小説

『初恋玉手箱』松本侑子(『浦島太郎』)

 

 「終わりがないっていうのも、疲れるよね。」

「終わりですか?」

 太一の独り言に、返事があった。太一は驚いて椅子に足をぶつける。大きな音を立てて、椅子が床に倒れた。

 店のドアを開けて、女の子が中を覗いていた。見たことのない子だった。

 女の子は店の中に入ってくると、太一が倒した椅子をおこす。

「ありがとう。」

 太一はぶつけた脛をさすりながら、そういった。女の子はじっと太一を見上げている。

「私は、なぎさといいます。」

「浦島です。初めまして。」

 太一は反射的に自己紹介をした。なぎさは小さくうなずくと、唐突にこう尋ねた。

「浦島さん、本当の名前、太郎ですよね?」

 太一はぽかんと口を開けてしまった。

「えっ?・・何?・・何の話?」

  そして、とりあえず笑ってみせる。しかし、なぎさは笑わなかった。

ドアの隙間から猫がのぞいていた。いつもえさをねだりにやってくる猫だ。猫は二人を気に留める様子もなく、いつもと同じようにニャアと鳴いた。

「・・・太郎じゃないです。」

 太一は努めて落ち着いた声でそう答えた。なぎさは腕を組むと、太一を上から下まで品定めをするように視線を動かす。その小生意気なしぐさに、太一はいささか腹立たしさを覚える。

 なぎさと視線が合った。太一はまっすぐに自分を見上げるなぎさの瞳に、胸が痛むのを感じる。

黒というより濃紺の色合いをした瞳。太一は、その目の色を知っていた、それは、あの人によく似ていた。というより、そっくりだった。


 太一は年を取らない。どういう仕組みでそうなったのか、自分でもわからない。ただ、ずっとこの姿のまま生き続けている。

 本当の名前は、確かに、「太郎」だ。

 昔ばなしの浦島太郎は、自分の話だった。亀に乗って竜宮城へ行き、戻ってきたら、陸の上は三百年ほどたっていた。

物語では、玉手箱を開けておじいさんになったところで話が終わっているが、実はそうではない。

 浦島太郎こと、浦島太一は玉手箱を開けてないのだ。竜宮城からもらった玉手箱は、実際は手のひらに収まるくらいの小さなものだった。そして、決して開けてはならないといわれていた。

 開けてはならないといわれたら、開けないでしょ。

と、太一は思っている。

 陸に戻った太一は、家もなければ知り合いもいなかった。なので、取り合えず、海辺から見えた寺に身を寄せた。坊主になるつもりはなかったが、助けを求める場所を他に思いつかなかったのだ。

そして、そこで暮らすうちに、自分が年を取らない事に気が付いた。


 太一は十年から二十年ほどで、住む場所を変える。そうしないと、年を取らないことがばれてしまうからだ。

 陶芸の窯元にいたこともあったし、漁船に乗っていたこともある。米を作っていたこともあるし、日雇い仕事を何年も続けたこともあった。

 そんなことを繰り返しながら、太一は今、この町にいる。

この店は、前の店主から受け継いだ。太一がアルバイトを始めて五年目の時だ。店主はある朝、起きてこなかった。まさしく眠るように逝ってしまったのだ。独り者の店主の葬儀に、親族らしい人は誰も来なかった。

 

 「人違いじゃないかな。」

 太一はなぎさにそういうと、さっさとカウンターの中に入る。すると、猫がひらりとカウンターに飛び乗った。キャットフードが出てくることを知っているのだ。

 なぎさは、猫にえさをやり、下を向いて洗い物を始めた太一の様子をしばらく眺めていた。


 春休みに姪っ子を預かっている。という噂が広まっていることを、太一は知らなかった。

 突然、店にやってきたなぎさは、通いの野良猫と一緒に、あの日から太一の家に住み着いていた。確かに、部屋は開いている。猫なんて、何匹いても大丈夫、なくらいだ。

「勝手に姪っ子って、なんだよ。」

「聞かれたから、頷いただけよ。」

 なぎさはすました顔でそういった。太一となぎさはカウンターに並んで、遅い昼食をとっていた。一人でいる時は昼を取らないことも多い太一だったが、なぎさが来てからは、ちゃんと昼食を用意していた。

