守門《すもん》のお山に、三度目の雪が降った。
これで里にもそろっと雪が降るで、と土地の者たちが予言した通り、今朝、和尚が寒さに震えながら目を覚ますと、結和寺の境内にはうっすらと白いものが積もっていた。
重く冷たい雪に閉ざされる長い冬が、いよいよ始まったのだ。
そういえば、十日前には北の大地から白鳥が飛来したし、空は分厚い雲に覆われている。
視界に入る何もかもが白一色に染まる……それがこの地域の冬だ。
そんな白ばかりの世界で、涅《くり》色の衣を纏った和尚だけが一点のシミのように黒い。
「和尚さん、火ぃ使ってくんなせぇ。そんげんとこいたら、寒ぁぶいろうね」
和尚が朝の勤行の後、一夜にして白くなった境内を、本堂の階《きざはし》に座って、魂が抜けたような顔で眺めていたら、小間使いの小僧が火鉢を勧めてきた。
「そんでもって、じっき永丘と山條の旦那方が来《こ》らっしゃるっけ、お仕度してくらっしぇえ」
小僧の言う通り、今日は享年十七歳、若くして死んだ武夫と華の二人の三回忌の法事を執り行う予定だ。
二人が生まれた永丘と山條の町は、長い間、互いを憎み合ってきた。
原因は戊辰の役にある。
明治初期に勃発したこの内乱は、大正の世になった今では、あの戦のおかげでこの国は近代化できた、と良いことのように解釈されているが、実際に戦に巻き込まれ、町を焼かれた永丘の者たちは、父祖の受けた苦しみを決して忘れていなかった。
そして敗戦の原因を作った、山條を強く憎んだ。
山條は永丘の北隣にある町で、こちらは対照的に戊辰の役で一切被害を出していない。
新政府軍が西から進撃してきた際、同盟を組んでいた周囲の町を裏切り、自分たちだけが降伏したからだ。
ただでさえ劣勢だった永丘にとっては、この裏切りが致命傷となった。
北の山條と西の新政府軍から挟撃された永丘軍は惨敗したのだ。
しかしこれを裏切りと呼ぶのは、山條にとって酷な話であろう。
山條は最初から新政府寄りだったのだ。なのに周りの町が同盟に加われ、と圧力をかけてくるから、やむを得ず従ったまで。新政府軍との戦力差は明確であったし、降伏は当然の行為だ、と山條の人々は主張する。
中には、自分たちだけが助かったことに負い目を覚えた者もいたのだが、その後、干ばつの年には永丘の者たちが川を独占して、下流の山條へ十分な水を送らなかったり、逆に大雨の時には、下流が洪水を起こすような水の流し方をしたりと、随分な嫌がらせをしたものだから、山條の者たちも臍を曲げ、交流を一切絶ってしまった。
そんな彼らにとって唯一の接点は、二つの町の境目にある結和寺である。
その名の通り、憎しみあう者たちの融和を目的としたこの寺は、戊辰の役の後、新政府から派遣されてきた県知事の発案で建立された。
永丘と山條が抱える憎しみの深さに驚いた県知事は、京の都から高僧を招き、その徳によって人々の心を解きほぐそうと考えたのだ。
知事は結和寺を二つの町の有力者らの菩提寺とし、寺が完成した折には、彼らの手で境内に桜の苗木を植えさせた。
しかし県知事も高僧も、所詮は他所者。
桜の植樹くらいで両者の距離が縮まるはずもなく、その後も三十年以上の長きに渡って仲違いが続いたのだが、二年前、武夫と華という若い恋人らが心中事件を起こしたことで、事態は一変した。
二人が生まれた町同士が抱える憎悪により結ばれず、死を選んだことについて、永丘と山條の人々は、衝撃を受けた。
過去の因縁により、若い命を失うとはなんと愚かな……二度と悲劇を繰り返さぬよう、まずは二人の法事を合同で執り行いたいと、彼らの父は結和寺の和尚に依頼した。
あぁ、なんと因果な話だろうか。
彼らを殺したのは和尚なのに……!
