ある朝、目が醒めると、知らない男と裸で抱き合っていた。ズンとみぞおちに氷の棒でも通るような恐怖を覚えながら、南出秀一の脳裏はこの男を検索にかけた。「金髪、三十歳くらい、色白、顔は整っている」――しかし誰もヒットしない。この男はいったい何者だ。
秀一は飛び上がりそうな衝動を抑えながら、男に絡みついた手足をジェンガのように用心深く外した。一瞬ホテルかとも思ったが天井や布団の具合から察するにどうやら自分の部屋のようである。
「う、うん……」
ベッドから離脱すると男が寝返りを打った。はだけた毛布からのぞく男の肢体。パンツ一丁だ。信じられないことに自分自身も――。
脱いだであろう衣服を探したがどこにも見当たらない。というより信じられないくらい部屋が散らかっている。食べかけのピザに、空のウイスキーの瓶。何故かトランプのカードが床にばらまかれ、棚に閉まっておいたはずのサッカーボールやテニスラケットまで散乱している。昨日の晩いったいここで何が起こったのか。記憶を手繰り寄せるが頭が痛くて何も思い出せない。
秀一はとりあえず寝室から脱出しようと忍び足で扉に向かった。その途中プチッと何かを踏んだと思ったらポップコーンだった。
「奈津子~?」
リビングに逃げ込んだ秀一は、本来は隣で寝ていたはずの細君――南出奈津子の姿を探した。てっきりキッチンで朝食の準備でもしているかと思ったが、食卓には何も並んでいない。土曜日の朝。時計の針は10時を回っている。買い物に出掛けていたとしても不思議ではないが、いつもは書き置きを残すか携帯電話にメッセージをよこす。そうだ、携帯電話だと寝室に戻ろうとすると、不意に扉が開いて男が出て来た。
「おはよう」
何故か男はタメ口だった。年下にも見えるが関係性が判らない。
「お、おはざす」
上司に媚びへつらうような慎重な姿勢で秀一が挨拶を返す。
「ゆうべはスゴかったね」
男が言ってキッチンに回る。「なにが?」と言いたい気持ちを必死に堪えながら、秀一は男が自分のコップを勝手に使って水を飲むのをただ黙って見ているしかなかった。
「何か作ろうか?」
「え? い、いやぁ……」
男は許可も無く冷蔵庫を開けると、五本一束になった魚肉ソーセージを取ってリビングに向かった。
「あ~あ、気持ちのイイ朝」
吐いた台詞を体現するように、男は二人掛けのソファにどかっと腰を下ろした。ボクサーパンツ一丁のまま。
すごく嫌だった。秀一は文句の一つでも言ってやろうと思ったが、何を隠そう自分もトランクス一丁である。秀一は勝手にテレビを点ける男を後目にそろりと寝室に戻った。
秀一は適当に衣服を身につけると、場合によっては警察でも呼んでやろうかという意気込みで携帯電話を探した。しかしあるのはゲーム機のコントローラーとか潰れたチューハイの缶ばかり。己の記憶に頼ろうにも昨日のアルコールのせいか靄がかかって何も思い出せない。確かに仕事には行った。そして定時で会社を出た。そこまでは憶えている。だが問題はその後だ。その後どうやって家に帰ったのか。どうしてこんなに部屋が散乱しているのか。何よりあの男はいったい誰なのか――。
“ピンポーン”
いきなり部屋のインターフォンが鳴った。刹那に「奈津子か?」という期待が膨らんだが、鍵を持っているのにチャイムを鳴らすのは変である。
「ハーイ?」
とリビングからあの男の声。何故あの男が応対するのか。そもそも半裸ではないか。秀一は慌てて玄関に向かった。
「ガスの点検業者だって」
迎え入れながら男が秀一に言った。よくもまぁその格好でというツッコミに始まり、もうどこからツッコんでいいのか判らなくなった秀一はただただ唖然とした。
