「お前、ほんと空気読めないよな」
吐き捨てられた言葉に、いかなる感情も込み上げてこなかった。そんなこと言われなくても知っているから。俺との付き合いは、誰よりも俺が長い。嫌ってほど、全てを知り尽くしている。
金曜の夜。二十二時を過ぎても電車内は人で溢れていた。どこかゆるい雰囲気で、多少の賑やかさを許す週末の空気が流れている。
向かいの席に座る女性二人は大学生だろう。友達の悪口に饒舌だ。バイト先の先輩のことは「ガチでムカつく」そうだ。
目の前に立つ赤ら顔のサラリーマンたちは、吊り革を軸にぐるぐると揺れながら、酒を帯びた臭気を放つ。「A社の◯◯部長がどうの、□課の課長はどうの」と、さも得意げに愚弄する。くだらない。皆、本人の前では笑顔で媚びへつらうくせに。
ため息がもれた。
闇を落とす窓外には光の群れが流れる。焦点を移した窓は黒い鏡と化し、そこに映る顔は金曜の夜のものとは到底思えなかった。
そうか。さっきのため息は、己に向けたものだ。
目を閉じた。
こんな夜を何度数えただろう。次に目を開ければ、何もかも消え失せていればいい。そんなことを思う、絶望に押し潰されそうな夜を。まぶたにぐっと力を込めた。ひりひりと眼球に痛みを感じるほど強く、長く。ゆっくりと目を開けた、その先に広がる世界は……何一つとして変わっていない。大学生もサラリーマンも大きな口を開けて笑っている。きっと、次はどこかで誰かと、隣にいるあんたのことを悪く言うのだろう。アホくさい。
「ちょっと、お兄さんたち。酒臭いですよ? ニンニク食いました? 電車乗るならマナー考えましょうよ。あと、そこのお姉さんたち。もう少し声のトーン下げて。仕事帰りで疲れてる人もいるんだから。ねっ、金曜だからって浮かれてる人ばかりじゃないから。分かった?」
週末の希望に満ちた車内の空気が凍りついた。
また、やってしまった―
突き刺さるような冷たい視線。危険人物とばかりに開かれる距離。「すみません」と呟いた声を掻き消すように、次の停車駅を知らせるアナウンスが流れた。いつも使う駅の一つ手前ではあるが、座席を立ってドアの前に張り付いた。十二月の凍てた窓に額をあて、頭を冷やす。「はやくはやく……」と心で繰り返し、ドアが開くと同時に飛び出した。
ちらちらと雪が舞っていた。そうだ、世間はもうすぐクリスマスだっけ。ホワイトクリスマス……いや、どうでもいい。幸せそうな奴らの顔など見たくない。
線路に沿って続く商店街には、昔ながらの店舗が軒を連ねているが、昼間よりも一段と侘しさを感じさせる。八百屋や魚屋なんかはマシな部類で、寝具店や文具店、婦人服屋なんかは、どうやって生計を立てているのかと心配さえする。
普段はスーパーに行く時に自転車で通る程度だから、どの店にも入ったことはない。栄町商店街の名が泣くほど、昼間でも人通りが疎らで走りやすい。
今の俺にはちょうどいい。華やかな街並みは眩しすぎる。背後から吹く北風に、漫画よろしく空き缶が音を立てて転がっていく。
カランカランカランカラン……まるで命を宿し、飛び跳ねるように行き着いた先は、明かりの灯る店先だった。こんな時間に、こんな商店街で営業している店があるなんて。
『レザージャケット専門店 フェイク』
木製の扉に取り付けられたネイビーの看板に、楷書体の白い文字がスポットライトの光を浴びて浮かび上がる。その下には控えめな『OPEN』の札。両手を広げれば足りるほどの間口だ。ジャケットを売るくせに中の様子はうかがえない。さながら隠れ家的なバーに見える。
「こんな店、あったっけ」
一見の客には入りづらい。が、気付いた時には把手に手をかけ、扉を開けていた。なぜだか分からない。しかし、救われそうな妙な予感がした。
「いらっしゃいませ」
「うわっ」
思わず声が出た。扉のすぐ向こうに初老の男がいたからだ。それも占い師のように小さな机を置き、待ち構えていたかのように椅子に座っている。
「どうぞ」
柔和な笑顔を浮かべ、対面の丸椅子に腰掛けるよう促す。
「ここ、看板にレザージャケットって」
「そうですよ。どうぞ」
