残暑というには暑すぎる、9月のことだった。
360度を峻険な山に囲まれた、甲府盆地。笛吹川の近くに、異国のごとくぶどう畑が連なる場所があった。
「ごめんくださーい」
ぶどう畑の隣、古い家の軒先で、中学生がインターフォンを押す。しばらくして出てきた中年の女性が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「日野くん。いつもごめんね」
「いいんですよ。はいこれ、ゴンくんに渡してください」
通学用の黒いリュックをおろし、プリントを手渡す。
「あの子も、挨拶に出られたらいいのだけど。ちょっと待っててね、『いつもの』渡すから」
日野はムフフと口元を緩める。この家は、シャインマスカット農家だった。『いつもの』とは、販売の際オマケで渡しているクズのことだ。これがたまらなく甘くて、うまいのだ。
開け放たれた扉の向こう、古い民家は薄暗い。日野の耳に、足音が聞こえる。息を潜めていると、階段をゴンが下ってきた。
「よう!」
日野はくりくりとした目を細めてニカッと笑った。
ゴンは長い前髪の下で顔をしかめ、きびすを返す。
「こら!挨拶しなさいよ」
ちょうど戻ってきた母親が、ゴンを叱る。
「……したよ」
「ゴンくん、ちょっと散歩行こうよ。気分転換にさ」
日野が明るい声で言うと、ゴンは勢いよく振り返った。
「行くわけないだろ」
「せっかく誘ってもらったんだから、行ってみたら……?お小遣いあげるから、ね。2人でなんか食べてきなさいよ。これ、クズで悪いけど」
母親が日野にシャインマスカットの入った紙袋を渡すと、いそいそリビングに駆けていく。ゴンは大きくため息をついた。
「余計なこと言うなよ」
「たまにはいいじゃんよう。俺友達少ないから、たまには遊びたくて」
日野は大げさに手を合わせる。
リビングから戻ってきた母親が、ゴンに5000円札を渡す。ジャージのポケットに手を突っ込んでいたが、ため息をついて受け取った。
「おばさんありがとう!」
ゴンは大きな足音を立てて歩き、サンダルに足をねじこむ。
出て行こうとする2人を「そうだ」と母親が呼び止めた。
「川の方へは行かないようにね」
「あ、もしかして、あれですか?」
日野がニヤリと笑う。
「笛吹川の笛吹き幽霊って噂。夜になると、川の方から辛気くさ~い笛の音が聞こえてくるんですよね」
「そう。幽霊ならまだしも、不審者だったら怖いからね」
「あはは。俺は幽霊の方が怖いですけどね」
「とにかく、気をつけてね」
「大丈夫ですよ。きっとそんなもの出ませんから」
日野の自信満々な笑顔に、母親は首をかしげた。
9月を迎えても生き残った蝉たちが、西日の中で鳴いている。2人はダラダラ汗をかきながら、川のほとりを歩いていた。
「大丈夫かー?久々に100歩以上歩いたんじゃねえの」
ゴンは汗を拭って日野を睨む。
「毎日運動してる」
「筋トレか?偉いなー。俺なんか、3日ももたなかったぜ」
「お前と一緒にするな」
「ゴンは一回始めたことは死ぬほど練習するもんなあ。お前フルートうますぎて、俺じゃ穴を埋められないから、文句言われてばっかだ」
「部活の話するのやめろ」
彼らは、吹奏楽部でたった2人の男子だった。男子はチューバなどの大型楽器を任されがちだが、2人の担当はフルートだった。偶然、2人とも母親がフルートをやっていたため、幼い頃から親しんでいたのだ。
「それより、川に行くなって言われたのに、なんでこっち来たんだ」
「大丈夫だよ。幽霊が出るから行くなっていうんだろ。絶対出ないから安心しろ」
「なんだよその自信は」
「ここで突然の日野クイズ!なぜこの川は『笛吹』川という名前になったのでしょうか?解答者のゴンさん!」
ゴンはうんざりと日野を睨むが、日野は創作したシンキングタイムミュージックを歌い続ける。ゴンはため息をついて答えた。
「どうせ、笛のような音が聞こえるとか、そんなんだろう」
「んー。さんかく!正解は川底の石が笙みたいに鳴るから、でした!」
「ほとんど正解じゃないか」
