小説

『衝動』さくらぎこう(『誰も知らぬ』)

 

 ドクドクと心臓の音がする。

「ごめん、ほんとに悪かった!」

 目の前にいる夫は平身低頭だ。もう2度としないと懇願している。浮気が発覚したのは初めてだがこれほど狼狽えている夫を見たのも初めてだった。浮気相手は私の良く知っている沙羅さんだ。彼女にも家庭があり我が家と家族同士の交流があった。彼女は夫と関係を持ちながら私とお茶を飲み、子育ての悩みを話し、何でもない話で笑い合った。それが悔しかったし、許せなかった。


夫と出会ったのは23才になったばかりの時だ。父の友人の紹介だった。私は結婚願望を早くから持っていて、若くて美しいうちに結婚したかった。それは母の影響があったからだ。20才で結婚した母は父の理解の元、結婚後も自由で豊かで美しかった。そんな結婚に憧れていた。

両親に「早く結婚したい」と気持ちを伝えて間もなく、父の友人から申し分のない男性だと紹介された。結婚式はそれから3カ月後だった。


結婚して10年になるが、彼を選んで良かったと実感する日々だった。条件だけから入った結婚だったが私は結婚生活に何の不満もなかった。夫は感謝の言葉を掛け続けてくれた。私もそれに応えようと良い妻良い母であろうとしてきた。結婚してから愛が芽生えたとも言える。

「何に対しても一生懸命な君が好きなんだ」

夫の言葉が嬉しくて、彼の気持ちに応えたいと思い続けた10年だった。それが間違っていたということではない。私は結婚前から裏切られていたわけではなく彼の裏切りは5か月前からだった。

最初のきっかけはどちらが誘ったというわけではなく互いの「衝動」だったと言う。私は衝動などというものを信じたくなかった。衝動のその時、どこかにいってしまった理性は妻も幸せな家庭も連れ去り、その後に起こる様々な問題など考えずに行動したことになる。獣のような行為だ。強姦と違うのは相手の同意があったということだけだ。理性を感じないその言葉は、誰もが長い年月をかけて積み上げてきたものを一瞬にして崩してしまう力を感じた。獣と違い人間なら責任を取らなければならない。だから自制する。簡単に理性を捨てたことが許せなかった。

夫は育児の手伝い、保育園の送り迎えなども可能な限りしてくれた。私は妻として友人やママ友などからの羨望の的だった。これまで不満の欠片もなかったし幸せだった。だからいくら考えても分からなかった。男とはそんなものだと割り切ることなどできず、許すことができなかった。それは沙羅さんとの関係があった5か月間、私がまったく気づかなかったことにもある。

私の欠点を夫が不満に思っていたのかも知れない。それに気付かず幸せ奥様として呑気に暮らしてきた。沙羅さんとの仲を知っていた人は陰で笑っていたに違いない。私の知らないところで2人が快楽に溺れていたのだ。掻きむしるような悔しさがあった。

その夫が見るに忍びないほど狼狽え、懸命の訴えを繰り返した。私と家庭をどれほど大切に思っているか。この気持ちだけは信じて欲しい。妻や家庭にいっさい不満はなく君にはずっと感謝している。悪いのは自分なのだと強調した。それはきっと本心なのだろう、と思う。私は深く傷ついていたが夫のその言葉は信じられると感じた。


考える時間が欲しかった。すぐに離婚したいわけでも、かといって許し忘れると決めたわけでもなかった。少し距離を置いて考えたかった。幼稚園児の息子は子ども心に両親の間で起こった異常事態を敏感に感じとっているようだ。不安を抱いているのが分かり過ぎるほど分かる。何の罪もないのにと不憫に思うが、自分自身の感情のコントロールができなかった。

考える時間が欲しくて実家に戻ったが、私はまったく考えることをしなかった。というより何も考えたくなかったのだ。受け入れてくれた両親の元で傷ついた心が癒えるのをじっと待っていたのかも知れない。1カ月になろうとした頃、母に言われた。