「太郎さんって、真面目だって、いわれるでしょ。」

「太郎じゃないです。」

 ありあわせの物で作ったナポリタンをフォークに巻き取りながら、太一はため息をつく。

「まあいいわ。ねえ。なんであれを開けないの?」

 なぎさは、カウンターの中にある食器棚を指さす。太一は大きくせき込む。なぎさはその背中をさすった。

 食器棚の隅に、黒い小さな箱があった。コーヒーカップが並ぶ棚の隅に、ひっそりと置かれている。そして、赤い紐で結ばれたそれが何なのか、なぎさは知っていた。

「なんで、って。」

 太一はようやく呼吸を整えると、その箱に目をやった。

「開けるなって、いわれたからだよ。」

 そして、そう答えてしまった後で、太一は大きくため息をつく。そして、カウンターに体をなげだすように突っ伏した。

 なぎさはあきれたようにため息をつくと、カウンターに入って、その箱を取り出した。なぎさは両手でその箱を持つと、太一と向かい合うようにして、カウンターに箱を置いた。太一は腕にあごをのせるようにして顔を上げる。

 

 この箱は決して開けないでください。と、あの人がいった。だから、太一は箱を開けなかった。それは、あの人との約束だからだ。

 この箱をくれたのは、乙姫という海の底に住む人だった。乙姫という名前が本当の名前なのか、通称なのかわからないが、確かに姫という名にふさわしい容姿をしていた。

 太一は当時、田舎の漁師だったし、働いて寝ること以外の世界を知らなかった。

 あの日、亀を助けたお礼にと連れていかれた海の底は、太一にとって夢以外の何物でもないと、今でも思う。そして、その夢から覚めることを選んで自分は陸に帰った。しかし、手元に残ったこの箱は、その出来事が夢ではない事の証だ。この箱があれば、夢と自分はいつもつながっていられる。

 箱を開けてしまったら、あの記憶は本当の夢になってしまう。太一はそう思っていた。

 なぎさは再び太一の横に座った。そして、箱にそっと手を伸ばす。

「この先もずっと、開けないの?」

 なぎさの声は、とても悲しそうだった。太一は体を起こすと、なぎさを見た。濃紺の瞳がうるんでいた。しかし、なぎさは大きく息をして、涙をこらえるように首を横に振った。

 太一はその横顔が、やっぱり、あの人にとても良く似ていると思った。そして、やるせない気持ちになるのだった。


 あの人は、太一の初恋の人だった。初恋は叶わないというけれど、叶う望みのない相手だった。そしてそれは、その思い出だけで十分な初恋だった。

「開けたらお爺さんになるって、知らないの?」

 太一は努めて明るくそういって、

「怖いでしょ、そんなの。無理無理。」

と、顔の前で笑って手を振って見せた。

「そうね、おじいさんどころか、即、白骨遺体になるかもしれないものね。」

 なぎさは笑顔一つ見せず、そういって、箱を結んでいた紐をするりとほどいた。太一は慌てて、その手を抑える。太一の手の下で、なぎさの手が驚きに小さく震えた。

「ごめん。」

 太一は手を引っ込めると、観念したように居住まいを正し、なぎさに向き直った。

「君のいう通り、僕は、浦島太郎なんだ。昔ばなしの通り、亀を助けて竜宮城に行って、

これをもらって帰ってきたら、・・・ものすごく長い時間がたっていて・・・。」

 太一はそこまでいうと、ふと口をつぐんだ。まっすぐ前を向いて、じっと何かを考えているような表情をしていたが、ふいに、涙が一筋流れ落ちた。

「帰ったら、一人だった。知っているものは何もなかったし、誰もいなかった。」

 太一はその時の情景を思い出しているようだった。なぎさは太一の腕に静かに手をのせた。

 太一は泣きながら、小さく笑った。

「こんな子どもに慰められるなんて、我ながら、本当に情けないよな。」

 太一は箱に手を伸ばすと、それを自分の前まで引き寄せた。

「よし。終わりにする。引きずってきたもの、断捨離だ。」

 太一は大きく三回深呼吸すると、そっと箱のふたを開けた。

 煙が出てくるものと思っていた太一は、箱のふたを持ち上げたまま、しばらく目を閉じていた。しかし、煙の気配も音もなかった。

 太一はゆっくりと片目ずつ開ける。まず、自分の手のひらを二回ほど裏返して確認してみた。何も変わっていない。その後、両手を自分の顔に当ててみる。ひげが伸びている感じもない。そして、ようやく窓ガラスに映る自分に目をやった。

