小説

『醜くなかったアヒルの子』五条紀夫(『みにくいアヒルの子』)

 

 デンマークの首都コペンハーゲンの外れにある草木に囲まれた大きなお屋敷。僕は、そのお屋敷の庭園で生まれた。イタドリの葉が茂る庭園はまるで森の中のようで、人目に触れない場所がいくつもある。そのうちの一つに、僕たちの棲み家があった。

 ママはまだ卵を温めていた。四つある卵のうち、僕が一番初めに殻を破って出てきた。そのとき、ママは僕にこう言った。

「まあ、とても綺麗な黄色い産毛。なんて可愛らしいアヒルちゃんでしょう」

 そう、僕は――

 醜くなかったアヒルの子だ。

 その日のうちに残りの卵も割れていった。二つ目の卵からは女の子が、三つ目の卵からは男の子が、それぞれ出てきた。ところが、四つ目の、大きな卵は、何日経ってもかえらなかった。

「ママ、きっとこの子は恥ずかしがり屋なんだよ」

 僕が慰めの言葉をかけると、ママは微笑んだ。

「あなたは偉い子ね」

 やがて大きな卵にもヒビが入り、中から男の子が出てきた。ただし、その子は、ひどく醜かった。灰を被ったかのように全身薄汚れている上に、僕たちより一回りも二回りも大きい。

 ママはその姿を見て怯えた。すると、お見舞いに来ていたアヒルたちがママに言った。

「そいつは七面鳥に違いない。アヒルと違って七面鳥は泳げないから、池に突き飛ばしてみれば良い」

 ママは不安げな顔をしながらも言い返した。

「この子は、きっと泳げます」

 そして、醜い弟を池へと連れだした。

 僕たちアヒルは泳ぎが得意だ。特に僕は誰よりも上手だった。妹や上の弟はいつも僕のことを羨んだ。

「お兄様は素晴らしいわ」

「さすがアヒルの中のアヒルだね」

 すいっと軽く泳ぐだけで称賛の言葉が溢れる。

 それに対して醜い弟は、ずっと池のほとりで震えていた。妹たちはその姿を笑った。ママも困っている。

 僕は醜い弟のもとへと向かった。

「ほら、こうやって泳ぐんだ」

 手本を見せてやると、醜い弟は恐るおそる水面に足をおろした。それから当然のように、すいすいと泳ぎ始め、いとも簡単に僕を追い抜いていった。

 ママが、その様子を見て安堵の息をもらす。

「あの子はやっぱりアヒルの子だわ」

 醜い弟は、僕の目の前で旋回し、笑顔を見せた。

「兄さん、ありがとう。泳ぐのは簡単だったよ」

 その嬉しそうな顔が面白くなくて、僕は短い相槌だけを打って別の方向へ泳いだ。妹と上の弟が僕の後についてきて、ひそひそと醜い弟の悪口を言った。とても馬鹿らしい悪口だった。

 醜い弟はアヒルと認められたけれど、やはり醜いので、次の日には庭園の仲間たちから悪戯されるようになった。アヒルはもちろんニワトリやガンまでもが醜い弟をつついたりした。その度に醜い弟は、キューキューと、奇妙な声で鳴いた。妹たちも、楽しそうと言って、一緒になって醜い弟をからかった。

 僕はそんな遊びに興味がなかったので密かに池で泳ぐ練習をした。長兄として誰よりも、少なくとも末弟よりも、速く泳げるようにならなければならない。

 しばらくすると、醜い弟が僕のもとに来て、キューキュー鳴いた。何か言いたいことがあるようだ。けれども僕は、こいつに練習しているところを見られたくなかったので、冷たくあしらった。

「みっともない鳴き方はやめろ。お前はただでさえ目立つのだから鳴き方くらいはアヒルらしくしろよ」

 ガーガーと、手本を見せても、醜い弟は、キューキューと、高い声でしか鳴けなかった。

「兄さん、ごめんなさい」

「なぜ謝るんだ」

「僕は駄目な弟だから」

「……そうだな。お前は僕に比べれば駄目な奴さ」

 醜い弟は思い詰めた顔をした。

 ある日、僕はママのために小魚を捕まえた。ママは小魚が大好物だ。ところが、それはお屋敷の飼い猫に奪われてしまった。猫は鳥たちの天敵だ。勝ち目などない。悔しいけれどご馳走は諦めよう。

