小説

『昼下がりのシンデレラ』蔵原先(『シンデレラ』)

 

 

 夜の十時、田村時子は娘二人を寝かしつけると、冷蔵庫からビール二缶、そして煙草一箱を抱えて家を出た。扉の鍵を閉め、家の真ん前に停めてある中古の軽に乗り込んだ。

 一日の家事と育児の後、ここで一服するのが時子の唯一の楽しみ。この空間は一人の時間が流れている。ド田舎だから周りは畑と田んぼしかない。誰も自分を咎めない。虫の声しかしない。

 煙草に火をつけたら少しだけ窓を開ける。秋の夜風が頬を打った。

 今日も夫の歩は帰らなかった。ここには農作業にやって来るだけで、時子が一人でいる家には入ってこない。娘は可愛いらしく、時子の目を盗んで会いに来たり、遊びに連れ出している。

 歩と結婚するまでは、常に男の視線を感じて生きてきた。困っているといつも男が助けてくれた。そのせいで何度か怖い目にも合ったが、その都度男が何とかしてくれた。

 高校時代、時子を気に入った教師に内申点を上げてもらい、本来の学力では到底かなわない大学に見事推薦合格した。念願の上京。時子は入学式に勧誘されたテニスサークルに所属した。活動はテニスではなく、定期的に男女が旅行に行ったり、飲み会に行ったりするものだった。ほどなくして気が付くと、同級生の女は時子一人になっていた。サークルの男達は全員、時子を「姫」と呼んでもて囃した。

 同じゼミに派手な容姿の友人がいて、時子と仲良くしたがった。その子はバイトでホステスをしていて、常にブランドの服やバッグで着飾っていた。時子に目をつけたのは、自分が店に出られない日に代わりに出勤してもらいたいからだ。その子の代わりに一日出勤したら、二万円貰えた。たまにお客さんからもお小遣いや、帰りのタクシー代を貰えたりしたから、裕福でなく仕送りの少ない時子にとっては有り難かった。当たり前に客から気に入られた時子は、店のママから正式に働かないかと誘われたけど、断った。女の嫉妬や色恋沙汰はまっぴら。こんなのは遊び感覚の小遣い稼ぎでちょうどいいと思った。

 ある日、大手商社の幹部と名乗る男達が、店に来た。ヘルプでついた時子を、その中の一人がとても気に入ってくれて、普段の時子だったらどんなにお金を持っていても邪険にするのだが(何故かそれが逆に男心に火をつけるのだけれど)五十代半ばくらいだろうか、その人は全然いやらしい感じがしなくて、たった数時間くらいで、会ったことのない父親像を重ねたりした。

 その男性から、今度会社の創立記念式典があるんだけど、若い女の子がいなくて寂しいから、サクラで来てくれないかと言われた。それを聞いていた周りの男性達も、そうだ、君達みたいな華やかな美女がいないとつまらないと囃して、いつ、ここで、何時に来るようにと言われると、女達も喜んで、わかった、絶対行くわと約束していて、今だったら酔っ払いの戯言だと時子も分かるのだけど、二十歳の小さい脳みそは、そんな大人の冗談をまるっきり信じてしまって、ノコノコと顔を出してしまったのだった。

 式典の受付にいた、時子に優しかった父のような人は、時子を見た途端、大いに困った顔をした。

「だってあの時、誘ってくれたじゃないですか」

 膨れる時子に、

「だって君、その格好……」

 時子は白のワンピースを着ていた。

 少し言い合いをした後、揉め事はヤバいと思ったのか、その人が折れて、時子はその人の身内として、出席させて貰うことになった。

 創立記念式典は、若者も年よりも真っ黒なスーツを着ていて、みんな同じ人に見えた。その中で白いワンピースの時子は、一際目立っていた。誰よりも若くて、美しかった。

 だけどあの日、店で時子を誘ったお偉いさん達は、時子を見ても知らんぷり。

 式典にいる誰もが時子を敬遠していたけれど、その中にいた一人の青年が積極的に話しかけてきた。それが歩だった。歩はさっき舞台上で、成績優秀者として表彰されていた、期待の若手社員であった。みんなにのけ者にされて寂しかった時子は、歩に懐いた。歩と時子が話しているのを見て、歩と同年代の若くて活発な男達が、時子の周りに集まって来た。