「離婚する気がないのなら、早く帰った方がいいわよ」

 離婚しないと決めたわけではない。まだ心の整理がつかないのだ。

「裏切られた苦しさに浸っているばかりでは、前に進めないわよ」

前に進む、ってどういうこと、と訊いた私に「離婚するってこと」と母は答えた。

母の言葉で気づいたことがある。家を出てしまった以上離婚するか、しないか二者択一しかないのだ。情けないことに私は1人で生きていく強さに欠けていた。実家に身を寄せていて生きていくための覚悟がまだなかったのだ。結婚前も結婚後も両親や夫に支えられて生きていた。自立してこなかった自分自身の甘えと弱さを実感した。今は裏切られ失意の底にいるが夫は少なくとも10年間は誠実で豊かな生活を私たちに与えてくれた。母の言うように結局離婚をしないのなら、ずるずると長く家を空けない方が良いのかも知れない。なにより私はまだ夫との生活の未練を捨てきれずにいた。離婚する勇気のない私は子供のためにと言い訳を用意し、元の家に戻っていくような気がしていた。


 突然の電話だった。私が実家に帰っていることを知った高校時代の友人、加奈子からだ。

「松宮君って覚えてる? 亡くなったの」

 松宮君は同じ高校の同級生の1人だ。学校からの帰り道、松宮君と出会うことがあった。帰る方向が一緒だったからだ。学校ではほとんど話すことがなかったが道で出会うとどちらともなく声を掛け一緒に帰ってきた。松宮君との下校は高校が終わるまで続いた。

松宮君は少し変わった男子だった。本人が言うには、家が貧乏なので友人との会話についていかれないのだという。ぼそぼそと話す彼の話を私はいつも相槌を打ちながら聞いていた。いつだったか将来についての話をしたことがある。「僕は学者になりたい」と言った。私が「どうして?」と訊くと法律に興味があるのだと答えた。

「弁護士や検事ではなくて、学者?」

「本が好きで、調べることが好きだから」

 確かに松宮君は口下手で人との触れ合いも苦手だ。弁護士や検事のような職業は向いていないのかもしれないと思った。

苦学の末、松宮君が大学院も卒業する年に私の結婚が決まった。


あと一週間ほどで結婚式だという時、友人たちがささやかな飲み会を計画してくれた。同窓会も兼ねて同級生には全員知らせることになったが、その中に松宮君もいた。

会がお開きになる少し前のことだった。酔いを醒まそうとふらつく足で会場の外へ出た。

私は少し飲み過ぎていた。どれほど許容な結婚相手でも結婚したらこんなになるまで外で飲み酔うこともできなくなるだろうと、ぼんやり考えていた。

「僕じゃダメ?」

 近くで声がした。松宮君だった。突然かけられた言葉の真意が理解できず返事を出来ずにいた私に、彼はもう一度言った。

「結婚するのは僕じゃダメ?」

 酔いがスーッと覚めた。

「え、聞いてない?」

 私は混乱していた。一週間後には結婚式なのだ。「揶揄ってる?」と言った私に彼は首を小刻みに振り、これほど早く結婚を決めるとは思わなかったのだと言った。

「そうよね、早いよね。でも結婚するんだ」

 あの時の私を見つめる松宮君の眼が忘れられない。冗談で言っているのではない、本気でずっと好きでいてくれたのだと分かったからだ。それでも、あと1週間後に結婚式を挙げるのだという事実はどうすることもできないと思った。私は結婚を前にして少しブルーになっているが、相手の男性に不満があるわけでも嫌いでもない。愛しているかと聞かれれば「これから、育てていく」と答えていただろう。

 どうして笑い飛ばしてしまわなかったのだろう。軽いジョークと受け止めて二人で笑ってしまえば済んだことかも知れないのだ。それができなかった。「遅いよ、もう」と言いながら私は泣いていた。松宮君とは付き合っていたわけでもない。結婚1週間前に告白されたとしても「それ冗談だよね」で終わる関係性だ。

私は突然の告白による自分自身の涙に動揺していた。これはきっとマリッジブルーのせいだと。気持ちを無理やり落ち着かせようとした。もう少し早く言ってくれたとしても気持ちに応えられたかどうかは分からないのだ。映画やドラマとは違うのだ、と自分自身に言い聞かせていた。