 そう思ったとき、醜い弟が大きな羽を広げて猫に襲いかかった。突然のことに猫は驚いて、小魚を落として逃げていった。

「兄さん、取り返したよ」

 こちらの機嫌を窺うように醜い弟は笑った。

「お前が取り返したならお前が食べれば良いだろ」

「僕は魚より水草が好きだからいらないよ。この小魚は、兄さんに、あげるよ」

 あげる、という言葉が腹立たしかった。僕は差し出された小魚を乱暴に受け取って池に投げ捨てた。

 醜い弟は何も言わなかった。

 猫を醜い弟が退けたという噂は、瞬く間に庭園内に広まった。醜い弟を褒める者などいなかった。むしろ誰もが、気味の悪い化け物、と思うようになった。しまいには、頑なに可愛がろうとしていたママさえも愚痴をこぼすようになった。

「どうして、この子は醜いの……」

 その日の夜遅く、庭園を囲む堀へと向かう醜い弟の姿を見つけた。僕はその背中に静かに声をかけた。

「どこへ行くんだ」

 醜い弟は振り返らずに返事をした。

「兄さん、僕はもうここから出ていくよ」

 僕は首を横に振った。

「それは駄目だ。僕はいつか、お前よりも速く泳げるようになるし、猫に勝てるようにもなる。お前は、僕のその姿を見なければならない」

「だけど、ここに僕の居場所はないんだ」

 キューキューと鳴く醜い弟を見つめながら考えを巡らせる。そして、僕は言い放った。

「それなら、僕も一緒に庭園を出よう」

 月の綺麗な夜だった。

 僕と弟は、堀を渡り、外の世界へと旅立った。

 

 遥か西には教会と湖があるらしい。そこを目的地にしようと弟に提案した。広い水辺があるならば他の仲間たちがいるはずだ。

 ところが、弟は暗い顔をした。

「また、いじめられてしまう」

 僕は首を傾げた。

「お前は、いじめられていたのか?」

「いじめられていたよ」

「……僕も、お前を、いじめていたか?」

 弟は気まずそうに視線を逸らした。

 それが答えだった。

「すまなかった。そんなつもりはなかった。いや、これでは言い訳になってしまうな。僕は弱くて冷たい態度をとってしまったんだ。すまなかった」

 頭を下げると、弟は微笑んだ。

「兄さんは、こうして一緒に旅をしてくれている。とても頼もしいアヒルだよ」

 違う。お前に負けたくないだけだ。

 そう言おうと思ったけれど、やめておいた。

 アシの葉を掻き分けて進む。

 僕たちは何日も森の中を彷徨っていた。否が応にも協力せざるを得ない。共に餌を探し、寝床を探し、ひたむきに西を目指した。

 そんな日々を送っているうちに、僕の黄色い産毛は抜け落ちて、白い羽根に生えかわった。けれども弟は一向に灰色の産毛のままだった。

 ――もしかすると弟は。

 そのとき、進行方向に小さな池が見えた。そこには首の長い白い鳥が何羽もいた。

 僕は、なぜかその鳥たちの姿を弟に見せてはいけないと思い、咄嗟に違う方向を示した。

「あっちへ行こう。休める場所を探そう」

 道を逸れてしばらく歩く。すると、一軒の農家があった。僕と弟が扉の前に立つと、中から人間が出てきて室内に迎え入れてくれた。これでアヒルの卵を食べられる、とのことだった。もちろん僕たちは卵を産めない。明らかに勘違いされている。けれども疲れ切っていた僕たちは、ここに滞在することにした。

 農家での生活は快適だった。十分な餌と、柔らかな寝床を与えてもらったのだった。

 ただし、少し厄介な飼い猫がいた。そいつは事あるごとに僕たちを邪魔者扱いした。とはいえ、その猫だって家の主という訳ではない。僕たちは何を言われても彼を適当にあしらった。