「可愛いね」

「本当は話しかけたかったんだけど、部長の目があるから」

 時子は笑った。いつも通り。結局、いつも通りになった。

 その日をきっかけに、歩との交際が始まった。歩はたくさん、時子を喜ばせてくれた。時子の欲しいものを全て買ってくれた。誕生日にはレストランを貸し切って、海外旅行にも連れて行ってくれた。歩は時子のためにたくさんお金を使った後、プロポーズしてくれた。その時、時子のお腹には赤ちゃんがいたけど、まだ打ち明けていなかった。歩が結婚してくれると信じていたから、全然怖くなかった。プロポーズは答え合わせみたいなもので、指輪を貰って、やっぱりね、正解、と、心の中で笑った。

「結婚したら退職する。田舎に帰って、おばあちゃんの農業を継ぎたい」

 ほどなくして、歩から聞かされた。会社には退職届を提出済だという。君は何もしなくていいからと言われたけれど、さすがに不安が過って、でもお腹は膨らんでいるし実家も頼れないし、結局は歩についていくしかなくて、それでも歩は時子にあんなにも尽くしてくれたのだからこれからもきっとたくさん喜ばせてくれるのだろうと、その思い出が十分な担保となった。

 結婚式は盛大だった。

 退職は少し先で、その時の歩はまだ商社マンだったから、参列者も若手のエリートや偉い方ばかりで、有望な歩がもうじき退職するのだとなると感慨深く、祝福も一層大きかった。時子も、友人や、サークルの男達を呼んでいた。女は祝福される時子を羨み、男はドレス姿でお腹の目立ち始めた時子の危うい美しさに息を呑み、涙を浮かべる者もいたのだった。

 結婚式が終わってしばらくすると、約束通り歩は退職した。そして農業の勉強をしてくると言って、退職金をつぎ込み、一人でドイツに行ってしまった。一か月後、ドイツから帰ってきた歩と、歩の祖母が住んでいる山陰の山奥に引っ越した。

 山の中にあるデカいだけのボロ家。畑と田んぼしかない。歩は一日中、祖母と二人で農作業。時子は農業はしないでいいけど、祖母の面倒は見てほしいと言われて、仕方なく引き受けた。歩の祖母は口数が少なくて、悪い人ではなかったけれど、どことなく陰気臭くて、普段喋らないくせにご飯を食べる時だけ、クチャクチャと音を立てるのが気になって嫌だった。早くお腹の子どもが生まれて、食卓を賑やかにしてほしい。祖母の口から洩れる雑音をかき消してほしいと願った。

 五年が経った。

 歩の祖母は腰を痛めて、家事は全て時子に任された。お腹の子は女の子で、その子が歩き回るようになるのと同時に、歩の祖母はほぼ寝たきりになってしまった。

 どうしても、年よりが疎ましい時がある。時子が家で不機嫌になるのを歩は嫌った。本当なら時子も田んぼを手伝うべきなのに、年老いた祖母にやらせて、誰が食べさせてやってると思ってる。いつの間にか、歩は時子に向かってそんなことを言うようになった。喧嘩が増えた。

 歩はもともと賢かったから、農業ビジネスは軌道に乗り始めていた。農作物を販売するだけでなく、サイトを立ち上げ、同じように農業をしている若者を集めて新たな事業を始めたり、持ち前の人たらしで農家のお偉いさんに取り入ったり、人望も広げていった。

 歩は家に殆どいないから、歩の祖母は専ら時子に頼るようになった。夜中に起こされて、トイレに連れて行ってほしいとせがまれ、時子がおんぶして連れていく。四十二キロの小さな背中に老婆を乗せて、ずるずると引き摺りながら、連れていく。

 死にたい。

 ふと、頭を掠めた。

 二年が経った。

 歩に頼み込んで、週三回、歩の祖母をデイサービスに預けてもらえることになった。少しだけ暇が出来たから、昔の男の何人かとメールするようになった。この男達の中では、時子はウエディングドレス姿のままで時間が止まっている。

 歩には喧嘩の度、「昔は可愛かった」と捨て台詞を吐かれている。

 一度だけ、メール相手の男の一人と会った。出張で隣の県に来ていると連絡があって、悩んだけれど、心は決まっていた。

 当日、わざと歩に喧嘩を吹っ掛け、腹を立て家出。計画通り。そのまま愛車に飛び乗り、男に会いに行ったのだった。駅近くの駐車場に着くと、車で着替えて化粧した。男の仕事が終わる夕方になるまで、パチンコ屋で時間を潰した。