「日野クイズはジャッジが厳しいんだ。あーあ。正解だったらおばさんにもらったシャインマスカット1粒あげたのにさ」
袋から出して、頬張る。
「うーん、うめえ」
「毎日食べてるんだぞ俺は」
「じゃ、もう1回チャンスやるよ」
「いらねえよ。話聞いてるのか」
「笛吹川には、恐ろしくも悲しい伝説があるのです。一体どんな話でしょうか」
日野が突然声のトーンを落とす。
「……死んだ母親を探して、笛を吹いて歩いた男の話だろ」
「そう!さすが成績優秀のゴンくん。大正解です」
笑顔でシャインマスカットを1粒渡す。
「だからいらねえって」
「友達と食うのは格別にうまいのになあ。ま、そういうことなら」
と自分の口に放り込む。そのまま、少し先をいく日野は橋の横を通り過ぎた。
「おい」
ゴンが立ち止まる。
「そっちに店なんかないだろ。行くならあっちだ」
橋の向こうを指さす。
日野はピタリと足を止め、ニヤリと振り返った。
「たまには散歩もいいじゃない」
「ヒマ潰しに付き合う気はないぞ」
「ツンツンしなさんなって。さあ、歩くぞ歩くぞ!」
日野がゴンの背中を押した。
西日が山へと落ちていき、空が橙に染まる。
2人は、堤防の芝生に座っていた。ゴンの歩みがどんどん遅くなり、日野が一休みを提案したためだ。
「部活は笛吹き幽霊の話でもちきりだぜ。怖くて夜眠れない子とかいてかわいそうだ。オカルト好きは笛の音を録音したとか言って、怖がりの子は嫌がって、もう毎日うるさいのなんのって」
疲れ切ったゴンは、膝の上に突っ伏していた。
「先生までビビってさあ。危ないから明るいうちに帰りましょうって練習切り上げるんだ。部活終わった瞬間ソッコーで帰るんだぜ」
ははは、と日野は1人で笑う。
「お前、なんでこんなとこに連れてきたんだよ」
多少は残暑らしく涼しい風が吹き、ゴンの長い襟足を揺らす。
「ま、たまにはさ、川のそばで青春しようぜってことよ」
「嘘つくなよ」
ゴンが顔を上げ、じとりと日野を睨む。
「……メシ行くって言ってんのに、こんな何もないとこに来るとか、おかしいだろ」
「わ、さすがにバレたか。賢いからこれあげちゃう」
シャインマスカットを手渡す。喉が渇いていたのか、素直に受け取った。
ゴンが口を動かしている間、日野の顔が段々とこわばってくる。怪訝な顔をするゴンをちらりと見てから言った。
「俺は、笛吹き幽霊の正体はゴンだと思ってるんだ」
ゴンは目を見開く。
「なんで、だよ」
「録音を聞いたとき、直感的にゴンの音だって思った。他にもそう言ってる子はいたけど、確証がない。音質だって悪いし」
日野は顔を上げてゴンを見る。
「俺は気づいたんだ。曲が、亡き王女のためのパヴァーヌの、ハモりパートだって。それを、めちゃくちゃゆっくり吹いてるから、怖い音に聞こえてるんだ」
「それで、なんで、俺だってなるんだ」
「……お前、養子だって言ってたろ。フルートをやってたのは生みの母親で、一緒に吹く時間が大好きだったって」
ゴンは何も言わない。呼吸すらも止めているようだった。
「前に1回だけ、この曲が好きって言ってたの思い出して。お母さんと一緒によく吹いてたって、さ」
日野は、ゴンから目をそらす。肩をこわばらせたゴンは、じっとサンダルの先を凝視している。
蝉はいつしか鳴き止んで、ちらほらと鈴虫の声が聞こえる。川岸に茂る草が、さらさらと音を立てた。
「……お母さんは俺を1人で育ててくれた。頑張りすぎて、病気になって、死んだ」
ゴンは身を固くしたまま、低い声で言った。
「俺が生まれなかったら、お母さんはずっと生きていられたのに。それがずっと辛かった」
日野は、口を閉じたままゴンに視線を注ぐ。
「母さんが……引き取ってくれた母さんが、ちゃんと俺のこと、子供として育ててくれようとするのが、嫌になって。本当の母親じゃないのに、母親みたいな顔して。俺の本当のお母さんがなかったことになるみたいで」
ゴンは流れる涙を乱暴にぬぐった。
「でもやっぱ、ここまで育ててくれた母さんは、正真正銘、本当の母さんなんだ……。だからこんな最低なこと考えてる俺が、やっぱり、消えた方がよくて。でもそれも怖くて、どうしようもなくお母さんに会いたくなって。俺はフルートが大好きだったから、吹いたら来てくれるような気がしたんだ」
