい麦わら帽子をかぶっている。あの、と声をかける前に、男は大笑いしながら手を叩いた。

「あ、っはは、水野さんですかっ」

「あ、はい」

「ひっ、すみません、ふ、格好がね」

 男が俺を指さした。俺はなにを着てきたんだったか、と我が身を見下ろす。着古した五年物のTシャツとジーンズ。破れてはいないが、くたびれている。部屋着を兼ねたTシャツの胸元には「ようこそ小樽」の文字がプリントされていた。たしか大学の卒業旅行で買ったやつだ。足元は仕事用の革靴。手には合皮のビジネスバッグ。ははっ、と男がまた笑う。

「そんな格好でなにしに来たんですか。ビジネス? 観光?」

 答えに窮していると、「まあいいや」と男は俺の手からバッグを取りあげて、旅館の名前がでかでかと書かれたワゴン車まで案内した。乗り込んで、鼻歌まじりにエンジンをかけながら、後部座席の俺にシートベルトをつけるよううながす。

「俺が客だって、よくわかりましたね」

 尋ねれば、男はバックミラー越しに首をかしげた。

「こんな日に来る人なんかほとんどいませんって。うちも今日はみーんなキャンセル。水野さん、貸切ですよ。ラッキーですねえ」

「なにかあったんですか」

「天気予報、見てないんですか? 台風。明後日には上陸するっぽいですよ。ほんと、なにしに来たの?」

「……なにしに来たんですかね」

「ふ、へっ、やめてくださいよ、また笑っちゃうじゃん」

 男は肩を揺らした。もう笑っている。車がだるそうに身をよじって走り出す。

「三十分ちょいで着きますけど、コンビニとか寄ります? ヒマなんで、どっか見たいとこがあったら連れていきますよ」

 妙になれなれしい男にへらへらと話しかけられて、落ち着いていた怒りが再びぶり返しそうになる。薄っぺらい声を聞き流しながら、窓の外をぼんやりと眺めた。高い建物がなくて空が広いな、という定型文の感想だけが頭をよぎる。俺は、なんでこんなところにいるんだろう。男がハンドルを切りながら体ごと振り向く。

「水野さん、聞いてます?」

 車体がセンターラインを大きくはみだし、対向車が盛大にクラクションを鳴らした。

「ちょっ、前、前向いてください!」

「なんもないなら、俺がちょっと案内しましょっか」

「わかった、わかったから、前!」

「じゃ、行きますねー」

 あれよあれよという間に車は向きを変え、北に向かって走り始めた。


 まもなく市街地を抜け、潮風の匂いがする道をひた走り、二十分ほどでなんの変哲もない土地に着いた。あちこちに草地が広がり、ほど近くに民家が連なるだけの小さな集落だった。男は空き地に駐車し、俺をおろして「こっち」と民家の集まるほうに足を向けた。

 進むにつれて路上に人が増えていく。近くの家から赤子を抱えた夫婦が顔を出す。小学生ぐらいの子どもが道端ではしゃぐ。男女入り交じった集団がカメラを片手に右往左往する。みんななにかを探すように周囲を見まわしている。俺はやっと足を止めた男を横目で見る。

「なにかあるんですか?」

 言い終わると同時に、かすかな音が聞こえた。ずる、べちゃ。濡れた布を引きずるような音だった。べちゃ、ずる。男が来た道をパッと振り返る。

「来た」

 男の視線を追って振り向く。道の真ん中に、得体の知れない「なにか」がいた。泥が絡んだ汚いツタを全身にまとい、真っ黒な仮面で顔を隠した「なにか」が。思わず出そうになった悲鳴を飲み込んだ瞬間、それは泥だらけの太い手足を振って猛然とこちらへ駆け出した。妖怪じみた姿に甲高い悲鳴があがる。

 妖怪は逃げようとする子どもを引っ捕らえ、ほっぺたに泥をべたべたとなすりつけた。真っ赤な顔で子どもが泣き、周囲がどよめく。子どもを放した妖怪が左右にぶるんと首を振る。後ろで男が「こっち」と大声をあげて手招きした。仮面にうがたれた洞穴が俺を見る。