「ガスの保守点検でして、5分ほどで終わります」
靴を脱いで揃えながら中年の男が言った。青い作業着に黄色の腕章。確かにガスの点検業者のようである。
「キッチンはそこを左ね」
何故か半裸の男が点検業者を案内する。得体の知れない男たちについて行くことしか出来ない秀一。
点検業者の男はキッチンに立つと、コンロの火を付けたり消したりしてガスのチェックを始めた。半裸の男は魚肉ソーセージを咥えたままソファに座り、テレビで韓国ドラマの再放送を見始める。秀一は早く携帯電話の捜索に戻りたかったが、見知らぬ男が二人もいるからリビングを離れることが出来なかった。
「ねぇ~」
半裸の男の声。どっちが呼ばれたのかと、秀一と業者の男が同時に彼を見る。
「終わったらシャワー浴びていい?」
業者の男が困惑気味に秀一を見る。秀一は「え、あー」と濁った返事。業者の男は気を遣っているのか単なるやっつけ仕事なのか、肩から掛けたタブレット端末を手際よく操作してすぐに点検作業を終えた。
「ハイ、では、こちらにサインを――」
業者の男がタブレット端末を秀一に示す。指で端末に直接サインをするようだ。
「終わった? 終わった? シャワーOK?」
半裸の男が業者に訊く。
「えぇ、シャワー、OK」
業者の男が調子を合わせるように答える。秀一はその場の雰囲気を取り繕うような笑みを浮かべながら、内心は早く帰れよと冷徹な感情を胸に業者を玄関までアテンドした。
「それじゃあ、どうも、お邪魔しました」
業者の男が靴もろくに履かずに急いで玄関を後にする。妙な勘違いをされていなければいいがイヤきっとされているだろう。秀一が嘆息混じりに玄関の扉を閉めると、ちょうど脱衣所のほうからシャワーの音が聞こえてきた。
人の家のシャワーを勝手に借りる男。本来ならば通報案件だが、なにせ今は携帯電話が手元に無い。秀一は男がいないのをこれ幸いと家中の捜索を始めた。彼の所持品が見つかれば身元が判るだろうし、先に自分の携帯電話を発見出来れば、妻とコンタクトが取れる。最悪、警察も――。
目を離すまいと先程までは行きにくかったトイレの中やベランダ、彼のいたソファの周辺から寝室の毛布の中まで探したが、何も出て来ない。いったいどうなっているのか。どうしてこんな目に遭うのか。秀一は今にも泣き出しそうだった。
するとその時だった。
“ガチャ”
と玄関の音が聞こえた。奈津子か。いや奈津子だ。
秀一はわき目もふらず玄関に向かった。
「奈津子ォ!」
秀一が玄関の前に立つと、両手に買い物袋を持った奈津子がちょうど靴を脱ぎ終えたところであった。
「奈津子ォ」
「なに? どうしたの?」
「朝からどこ行ってたんだよォ」
「どこって、見りゃ分かるでしょ?」
奈津子がスーパーで買ってきたものを掲げると、安堵からか秀一の頬を光るものが伝った。
「なに? 泣いてんの?」
「べ、別に泣いてなんか――」
奈津子は要領を得ない夫を不審がりながら室内に上がると、当たり前のようにキッチンに行って、買い物袋を下ろした。
「聞いてくれ奈津子! いま風呂場に知らない男がいるんだ!」
「知らない男?」
「あぁ! 30歳くらいの、金髪の男で――」
「あぁ、あの人。昨日あなたが連れて来た――」
「つ、連れて来たァ?」