 けれどもある日、無視できない事態に陥った。猫がこう言ってきたのだ。

「お前ら、本当に卵を産めるのか?」

 その問いに弟は素直に答えてしまった。

「僕たちはオスだから産めないよ」

 猫は盛大に笑った。

「卵を産めないんじゃ、とんだ役立たずだ。爪を研いだり、鼠を捕まえたりもできないんだろ?」

「でも、兄さんも僕も、素早く泳げる」

「ここに池はないから泳げても意味がない。それにお前らアヒルは鳥のくせに飛べもしない。何もできない出来損ないだ」

 僕は弟を下がらせ、猫の前に立った。

「君は人間の命令で鼠捕りをしているだけだろ。僕と弟は森の中で自分たちの力で生きてきた。外の世界を知らない貧弱な君とは違うんだ。だから僕たちは負けない。試してみるか?」

 凄むと、猫は狼狽えた。

 そんな彼に更に小声で言う。

「ちなみに……弟は、飛べるよ」

 猫は悔しそうに負け惜しみを口にした。

「ケッ、生意気な。いずれにしろ卵を産めないことはいつか人間に知られる。そうなったら、お前らは絞められるからな」

 猫の言う通りだった。ここに長くはいられない。

 次の日、僕と弟は再び森へと旅立った。

 外は寒くなっていた。冬が近づいているのだ。思えば、庭園を離れてから長い時間が過ぎた。

 西への道中、いよいよ弟の羽根も生え変わっていった。成鳥となった弟の姿は、やはり、僕とは違うものだった。

 やがて、僕たちは大きな教会に辿り着いた。

 教会の向こう側には湖があり、そこには、いつか見た首の長い白い鳥たちの群れがあった。

「兄さん、あの美しい鳥は?」

「あれは……」

 躊躇いながらも、僕は、告げることにした。

「あれは、白鳥だよ。お前はあの群れへ行くが良い」

「どうして? 僕はアヒルだ」

「違う。実はずっと前に気付いていた。でも、共に競い合う兄弟という関係を失いたくなくて言いだすことができなかった。お前は、お前は白鳥なんだ」

「僕は醜いアヒルだ。兄さんの弟だ」

 白鳥の群れが羽を広げて舞い上がった。

 僕はその姿を見上げた。

「白鳥は冬になれば暖かな場所を求めて南へ飛び立つ。急げ。お前も行くんだ」

「それなら兄さんも一緒に行こう」

「アヒルは飛べない。だからお前だけで行け」

「嫌だ!」

 本当は、僕も、嫌だった。

 この旅路は僕のためのものだった。いまとなっては理由など知りようがないけれど、白鳥の卵が庭園に紛れ込んだ。平凡な日常に物語の軸となる種が蒔かれたのだ。弟は生まれたときから特別で、そんな弟と共に過ごすことで、普通のアヒルである僕も特別な存在になり得た。けれども弟にはより輝ける場所がある。離れたくない。まだ一緒にいたい。

 ――それでも、言わなければならない。

「お前は白鳥たちと南へ行け」

 ――行って欲しくない。

「羽ばたけ」

 ――行かないでくれ。

「羽ばたくんだ」

 ――僕を置いてかないでくれ。

「さあ、空へと舞い上がれ!」

 弟は泣きだしそうな顔をしながらも、小さく、それでいて力強く、頷いた。そして空を見上げ、大きな羽を広げた。

 強い風が吹く。弟の体は宙に浮いた。その体は高く舞い上がり、たちまちのうちに遠くなっていく。白鳥の群れは弟を受け入れてくれたようで、綺麗な隊列が組まれていく。僕はその様子をじっと見つめた。白鳥の群れは何やら言葉を交わすと、僕の遥か頭上で、繰り返し大きな円を描いた。

 キューキューと、鳴き声が聞こえた。弟の声だ。僕は力いっぱい羽を振った。白鳥たちに向かって羽を振り続けた。やがて、白鳥の群れは南へ旋回し、見えないほど遠くへと旅立っていった。

 僕は、羽を下ろし、後ろを振り返った。

 それから、たった一羽、庭園へ帰るために深い森へ向かって歩き始めた。



 (了)