怪しさしかない。だが、ためらいながらも腰を下ろした。店主に何とも言い表せない人懐っこさと、忠誠心のようなものを感じた。
店の中にジャケットなど一枚も見当たらないが、店主は誇らしげに言う。
「当店は極上のレザージャケットを扱っております」
右手の親指で背後を示した。黒いカーテンで仕切られた向こう側にストックしているらしい。
「レザー専門店なのに展示してないんですか?」
「良い点にお気付きですね」
よくぞ聞いてくれたとばかりに、店主の鼻息が荒くなった。
「大きい声じゃ言えませんがね……」
顔を近付ける店主に思わず仰け反った。
「ここでは、どんな動物の毛皮も扱ってるんです。だから、ほら、表に出せないんですよ」
店主が人差し指を口に当てた。
「はぁ」
「私の着ているジャケットを見てくださいな。犬の皮ですよ。それも柴犬のね」
立ち上がり、さぁ見よとばかりにくるりと一回、二回、三回まわって……
「ワン。あ、失礼」
「い、いや、大丈夫ですよ」
確かにレザーではありそうだが、にわかに犬の皮とは信じられない。
「どのようなものをお探しですか、ご主人様」
「ご主人様?」
「あ、いや、これまた失礼」
とんでもない店に入ってしまったかもしれない。
「俺はただ、こんな時間にやってるなんて珍しいなと思っただけで」
「実はですね、うちの店で扱うジャケットは特殊な効力がありましてね」
「特殊な効力?」
「その動物の皮をあしらったジャケットを着ると、その動物の特性を持つことができるのです。自分を偽ることができる。だから、店の名前がフェイクなんです」
得意気な口調だ。怪しいことは承知だが、惹きつけられる話ではある。
「先日は気が弱いという悩みを抱えたお客様がご来店されました。ライオンのジャケットをお勧めしたところ、非常に好評でした」
「はぁ……気が強くなったと?」
「おっしゃるとおり。パワハラ上司に噛みついたそうです。あ、もちろん言葉でですよ」
「ちなみに、おいくらで?」
「ライオンは少々割高になりまして、税込で三十万円でございます」
「三十万!?」
騙される奴がいるのか―
「疑ってます?」
「いや、疑ってるというか……信じられない」
「初めてのお客様は大体そうです。なので、当店では初回無料お試しキャンペーンを設けております。まずは一週間ご試着いただき、効力を体験できるというものです」
もし、うまくお世辞を言えたり、忖度できるならば人生が変わるかも……図らずもそんな考えが頭をよぎった。
「試してみますか?」
「本当に無料ですか?」
「もちろん。騙すつもりなどございません」
店主の目の中、大きく輝く黒い瞳に偽りはないように思えた。
「じゃあ……お願いします」
「承知しました。では、こちらがカタログです。この中からどれか一つをお選びください」
手渡されたカタログには、写真とその下に説明が記されていた。全て同じテーラードジャケットの型だが、色味が違う。
「どのようになりたいですか?」
「うまく、人付き合いができれば……」
「それ、ありがちです。少々お待ちを」
店主がカーテンの向こう側に消えた。
そして、次に現れたときには淡いピンク色のジャケットを手にしていた。
「群れるのが得意なフラミンゴの皮です」
「あ、ありがとうございます」
フラミンゴの皮など聞いたことがない。疑念を口にするのも、質問するのも煩わしかった。どうせ無料ならば試してみようじゃないか。
「では、一週間後にお待ちしております」
店主がシッポを振りながら、見送ってくれた気がした。
どうも職場にレザージャケットは浮いているが、そんなこと今さら気にする必要はない。どうせ浮いている。
「なんだ、そのジャケットは? せめて見た目だけでも空気読めよ」
出勤するなり、予想どおりの言葉が浴びせられた。分かっていたが、ムカつく。しかし……
「ご指摘ありがとうございます。さすが先輩ですね。いつもご指導ありがとうございます」
予期せぬ言葉が出た。あまりにも素直な俺に「お、おぉ。まぁ、個性的でいいかもな。う、うん」と、上司も面食らっている。