飲み会の出席者はバラバラに解散していた。私はすっかり酔いが覚めていた。頭の中に居座っている混乱を抱えたまま松宮君の視線を背に、タクシーに乗り込んだ。

家に帰って来ても興奮が治まらなかった。


あのとき、どうしてあんな行為に出たのか今でも分からない。自分自身を説明できないのだ。私は一度帰った実家をそっと抜け出した。自転車に乗り松宮君の家に向かったのだ。深夜1時を回っていた。松宮家に行くには田畑の多い地区を通り抜ける必要があった。田舎の道は漆黒だ。夢中で自転車を漕いだ。あの時のことを言葉にするとしたら、「衝動」という言葉がぴったりだった。私は衝動的に何も考えず月灯りを頼りに松宮家を目指して自転車を漕いだ。松宮君は大学から東京暮らしだった。母親が亡くなった後は無人の実家だけが残っている。

 漆黒の先に松宮君の実家があった。衝動の末にたどり着いた家は静かに佇んでいたが家から明りが漏れることはなかった。松宮君は帰っていなかったのだ。居酒屋の裏で彼と分かれたのは3時間も前のことだ。電話番号も聞かずに別れたことを後悔した。あのまま東京へ帰ってしまったのだろうか、どこか別の場所で夜を過ごそうとしているのか、乱れる心を落ち着かせる方法が見つからず、ただただ立ちすくんでいた。

 田畑の向こうの東の空がぼんやりオレンジ色に染まりだした頃、私は帰らなければと気付いた。衝動の悪魔に解放されたのだ。今帰れば両親にも気づかれずに部屋に戻れる。


 あれから10年が経過していた。あの日の衝動を松宮君は知らずに亡くなった。彼の死因は自死だった。無人となった実家で亡くなり、自死の理由を知っている者はいなかった。

松宮君は同窓会には毎回参加したという。大学院を卒業し、さあこれからだという頃からだんだん元気がなくなっていったのだと加奈子が言った。

家族のいない彼のために同窓生で友人葬をすることになり、集まったのは5名だった。古い家だったが家の中は片付けられていた。すでに火葬され骨となり骨壺に入った松宮君を、彼が生前使っていたであろう小さな勉強机の上に置いた。私たちはコンビニで買って来た缶ビールで献杯をした。

「悲しいね」と加奈子が言った。「好きな人って、いなかったのかな?」原田君がぽつんと言った。誰も松宮君の近況を知らないのだ。私だけが言葉の重みを受け止めながら沈黙していた。

あれから10年、気持ちに応えることができなかった私を恨んでいたのだろうか。それとも新たに好きな人ができたのに上手くいかなかったのだろうか。

どちらも違う気がした。

たった1人の肉親である母の死は大きかったに違いない。軟弱な私には想像もできないほどの努力を積み重ねやっと目的に近づいたのに、それを喜んでくれる人がいない寂しさがあったに違いない。松宮君は自分のためにこれ以上頑張れなかったのではないのか。

そんな気がした。

松宮君はあの衝動を知らずに亡くなった。あの日、私の中にあったのは夫と同じ「衝動」だった。理由なんてなく説明もできない。突然の突き上げるような感情を私も10年前に経験していた。

 愛は結婚生活の中で育んでいくものだと信じていた。それが間違いだとは思っていない。夫との間で育んだ信頼や愛情は私の中で確実に成長していた。だがあの時のあの衝動も私なのだ。私そのものなのだ。理由などない。私の中に潜んでいたものが突然暴れだし突き動かされるように逢いに行った。あのあと結婚を止め家に居られなくなったとしても、私はあの衝動を抱えたまま生きていかれるような気がした。私はあの行為を恥じてはいないのだ。

夫を責めることなどできない。夫は私ではなく沙羅さんとの間に経験した衝動を後悔していないはずだ。私に悪かったと謝ったが、それは私を傷つけたことに謝罪したのだ。悪いのは自分だと何度も言うことで沙羅さんを守ったのだ。

私は沙羅さんに敵わないのだと思った。


母に離婚すると伝えた。母は「そう、決めたの?」と、小さい息をひとつした。

 あの衝動のとき、もし松宮君があの家にいたら人生は変わっていただろうかと思うことがある。だがもう止めよう。私は前に進むために仕事を探し歩き出しているのだから。了