買って来た物を冷蔵庫に詰めながら、奈津子が淡々と続ける。彼女が言うにはこうだ。昨夜、秀一はあの男と肩を組みながら帰って来た。誰なのかと訊くと、馴染みの居酒屋で意気投合した青年だという。それから「酒だ、酒だ」と言って、寝室に二人で向かった。私がお酒を持って行くと、あなたたちはトランプをやっていた。負けたほうが一杯飲むんだと。次第にゲームはエスカレートしていって、部屋で相撲をとったり、ベッドでトランポリンをやったり、何でもゲームに見立てて、二人は対戦した。私が「近所迷惑だから」と注意すると、あなたは私に「出て行け」と言って引っ叩いた。私は居場所がないから、仕方なく駅前のホテルに泊まった。朝になって帰って来ると、あなたたちは仲良く寝ていた。客人の分のご飯も用意しなきゃと思って、朝から買い物に出掛けていた。そんなところだ、と――。
馴染みの居酒屋で出会った青年。秀一は昨日、あの青年と意気投合した記憶はおろか、飲み屋に行った記憶さえ無い。その事実に、ぞっと背筋が凍った。
「あなたはね、いつもそうやって知らない人を家に連れて来るの」
「い、いつも?」
「えぇ、あなたは昼まで寝ているから気付かないでしょうけど。いつもは起きた人が慌てて帰っていくんだけど、今日はそうじゃなかったみたいね」
そう言って奈津子は朝食の準備に取り掛かった。サラダでも作るのか黙々と野菜を切っている。その表情に漂っているのは怒りではなく哀愁である。彼女の右頬は秀一が引っ叩いたからなのかほんのりと赤みがかっている。
酒癖が悪いのは自分でも判っていた。溜まった仕事の愚痴を吐き出したいがために週末は馴染みの店で酒をあおった。だが、まさか毎週のように他人を家に連れ込んでいるなど――妻に暴力を振るうなど――。
「俺、もう酒は飲まない」
「それもいつものセリフ」
「いや、今回は本当だ」
改悛の情が湧いた秀一は、棚から焼酎やウイスキーを取ってキッチンカウンターの上に乗せると、妻の目の前で中身を全て流しに捨てた。こりゃあ本気だと包丁を持つ奈津子の手も止まる。秀一はそんな奈津子を背中から抱き締めた。
「ゴメン……」
妻の右頬に触れながら秀一が言った。奈津子は触れた秀一の手を下ろすように握って「いいの……」と答えた。流れる二人の時間。
「あ~ら奥さん帰ったの?」
とそこへバスタオルを巻いた例の男がリビングに入って来た。
「え、えぇ」
「昨日はどうもゴメンなさいねぇ~お恥ずかしいところお見せしちゃって」
「いいえ」
「あ、そういやアタシの着ていたものって――」
「あぁ、なんかビチョビチョだったから、昨日の夜に洗って、今朝まで干してたんです。出掛ける前に畳んだから、こちらに――」
そう言って奈津子は寝室に向かった。その背中を「あ~ら洗ってもらっちゃったのォ? ごめんなさいねぇ」と言って男が追う。
さっきまでは不審者扱いしていたが、そもそもは自分が家に招き入れた客だ。秀一の中で彼に対する批判的な態度はもはや鳴りを潜めた。所在なげな秀一はキッチンで空になった酒瓶やら紙パックやらの処分に取り掛かった。
そうして秀一が寝室に入って来ないことを確認すると、奈津子は友人の白鳥渓に感謝を告げた。
「ケイ君ありがとね。さすが元役者」
「それより旦那さんどう? 反省してる?」
「バッチリ。もう酒はやめるって」
「よかった。オネエを演じた甲斐があったよ」
奈津子は白鳥に隠しておいた衣服を渡すと、自らもクローゼットの鏡で右頬をチェックした。
「これチークなの。殴られた痕に見えるよう塗るのが大変だった」
「旦那の携帯電話を隠しておいたのも正解だったね。正直ガスの点検業者が来た時はヒヤヒヤしたけど――」
「ガスの点検はゴメン正直忘れてた。部屋もちょっと散らかし過ぎちゃったかな」
「まぁこれで酒をやめてくれるなら安いもんだよ」
「そうだよね。それに、あの人にはまだ伝えてないんだけど――」
そう言って奈津子は視線を自らのお腹に落とすと、新しく宿った命を崇めるように優しくさすった。