 十年ぶりに会った男は、くたびれていた。学生時代は大人しくて、時子と話す時、いつも俯きがちになるのが可愛かった。だけど今はその辺のおじさんになっていた。男は時子を見ると、一瞬誰かわからない顔をして、時子がにっこり笑顔になると、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をして、そうしてその後、ひどく大袈裟に喜んだ。

 お互い、がっかりしていた。

 どこにでもある居酒屋に入り、男は煽るように飲んで、店を出た後、何となく、近くに車止めてあるから送っていこうかと言ってみたら、泥酔した男の顔からすうっと、酒でない何かが抜けていったのが見えた。男は少し考えたふりして、

「やめとく」

 と言った。それから儀礼的な挨拶を交わして、行ってしまった。男は一度も時子を振り返らなかった。

 家に帰ってから、あの男は今日の出来事を誰かに話すだろうかと考えた。姫はすっかり変わってしまって、酒で幻想を打ち消そうとしたけど無理だった。しかもあの女、帰りに俺を誘ったんだ。あの女にとって俺は到底釣り合わない男のはずだったんだ。今だったらお前も相手してくれるんじゃないか。目瞑ってたらわからないよ。あ、目瞑ったら誰でも同じか。それなら若い方が良い。

 何となく、あの男は今日のことを黙っているような気がした。


 いつの間にか、男は誰も私を助けてくれなくなっていた。


 三年が経った。

 娘が一人増えた。歩そっくりの二人の娘。

 いよいよ面倒見切れなくなったババアは、近くの施設に入所させた。

 祖母の面倒を見ない時子に対し不満を募らせる歩に、

「こっちは子どもで手一杯なんだよ。てめえが面倒みろよ」

 時子が言い返すと、

「お前誰にそんな口たたいてんだコラ」

 歩が罵る。

 歩は今、サイトで募った仲間と一緒に田んぼや畑をしている。

 この間、歩が置き忘れたスマホを覗いたら、独身のフリしてマッチングアプリに登録していた。

「お前は顔だけだった。お前の顔に騙された」

 聞き飽きたセリフを、歩は何度も、何度も言ってくる。

「はあ?年より付きのボロ屋敷に連れてきやがって、騙されたのはこっちなんだよ。この甲斐性なしが!」


 煙草をふかしながら座席のシートを引いて、時子は長いため息をこぼした。

 フロントガラスに数匹のカメムシがへばりついている。

 この愛車が時子の城だ。何も聞こえない。子どもの耳障りな泣き声も、歩の怒号も、ババアの施設からの電話の着信も。ここでなら歌って、踊ることも出来る。

 目を閉じたら、本当の自分。優しかった歩と、タワーマンションの高層階で暮らしている。子どもは一人で良かった。たった一人に、お金と愛情を目一杯注いであげたい。猫を二匹飼う。子どもと時子で育ててあげる。

 若い頃、歩とよく行ったお気に入りのレストラン。毎年、家族の誕生日はそこで祝う。子どもの誕生日なのに、歩は必ず時子のプレゼントを用意していて、

「いつもママばっかりなんだから」

 子どもが呆れて、時子が苦笑いする。テーブルの下から時子の手をとり、歩が微笑むもんだから、時子は嬉しくて困ってしまって、子どもに謝ることしか出来ない。


 ビールの缶片手に時子がそっと目を開けると、フロントガラスのカメムシと目が合った。

 そういえば、カメムシの前世は不倫の男女って聞いたことがある。

 カメムシが呼んでいる。こっちに来いと。

 男は私の美貌を欲しがったけど、幸せにはしてくれなかった。一体誰と何をしていたら、私は幸せになれたの。そして今から私は何をすれば良いんだろう。

 カメムシが私を見つめる。

 煙草を持つ指先が震えている。どうしてだろう、泣いているのかもしれない。

 ルームミラーを見たくない。拭ってくれる男はいない。自分の顔を見たくない。顔だけの私だったのに、今は鏡が怖い。

 きっと、昔の私しか知らない奴らは、今も私を羨んでいる。

 その後のことは誰も知らない。


 時計が午前0時を指した。

 時子はシートを戻すと、車から出て、家に帰った。

 車内には吸い殻とビールの缶。

 フロントガラスにはカメムシ。

 いつも通り。



(了)