今日の俺は、これまでの俺とは違う。媚びて、忖度して、調子いい奴。むしろ、嫌いな部類の人間だが「お前、感じ良くなったな」なんて言われると、悪い気はしなかった。
一週間も経つと、会社という組織に属し、従業員という輪の中に馴染んでいるのを実感できるようになった。初めての感覚だった。
もちろん、フラミンゴのジャケットは購入した。十万円だったが、人間関係が円滑になり、これまで長続きしなかった仕事が続くなら安いものだ。
それからも必要な状況によって、ジャケットを買い足した。高圧的な取引先の社員には、ライオンのジャケットが奏功した。依頼した仕事に嫌な顔をする気難しい女性社員には、猫が効果的だった。ツンデレ作戦がハマるらしい。
相手の性格に合わせたジャケットを使い分ければ、全てがうまくいく。営業成績は良くなり給料は上がった。昇進もした。怖いものは何もない。はずだった……が、これまでと立場が変わり、一度に多様な人たちと顔を合わせる場面が増えると、対象が限定されるジャケットでは、うまくいかなくなった。
順風満帆だったはずなのに―
どれだけ高くてもいい。如何なる場面でも、誰とでも、うまくやれるジャケットを手に入れたい。
「おや、それは困りましたね」
「そこをニャンとかお願いします」
「わかりました。やはり子猫のジャケットでお願いされると、どうもダメですね」
「助かります。全ての人とうまくやれるジャケットをお願いします」
店主がカーテンの向こう側から持ってきたのは、ベージュ系のジャケットだった。
「誰とでもうまくやれる動物のジャケットです。これ以上のものはありません。つまり少々、いや、かなりお高いですよ」
「いくらでも大丈夫です! 買います!」
「ありがとうございます。では、三百万円になります」
「う……は、はい。分割でお願いします。ちなみに、何の動物ですか?」
「それは秘密です」
「わ、分かりました」
懐は痛かったが、高い買い物をした甲斐があった。誰の前でもうまくやれるようになったのだ。これ一着でその状況に応じた話術を身に付けた。完璧な人間になった気がした。
しかし、それも長くは続かなかった。誰にでも受け入れられるように接していると、どこかで歪みが生じるようだ。「あっちでも、こっちでもいい顔して、あいつは卑怯者だ」なんて陰口を言われ始めた。
急いでフェイクに向かった。しかし、いつも暗闇に灯る店の光が消え、暗い商店街と同化した扉には『CLOSE』の札がぶら下がっていた。
「すみません! 開けてください!」
扉を叩く音と声だけが静寂に響く。が、そんなことは気にしない。とにかく、この状況を打開せねばならない。激しく扉を叩き、そして大声を上げた。
しばらくすると、中に人の気配がした。ガチャリと鈍い金属音がして、ゆっくりと扉が開いた。
「どうされましたか?」
いつもと違い、怪訝な顔した店主が顔を覗かせた。
「良かった。中、入っていいですか?」
「いや、それがまずいことになりまして」
「どういうことですか? それより大変なんです。このジャケットを着ると、どうも敵を作るみたいで。一体、これは何の皮ですか?」
「あ、あぁ、それ、実は……人間の皮です。欲望に満ちた人間という動物は、得るものもあれば失うものも多いんですよね。はははっ。お代は結構ですから、はい。では、これで」
扉が力強く閉められた。
呆然と立ち尽くす俺の背後で、男の声がした。
「おいおい、今度は人間の皮って。懲りない人だなぁ。あんたも被害者か」
振り返ると、そこには中年のサラリーマンが立っていた。
「被害者?」
「どうも、この店は動物のレザーって謳いながら偽物を売ってたらしいよ。客に暗示をかけてその気にさせるってやり口だとさ。まぁ、俺も騙されたんだけどね」
「えっ? 偽物?」
「そう、すべて偽物。フェイクレザーさ」
ということは……皮の力ではなくて、全て俺の能力だったというわけだ。
「やればできるってことか」
高い買い物で得たのは強い自信だった。見上げた空から粉雪が舞い落ちる。明日はクリスマスだ。素敵なホワイトクリスマスになれば良いな。偽りの気持ちではなく、素直にそう願う俺がいた。