小説

『おめでたくない人々』裏木戸夕暮(『おめでたき人』武者小路実篤)

 

 カウンターの男がハァとため息をついた。

「どうしました。先程までご機嫌でしたのに」

 バーテンが声を掛ける。

 男はふっと顔の緊張を解いて笑った。

「そう見えたかい?半分は虚勢だよ。お代わり。薄めにね」

 氷がだいぶ溶けたグラスを差し出す。

 男は先程まで、同年代と思しき男と楽しげに飲んでいた。明日早いからと言って相手は先に帰ってしまい、男は一人残された。

「聞いてくれるかい。店も空いてるし」

 男は語り始めた。


「一緒だった奴、俺の従兄弟でさ。一彦ってんだけど。従兄弟の中じゃ俺とあいつだけが男で、他は女ばっか。年も同じで家も近くて、比べられて育った訳」

 薄い水割りの氷をくるりと回す。

「あいつカッコいいだろ?四十過ぎてもシュッとしてさ。昔っからイケメンで頭も良くて気が利いて。クラスメートからも人気があって、大人からの覚えも目出度い優等生。俺は凡人だから引け目を感じることが多かった。極め付けは俺がずーっと片思いしてた相手を獲られちまったのさぁ」

はあーっと長いため息をつく。

「中学の頃から好きだった女の子がいてさ。仲良くなんかないんだ、顔見知り程度。田舎だから選べる学校も少なくて、高校も一緒になった。その頃から彼女はぐんと綺麗になっていって、あーこりゃ誰かに獲られちまうなぁってビビりながらも、俺は見てることしか出来なくて。言い訳だけどコンプレックスだよなぁ。小さな頃から一彦と比べられて育った俺は、自分なんてつまんない奴だって刷り込まれてた。何も無いままに卒業して、流石にその先の進路ではバラバラに。彼女は地元の短大、俺は高卒で就職。一彦は都会の大学へ進んでそのまま大企業へ就職・・・いっそそのまま、道が別れていりゃあ楽だったんだが」

「どうなったんです?」

 ふ、と男は苦笑い。

「20代の頃、高校の同窓会があったんだ。彼女も来てた。綺麗になってたよ。少しは話も出来た。そこへ『なんとか時間が取れたから』って颯爽と現れたのが一彦さ。始めは忙しくて来られないって話だったんだ。女子が浮き足立ってねぇ。イケメンの独身エリート、上手くすれば玉の輿〜って。で、まぁ。よりにもよって一彦が選んだのが俺の片思いの彼女。俺はチーン、御愁傷様よ」

 ハハっと笑う。

「ま、俺も悪いよな。せめて彼女に当たって砕けてりゃ良かった」

 バーテンはグラスを拭きながら

「そんなお話は、結構聞きますねぇ」

 こちらも苦笑いをする。

「そんなもんかい」と男。

「そんなもんです」とバーテン。


「結婚式にも呼ばれて、俺は平気な顔をして出た。おめでとうってね。行かないのも癪じゃないか。ま、俺も何とか嫁さん見つけて家庭をこさえたけどな。あいつは出世して海外勤務になって、こないだ帰ってきて。で、今日一緒に飲んだって訳」

 男は夢から覚めたような顔になった。

「長々とつまんない話に付き合ってくれて有難うな」

「いえ、そんな。山田さんは当店で屈指のお酒が綺麗なお客様ですよ」

「俺がぁ?」

 山田と呼ばれた男は頓狂な声を上げる。

「私の考えですがね」

とバーテン。

「嬉しいお客様っていうのは、酒の蘊蓄を語れる人でもなく、酒に強い人でもなく。騒がず、暴れず、ツケを溜めることもなく。ある時はひとり静かに飲み、ある時は久しぶりに帰国する従兄弟をもてなす為に当店を選んで下さる。そんな方です」