涙が止まらなくなり、嗚咽が漏れる。
日野には、どんな言葉をかけたらいいのか分からなかった。絶対、ゴンにいなくなってほしくない。それでも、彼の気持ちを安易に否定するのは違う気がした。
ただ、どうにかゴンの気持ちを和らげたくて、リュックをあさる。しかし目当てのハンカチは見当たらない。部活で使うタオルしかなかった。楽器の吹き口を拭いたり、たまった蒸気を出したりするのに使うものだ。
「……ごめん、ツバまみれのタオルしかねえけど、いる?」
「いるわけねえだろ」
「ま、そうだよな」
日野が思わず笑うと、ゴンがつられて笑う。そのままなんだかおかしくなって、2人はケラケラ笑った。
「はー。嫌われるかと思ってすげえ怖かったわ」
日野は、まだドキドキしている心臓をおさえる。
「なんで」
「幽霊部員に幽霊とか言ったら図星すぎるだろ。最初はカッコよく『笛吹き幽霊の正体はお前だ!』って言う気満々だったんだけどな」
「主人公気取りかよ」
ゴンは、残った涙を拭いて微笑む。
日野は少しホッとして、リュックから楽器のケースを2つ取り出した。
「俺、下手くそだけどさ、母ちゃん役やってやるよ。めちゃくちゃ練習したんだぜ。ゴンの音に近づけるようにさ。お前の音って、きっと母ちゃん譲りだろ。こっそり備品持ってきたから。これゴンのぶん」
2人は楽器を組み立てる。
「あ、俺メインのメロディーしかできないから、合わせてくれよな」
日野がドヤ顔で親指を立てる。
「そっちから誘ってきておいて、人任せなやつ」
2人は目で合図をし、同時に息を大きく吸った。
夕焼けばかりは秋に近い、鮮烈なオレンジの空。澄んだフルートの音色が、せせらぎに沿うように響く。
物悲しいが優しい旋律は、深夜の笛の音に怯えていた人々の耳にも届く。聞いた者は皆、幽霊が成仏したと直感していた。歩みを合わせて道をゆくような二重奏に、誰もが時を忘れて聞き入った。
吹き終えた2人は、顔を見合わせてはにかむ。思わず足を止めた歩行者たちが、パラパラと拍手を送った。
「どうだった?俺の音」
「うーん。まだまだかな」
「きびしー」
「でも、前よりうまくなっててビビった」
ふふん、と日野が得意げに笑う。楽器を片付けながら「また一緒に、演奏したくなった」と、小さくゴンがつぶやいた。
その後、2人はファミレスで夕飯を食べた。デザートのパフェまでたのみ、もらった5000円をきっちり使い切る。
暗くなった帰り道、2人はゴンの家の前で立ち止まる。
「おばさんにごちそうさまって言っといてくれ」
「なんか、今日はごめん。泣いたりしてさ」
「いや」
日野が少し宙を見上げる。さっきかけたかった言葉が、ようやっと見つかった。
「ゴンがどんだけ自分のことを責めたってさ、俺には止められない。俺はふつうの家庭で育ってるし。でも、お前に嫌われたくないくらいには、ゴンが遠くに行ったら嫌だなと思っててさ……。お前と楽器吹くの楽しいしさ。部活でたった2人の男子だし。また学校も来てくれたら、嬉しいよ」
日野は元気よく親指を立てる。ゴンは「ああ」と曖昧に返事をすると、顔を伏せる。
「それじゃあ、またな」
そそくさと家に戻っていった。
季節が巡り、春が来た。笛吹き幽霊の騒動は、すっかり懐かしい話になる。
ゴンは学校に復帰していた。フルートのソロコンテストで全国大会まで進み、優秀な成績をおさめた。全校生徒の前で表彰されるゴンに、日野は誇らしい気持ちで拍手を送る。
ステージ上でマイクを渡されたゴンは、胸を張って語った。
「僕には、学校に通えない時期がありました。でも、友達が元気をくれたおかげで、戻ってくることができました。その友達に、今ここで感謝したいです」
ゴンが頭を下げると、全校生徒の拍手が弾ける。
「あいつもずいぶん、元気になったなあ」
日野の顔に、照れ笑いがこぼれる。
ステージの上のゴンが、笑顔で親指を立てる。その視線は真っ直ぐ、日野の方を向いていた。