 何も変わっていない。さっきまでと同じ太一のままだ。太一の横でなぎさがじっと下を向いている姿が映っていた。肩が小さく揺れている。

「大丈夫?もしかして、そっちが、おばあさんになったとか?」

 太一が心配そうにそういうと、なぎさは顔を上げて大笑いした。文字通り腹を抱えて。そして、その笑いはなかなか収まらなかった。もしかしたら、おばあさんではなく、別の妖怪みたいなものに、なってしまったのかもしれない。

 太一は慌てて箱のふたを閉めようとした。その手になぎさは笑いなが自分の手をのせた。

「太郎さんの、そういうところが好き。」

「はい?」

 太一は唐突に告白されて、椅子から落ちそうになるほど驚く。なぎさはそういった後で、再び笑い出した。

「そういう、まじめで、常識屋で、臆病で、優しいところ。」

 なぎさは笑いながら、とぎれとぎれにそういうと、箱を手に取る。そして、それを傾けると中身を太一に見せた。

 入っていたのは貝殻だった。小さな桜貝が二枚。箱の中で寄り添うように並んでいた。


 なぎさはそれをそっと手のひらにのせた。そして、小さく微笑んだ。太郎はその横顔を知っていた。

「もしかして、乙姫?」

 なぎさは頷く。 

竜宮城から帰るといった時、乙姫は帰る理由を尋ねた。太一は家族や仕事を理由にしたと記憶している。乙姫は、太一を引き留めなかったが、帰り際にいつでも戻ってきていいといった。

戻ってきてほしい、待っている、といった。

「一世一代のプロポーズだったのに。」

 なぎさはそういって、ため息をついた。太一は驚いて椅子から立ち上がる。

「えっ?分かりにくいなあ、それ。」

「だって、私のこと好きでしょ?」

 太一は立ったまま姿勢を正すと、「はい。」と答えた。

 二つの桜貝を見たら、きっと気が付いて戻ってきてくれる。そう思って、箱に入れてわたした。乙姫は、地上と海の中では時間の速さが違うのを知っていたし、太郎が陸に戻っても、すぐに海に帰ってくると思っていたのだ。

「でも、開けたらだめって、いったよね?」

「ここではだめって、いったの。目の前で開けられたら、恥ずかしいでしょ。」

 太一はがっくりとうなだれる。それを知っていたら、千年以上もあちこちを移動しながら暮らすこともなかったのに。しなくていい苦労をした自分に、太郎はため息しかなかった。

「けど、どうして今頃?」

 太一は脱力するように椅子に座る。

「マリアンヌが、ようやくあなたを見つけてくれたの。」

「マリアンヌ?」

 なぎさはスカートのポケットからスマートフォンを取り出すと、太一に写真を見せた。そこには大きなウミガメが映っていた。

「もしかて、俺がのった亀、とかじゃないよね。」

「その亀の子孫よ。」

 太一はその亀をまじまじと見つめる。

「亀、メスだったのか。重たくなかったのかな。俺。」

 太一の独り言に、なぎさは再び笑った。太一はなぎさと亀を交互に見ながら、ほっと息をついた。

 なぎさは桜貝を手に取ると、一枚を太一の手のひらにのせた。そして、もう一枚を自分の手のひらにのせる。

「ここから、ここで、私と時間を進めることができるとしたら、どうする?」

 なぎさは桜貝に目を落としたままいった。太一も手のひらの桜貝を見つめる。

ずっと昔に毎日聞いていた、波の音が聞こえたような気がした。普通に時間が流れていたあの場所の空気が、ふと自分の周りを取り巻いた気がした。

「そうだなあ。俺、この場所が気に入っているから、それもいいかも。」

 なぎさは小さく笑った。

「そういう、順応力が高いところも好き。」

 なぎさは、桜貝がのった太一の手のひらを自分の方に向ける。そして、その手のひらに桜貝をのせた自分の手のひらを重ねた。

 二人の手のひらから、やわらかい波音がした。太一の手の上で、なぎさの手がすらりとした女性の手に変わった。


 顔を上げた太一の目の前に、初恋の人が笑って座っていた。



おわり