 山田は気まずそうに照れ笑いをする。

「そんな大層な」

「この商売でたくさんの人を見てますとね。妙な言い方ですが、地味とか平凡とか言われる人の方が、実は大したもんじゃないかって気がします。多分そういう方は、気づかないうちに大きなトラブルを回避してるんですよ。平凡な暮らしってのは貴重なものです」

 山田は、普段親から構われない三男坊が珍しく褒められた時のような、なんとも面映い表情で聞いていた。


「・・・地味な会社員で、地味な嫁と地味な子どもが居て、地味にローンを背負ってる。こんな人生をそう言って貰えると有難いね」

山田の言葉は独り言のようで、自分に言い聞かせるおまじないのようで。煙草の煙のように店に漂う。


 席を立って会計をしようと懐に手を伸ばすと、バーテンに制止された。

「お連れ様から頂戴しております」

「あ?あいつ奴。じゃあ最後の一杯だけ」

「それも結構で。最後の一杯は私からの奢りってことで」

「はぁ?いや、参ったなぁ。あれだけ飲んで一銭も出さないってのも」

「またお越しください。何しろ、うちで屈指の綺麗なお客様ですから」

「よせやい、照れ臭くって逆に来づれぇよ」

「お気をつけて」

 カランとドアベルを鳴らして男は帰って行った。

 バーテンがひとり残った。


 カウンターの中を拭きながらバーテンは考える。

(大人からの覚えも目出度い優等生、か。確かにそんな雰囲気の人ではあったが)

 山田の従兄弟の一彦は、山田がトイレに立った隙にカードで支払いを済ませようとした。実にスマートなタイミングだったが、初めに出したカードが限度額が一杯で使えずに別のカードで払った。その時の気まずそうな表情は、元が端正なだけに少し醜く見えた。

(ブランド物のスーツだったが、袖口はほつれていた。どうにも無理をしてるような感じだったな)

 気付かぬ人は気付かぬだろう。海外帰りのエリートのイケおじ。一彦はそう見えるに違いない。

 バーテンは一彦の態度に演技者の影を見た。グラスを傾ける時、バーテンや山田に語り掛ける時。一彦は常に人の目を意識していた。

(幼い頃から注目を浴び続けて来た人間には、それなりの苦労があるんだろうな)

 注目され続けて来た人間が周囲の期待に応えようと努力をしてきたのは立派だと思う。だが無理が過ぎると綻びが出る。一彦は大丈夫だろうかと、他人ながら心配になる。

 山田に話した通り、特に注目をされない凡人が平穏な日々を作り上げるのは、実は大したことなんじゃないかとバーテンは思っている。平凡と言われる人間は他人を傷つけないし、場を乱すこともしない。周囲からの賞賛を期待しないから、当たり前のことと思って普通に良いことをする。

(周囲からの覚えが目出度いまま成長し、成功を掴む人間は、本当に一握りなのだ)

 砂浜からダイヤモンドの欠片を見つけるようなものだ。

(ダイヤか・・)

 バーテンの意識がふと逸れたその時、ドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 女がひとり訪れた。


「おや、不思議ですね」

「え?」

「失礼ですが、今ちょうどお客様のことを思い出してました」

「まぁ・・」

 慎ましやかな落ち着いた女性である。そっとカウンターに腰を下ろした。

「一度しか来てませんのに」

「そうですね。あまりお酒は召し上がらないと仰って」

「ええ・・・でも、今日はどうしてか少し飲みたくて」

「フルーツ系で、あまり強くないものをお作りしましょうか。それともノンアルで?シンデレラとか」

「柑橘系でしたよね。でもどうしましょう・・・」

 女は少し迷う様子だった。若い女ではない。三十代後半か、それ以上。

「それとも、少し冒険なさいますか」

「え?」

「本来飲まない方が、飲みたい気持ちになった。そして私が偶然、貴女のことを思い出した時に貴女が現れた。如何でしょう、任せて頂けませんか。お口に合わなければ遠慮なく残してください。お代は結構です」