 身構えるまもなく、妖怪は矢のように駆け寄って俺を抱きしめ、泥だらけの手で顔中をなでまわした。ねばついた泥が鼻の穴や口に入って息ができない。体をすりよせられて、服もみるまに黒く染まる。塗られた泥からは嗅いだことのない強烈な異臭がした。

 黒い手が嵐のように俺を翻弄し、駄目押しとばかりに背中へ泥を塗りつける。やがて妖怪は威勢よく身震いし、俺を解放して意気揚々と次の標的に向けて走り出した。泥が飛び散り、観客が歓声をあげる。カメラのシャッター音が響く。となりで男があっけらかんと笑った。

「気に入られましたねえ。よかったよかった」

「……なんですか、あれ」

 呆然としながら言えば、明るい声が返ってくる。

「パーントゥ。神様ですよ」

 これね、「パーントゥ・プナハ」っていう伝統行事です。ンマリガーっていう井戸の神聖な泥を、こうやってパーントゥ……神様が塗ってまわる、っていう祭り。パーントゥに泥を塗ってもらえたら無病息災、厄除けの効果もあるんで、これから一年楽しく過ごせますよ。男が歌うように続ける。

「たまたま祭りの時期に来るなんてね。水野さん、運がいいなあ」

 男は泥だらけの俺にむかって「よかったですねえ」と繰り返した。


 そうなんだろうか。俺は、運がいいんだろうか。

 もう、なにもかも駄目になったのに。

 

 不意に腹の底から熱いものがせりあがる。それはまたたく間に目元へ達し、涙に変わって両目からだくだくとこぼれ落ちた。思わず体を折ると胃が引き絞られるように痛み、胃液が逆流して喉を焼く。痛い。口の中に唾液がたまる。苦しい。一瞬、これから履歴書に刻まれる「一身上の都合により退職」の真っ黒な文字が脳裏をよぎった。胸に開いたままの傷から血が噴き出し、罵声と嘲笑が体中を駆けめぐる。なにが、なにが自由の女神だ。鼻のつけ根が熱をもつ。視界がぐにゃりと歪み、あわてて両手で顔をおおった。見知らぬ誰かの心配そうな声があちこちから飛んでくる。

「大丈夫?」

「気分悪いの? 水飲む?」

「ちょっと待ってなさいよ、タオル取ってきてあげるから」

 腰を曲げたまま喉をつまらせていると、男が俺の汚れた背中をぽんぽんと叩いた。

「なんかよくわかんないけど、ちょっとは元気になりましたか」

 宮古島、いいところですよ。水野さんが行きたいところも、やりたいことも、ひとつぐらいは見つかりますよ、たぶん。そう言いながら、また背中を叩く。

 たぶん、ってなんだ。無責任なこと言いやがって。なにも知らないくせに。言い返そうとしたが、なにもかもが喉につかえて言葉にならない。男の手のひらは熱かった。背中を叩かれるたびに嗚咽がこみあげ、ついにしゃがみこんで子どものように泣きじゃくった。ほほの泥が涙にとけて川をつくる。また誰かが俺を心配し、大きなタオルをふわりと肩にかけてくれる。

 やわらかい感触にさそわれて顔を上げると、まだ夏の気配を残した太陽が真っ青な空に輝いていた。底抜けに明るい。まぶしい。みんな、泥だらけの顔を見合わせて笑っている。遠くで誰かが声をあげる。神が泥を塗っているのだ。


 突然、もうじき来る嵐を思わせる強風が吹き荒れ、男の麦わら帽子が宙に舞いあがる。それは伸ばした手をすり抜けて高々と飛び、立ち並ぶ家々の向こうへ消えた。

「げっ! 買ったばっかだったのに」

 男が地団駄を踏んで悔しがる。だだっ子のような仕草に思わず小さく笑うと、空っぽの腹がぐうっと鳴った。「あ、腹減りました?」と言いながら、男が俺を振り返る。

「メシ食いに行きます? うちの食堂のカレー、うまいですよ」

 胃はまだじくじくと痛んでいたが、うなずいて高い空を見上げた。降りそそぐ陽光が泣き濡れた目を射る。湿った海風が心地いい。俺は運がいいのかもしれない、と少しだけ思った。旅はまだ始まったばかりだ。



(了)