小僧から三回忌の法要を指摘された和尚は、直後、弾かれたように数珠を取り出した。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
二人の若者のことを思い出すたび、和尚はこうやってひたすらに念仏を唱える。
胸に広がる、仄暗い痛みをもみ消すには、もはや仏に縋るほかないのだ。
二年前の春、灌仏会の際に、武夫と華はこの結和寺で出会った。
寺の建立から二十年。二つの町の仲を取り持つことをもはや諦めていた和尚は、せめて永丘と山條の人々が新たな諍いを起こすことが無いよう、仏事を午前と午後に分けて行ったのだが、午前中に参列した永丘の華が境内に櫛を落としてしまい、乳母を伴って戻ってきたのだ。
そして武夫は父の名代としてつつがなく仏事を終えるため、一足早く山條から来ていた。
薄紅色の花びらの舞う桜の木の下で顔を合わせた二人は、どちらもひとめぼれだったらしい。
お互いに、おさまりの悪い涅色の髪の持ち主であったことも、他人のようには思えなかったようだ。
この時は華の乳母がすぐに気付いて引き剝がしたものの、この後、二人は人目を忍んで会う仲になった。
しかし憎みあった二つの町は、もちろんこの恋を許さない。
娘が山條の男なんかに惹かれていると知った華の父は、怒り狂い、秋になると強引に縁談を進めた。そして武夫の父も、稲刈りが終わると同時に嫁を探し始めた。
雪国では農閑期である冬の間に縁談をまとめ、雪が融ける頃に婚礼をあげるのが一般的だったのだ。
しかし、このままでは年が明ける頃には意に添わぬ結婚をさせられると思いつめた二人は駆け落ちを決意。
そして落ち合う場所として選んだのが、二つの町の境目に位置する結和寺であった。
あぁ、そうだ。忘れもしない。あれは守門のお山に三度目の雪が降った翌日。里に初雪が降った日のことだった。
一足早く寺に到着した華から事情を聞いた和尚は、目を丸くした。
そして駆け落ちは良くないと言葉を尽くして諌めたのだが、恋する乙女の決意は固かった。
華は武夫と契った以上、他の男と添うことはできないと主張したのだ。
「そうか……もう契ったんか」
華の告白を聞いた瞬間のことを、和尚はよく覚えている。
茫然自失し、それ以上の言葉も出なかったのに、頭の中では既に猫いらずの置き場所を鮮明に思い描いていたのだ。
華を殺す。
これ以上の過ちを重ねさせない為には、それしか手がない。
恐ろしいことに、一度殺害を決めると、和尚の口からは流暢に言葉が出てきた。
「このまま駆け落ちなんかしても、すぐに家の者らに見つかって連れ戻されるだけやろ。それより死んだふりをしたらどうや。仮死状態になる薬があるさかい、それを使こて、自殺したように見せかけたらええわ。そやな、そのためには遺言状を書いとき」
華は和尚の言葉に従い、意に添わぬ婚姻を理由に自害すると書いた。そして和尚が用意した猫いらず入りの粥を食べたのだ。
和尚は華を確実に殺めるため、粥にかんずりを添えた。この地方で古くから食されている唐辛子の漬物だ。その辛さに惑わされた彼女は、毒の味に気付くことができず、口から泡を吹いて死んだ。
その夜遅く、武夫が到着した。
彼が遅れたのは、山條に降った雪の方が深く、それも柔らかい新雪であった為に、歩き辛かったからだ。この辺りでは、わずかな距離の差でも、風向きによって、雪の量が大幅に変わる。
沈痛な面持ちで武夫を出迎えた和尚は、すぐに彼を離れに連れていき、華の遺骸を見せた。
「可哀想に。お前さんが来ぉへん間に、心細ぅなったんやろ。そいで庫裡の隅に置いとった猫いらずを、粥に混ぜて口にしてしもたらしい」
和尚は南無阿弥陀仏と唱えながら、武夫に告げた。
「若いおなごやし、一人にしておいた方がええと思ったんやけどな。それが仇になってまうとは……」
横たえられた彼女の傍らには、食べかけの粥と、かんずりの入った小瓶、それに箸がまだ置いてあった。
これが覚悟の自害であることを証明するために、和尚は全てをそのまま残していたのだ。
なんでこんげんことに……と震える武夫に、和尚は遺言書を見せた。そこには華の字で、武夫への深い愛が綴られていた。
「ここまで想うてくれた華の為にも、お前さんの手でたんと供養したり」
せめて武夫だけでも救ってやりたい。
この時、和尚は本心からそう願っていたのだ。
しかし祈りは通じなかった。