 女は一瞬呆気に取られたが、

「お任せします」

と笑った。


 出来上がったのは薄紫のカクテル。

「綺麗な色」

「ブルー・ムーンです」

 鼻先に運んだ女は少し驚いた。

「ジンですからね。強いですよ」

 バーテンが笑う。

 少し舐めて女も笑う。

「ほんと。ゆっくり頂きますね」

「無理はなさらぬよう」

 女の薬指に金色の輪が光っている。

「あの夜、貴女はご友人といらっしゃった。貴女の婚約祝いだと。私は先程、貴女の薬指のダイヤを思い出していたのです」

「ああ・・・」

「私が印象深かったのは、お友達が席を外されて貴女が一人になった時の表情です。不安なような迷っているような・・それでも幸せになるんだと、自分を奮い立たせているような」

 女がハッとする。

「顔に出てましたか」

「ほんの一瞬」

「・・・・・」

 沈黙の後。

「完璧な愛の筈でした」

とポツリ。

「誰もが羨むような素敵な男性に選ばれて、皆んながおめでとうと言ってくれて。私も有頂天になってました。収入が多い彼との結婚を両親も喜びました。でも、いざ婚約すると・・・正直、本当に彼を愛しているのか自信がありませんでした。完璧すぎるものって何処か不安になる。あの時私は、自分の指のダイヤが怖かった」

 自嘲気味に笑う。

「それでもこうして結婚生活を続けて、彼に養ってもらっている訳ですから。甘えた話ですね」

「今日は遅くなってもよろしいので?」

「あの、私たちしばらく海外に居たんです。今日は夫も飲みに出ていて。私もさっきまでお友達と食事していて、解散したところです。友達には悪いんですけど一人になりたくて」

「そんな夜もございますよ」

 悪戯っぽく笑う。

「それで、私どもの商売は成り立っております」

「うふふ。でもたくさん飲めないお客だから、ごめんなさい」

 二人で笑う。

「あの夜の貴女は、まだ何色にも染まっていないウブな・・失礼。純粋無垢なダイヤのようでした。でも、今の貴女は大人の雰囲気を纏っておいでです。今の貴女には色のついた、そして少し度の強いものを差し上げたいと思いました。余計なお世話でしょうが」

「いいえ」

 女は強い目をした。

「いいえ」

 ゆっくりと飲んだ。

「変ね。強いお酒をいただいたら、覚悟が決まったわ。私迷ってました。夫は何処か私に対しても他所行きで、心を打ち明けない人だって。若い頃は彼のそんな殻を破りたかった」

 言葉を続ける。

「実は、夫は海外での仕事で失敗して、急遽こちらへ戻されたんです。私には『自分から日本へ戻りたいと打診していた』って隠してますけど、同じ会社の奥様グループから聞きました。出世とかはどうでもいいんです。でも、私にまで隠されたのが嫌で。そんなことも打ち明けてくれない人と添い遂げていいのかしら、って・・・でも、いいわ。曲がりなりにも、私はそんな彼を愛したんだもの。意地っ張りの見栄っ張り。そんなに殻を被りたいんだったら殻ごと面倒みてあげます。地方に飛ばされたら、一緒に畑でも耕してあげますよ」

 バーテンは心から笑った。

「あっはっは、いやお強い。まるでディアマンテ。成程、女性にはダイヤを贈る訳です」

 女性は一杯だけ飲んで帰った。バーテンは奢るつもりだったが、女はきちんと払った。

「払います。また来たいから」

「お待ちしております」

 ドアベルが鳴った。

 女性が語る夫が一彦のことだったのかどうか。

 それは分からなくとも良い話だ。


 殆どの人間が平凡な、特にめでたくもない人生を、か弱い夢を見ながら生きているのだ。それを愚かと誰が言えよう。


 バーテンは時計を見ると、ドアを開けて人通りが無いのを確かめた。再びドアが閉まり、表の看板の小さな灯りが静かに消えた。