冷たくなった華の傍らに、膝から崩れるようにして座り込んだ武夫は、頬を歪めて笑った。
どうやら愛する人を失った悲しみが、武夫の心を壊してしまったらしい。
「そんげん……華がいのうなって、おらだけ長え生きるなんて、とても」
そして天を仰いだ武夫は、その直後、鍋に残っていた冷めたい粥を、一息に食べ尽くしてしまったのだった。
あの時の武夫の歪んだ笑顔を、和尚は毎朝、目にしている。
手水鉢の水面に映る己の顔が、それである。
そしてまっすぐにこちらを見つめる黒目がちな眼《まなこ》は、華のそれと瓜二つ。
それもそのはず。武夫も華も、和尚の血を分けた子なのだ。
華の母は、永丘で川運業を営む商家の若女房だった。しかし嫁して五年、一向に子宝に恵まれない。夫が他所に囲った女も孕まぬところをみるに、不妊の原因は夫の方にあると、彼女は考えた。
それなのに子を成さぬ己が責められるのは、あまりに理不尽。
だからとにかく子を産みたい、子種が欲しい、と泣きつかれたのだ。
一方、武夫の母は山條の豪農の一人娘だったが、幼い頃に負った火傷の痕が顔に残り、その醜さゆえに心を閉ざしていた。
彼女を救うのは、心に染み入る法話でも、ありがたいお経でもなく、男性が彼女に欲情するという事実だけ。
それと気付いた和尚は彼女を抱き、これによって僅かながら自信を取り戻した彼女は婿を迎え、その後、武夫を生んだ。
周囲は何も気付かなかった。
成長するほどに、二人ともが涅色の、僅かに茶色みを帯びた癖っ毛の持ち主であることが判明し、烏の濡れ羽色をした、直毛の者ばかりのこの地域においては珍しいと言われたが、剃髪した和尚が同じ髪質だとまでは、誰にも分からない。
だから秘密は秘密のままで終わるはずだった。
それがまさか、二人が恋に落ちるとは。
しかも和尚がその事実を知った時には、すでに体を重ねていようとは。
だから殺した。
姉弟で契るなど、鬼畜にも劣る所業ではないか。
あぁ、そうだ。あの時の和尚は、汚らわしい行いをした彼女を註してやれるのは、父親である自分しかいないと思い、それで手を下した。鼠を殺す毒薬を、華に食べさせた。
そして彼女の死は、武夫までも殺してしまった。
なんということだろう。
そもそも、和尚が彼らの母と通じたところから、間違いだったのかもしれない。
どれだけ求められようと、和尚はただ、拒めばよかったのだ。それは坊主として、無責任な行為ではない。
しかし和尚にはできなかった。
決して、女の色香に惑わされたわけでないことだけは、強く言っておく。
和尚はただ、不安だったのだ。
その徳を以てして、憎しみあう人々の間を取りもってほしいと乞われ、京の都からわざわざ出向いてきたのに、和尚は何もできなかった。
地元の言葉にも馴染めぬまま、ただ毎年、降り積もる白い雪に埋もれる、か弱い存在。
そんなものになるはずじゃなかった。
都から来た高僧として、皆に敬愛されるはずだった。
だからせめて彼女らと情を交わすことで、自分にもできることがあると思いたかっただけなのだ。
あぁ、なんとどす黒い感情だろう。
こんな輩に華を註する資格など無い。
もっとも非難されるべき卑しい獣は、己のことしか考えぬ自分自身ではないか。
和尚はふらふらと立ち上がると、小僧の用意した火鉢に当たることなく、そのまま、仏像の前にひれ伏した。
そして思いつく限りの経を唱える。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。仏様、どうかお助けください。
この期に及んで、救いを得ようとする己の薄汚い想いに、和尚は反吐が出そうだった。
それでも経を止めることはできない。
この白い世界にふさわしくない、涅色な己を助けてほしい。それこそが、仏というものではないか?
そんな必死の祈りをささげているところへ、武夫と華の戸籍上の父親たちがやってきた。
彼らは法要の準備のため、一足早く出向いてきたのだ。
そして本堂にて一心不乱に経を唱える和尚の姿を目にした二人は、和尚が武夫と華の傍にいながら救えなかったことを、心底悔いているのだろう、と、その気迫から感じとった。
「……さすが都の偉ぇお寺さんらなぁ」
「こんげん方からお経上げてもらったら、武夫も華も、ちっとは浮かばれんろぉ」
彼らは顔を見合わせて小声で頷きあうと、和尚への尊敬の念をますます深めるのだった。