繁華街の路地裏はビルの谷間になっていて、昼間でも薄暗い。
祐介は壁に寄りかかり、咥え煙草でスマホを眺めていた。スマホには次の仕事の連絡が入っていた。この町で待機して指示を待て、とのことで時間を潰している。
表通りから近づいてくる足音が聞こえ、祐介は慌てて煙草を携帯灰皿に押し込んだ。路上喫煙が禁止なのは承知の上だが、店の裏口がいくつかあるだけのこんな細い道にまで人は来ないだろうと油断していた。警官だったら罰金ものだし、そうではなくても見知らぬ通行人になにか言われる面倒は避けたい。
しかし、足音は軽く、近づいてくる人影の背丈は祐介の肩辺りまでしかない。小学校高学年といったところだろうか。リュックを背負った少年は祐介に見向きもせずに路地の奥へと入っていった。
スマホが振動する。ポップアップ通知を見ると、バイト先からだった。次の現場の住所が指示されているはずだ。祐介はメッセージを開かずにスマホをポケットに突っ込んだ。その手で煙草を取り出す。空だった。
「ったく、なんだよ」
くしゃりとソフトケースを握り潰すと、煙草の自動販売機を求めて歩き出した。人の多い表通りを避け、少年が去った方へと足を向ける。
すると、例の少年が誰かと立ち話をして道を塞いでいるのが見えた。路地を戻るべきか少し迷った。振り向くと、表通りへはかなり距離があったが、この先にはすぐそこに通りらしきものが見えている。ちょっと通してもらうか、と足を止めずに進むと、なにやら様子がおかしい。
「いやです! やめてください!」
いやがる少年の腕を取っているのはフードを目深に被った男だった。
「おいっ、なにしてるんだ!」
とっさに叫んで走り出していた。
男がハッとしたように顔を上げこちらを向いたが、逆光な上、フードの影になっていて顔が見えない。
祐介は男の肩を平手で突き飛ばし、少年の手を取って路地を走り抜けた。背後で男がなにか叫んでいたが、すぐに聞こえなくなった。
路地を抜けると、そこは商店街だった。路地の反対側の表通りは、人がほかの町から集まってきた華やかさがあるが、こちら側は服装にも気をつかっていないような人たちが行き交っている。ざらついた不安が祐介の胸の奥をひと撫でした。自分の感情に戸惑う。一本道を隔てただけで町の様相ががらりと違うからだろうか。雑多な町並みで、土地勘のない祐介には既にさっきの路地がどこにあるのかさえわからない。フードの男も追ってきていないようだ。不安は気のせいだろうと思い直した。
少年に「もう大丈夫だな?」と声をかける前に、繋いだ手を引っ張られた。
「こっち」
目的地まで送ってもらえると思っているらしい。仕方なくついていくと、商店街のはずれに建つ、たばこ屋の前で足を止めた。看板には『坂口たばこ店』とある。
たばこの自動販売機に挟まれて昔ながらのショーケースと窓口があり、ガラス窓が細く開いていた。少年はガラス窓を大きく開きながら、「ばあちゃん!」と中に声をかけた。
すぐに白髪頭の女性が顔を出した。
「潤くん、よくきたねぇ。あら、そちらは潤の学校の先生だったっけね?」
「ちがうよ。この人はさっきぼくを助けてくれたんだよ」
潤が窓越しに身振り手振りを交えて熱っぽく語るものだから、祐介はすっかり恐縮してしまった。
「それはそれは。孫がお世話になって。潤くん、お兄ちゃんにちゃんとお礼を言ったの?」
「あっ、まだだった。お兄ちゃん、ありがとう」
礼を言われ慣れていないせいで、ああ、とか、うん、とか口の中でもごもごとした声を発した。
それから、あれよあれよという間にたばこ屋と繋がっている坂口家の住居スペースに招き入れられた。気付けばちゃぶ台を囲んで番茶を飲んでいる。菓子鉢には個包装の煎餅とチョコレートが盛られていた。
潤は週末を利用して、一人暮らしの祖母のところに泊まりにきたらしい。潤の自宅はここから電車で五駅ほど離れているだけで、これまでにも頻繁にひとりで泊まりに来ているとのことだった。変な男にからまれたのは初めてだという。
「怖かっただろう」
「ちょっと。でも、すぐお兄ちゃんが来てくれたから平気」
「ひとりであんな人通りのない道を歩くなよ」
「だって近道なんだもん」
「遠回りでもいいから、もっと大きい道を使え。ばあちゃんだって心配するだろ」
坂口のばあちゃんは無言で首肯している。
「わかったよ」
「よし、えらいぞ」
しぶしぶ受け入れた潤の頭を撫でると、坂口のばあちゃんは「いいお兄ちゃんに会えてよかったねぇ」と目元の皺を深くした。
「じゃあ、おれはそろそろ」
立ち上がろうとする祐介の足に潤がしがみついた。
「もう行っちゃうの?」
行くもなにも、ここは今日会ったばかりの赤の他人の家だ。上がり込んでいる時点でもう充分におかしな状況だ。
「潤くんも寂しがっているし、よかったら晩ご飯でも食べてってちょうだいよ」
「えっ、そりゃ悪いです」
「若いもんが好きそうな食べ物はわからないから、カレーを作ってあるんだけども」
「やったー。ばあちゃんのカレー、大好き! ゆで卵がのってるんだよ!」
潤が祐介の顔をのぞきこんで一生懸命にアピールしている。
スマホを取り出してみるが、あれ以降バイト先からの連絡はない。仕事はほかのやつに回したのだろう。祐介は再び腰を下ろした。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
坂口のばあちゃんは満足げに頷くと、店番に戻っていった。
「お兄ちゃん、ゲームやろ。これ、ばあちゃんに買ってもらったんだ。知ってる? 新商品なんだよ」
そういって潤がリュックから取り出したのは、数年前に発売された携帯ゲーム機だった。
「新商品って、これが発売されたころ、おまえまだ低学年か幼稚園生だろ」
子供のくせに変わったボケをかましてくるなと思って笑っていたが、潤はきょとんとしてしている。
「え? もしかして、本気で言ってる?」
「あたりまえじゃん。だって、これ、まだ抽選に当たらないと買うことさえできないんだよ? 抽選はね、お母さんが申し込んでくれたの。それで当たったから、おばあちゃんが買ってくれたんだ」
潤は嬉しそうに携帯ゲーム機を胸に抱えた。
たしかに発売当初はそうだった。家電量販店のオンラインストアでは定期的に抽選が行われ、そのたびにSNSでは当落の報告が投稿されていた。祐介もその一喜一憂の渦の中でようやく手に入れたのだった。今では熱も冷め、どこにしまってあるのかも定かではない。
潤はまっすぐな目で祐介を見上げていて、とても嘘をついているようには見えない。
「え? いや、ちょっと待って」
確認のために手にしたスマホの時計表示は、四年前になっている。
「なに? どういうこと? 潤、今、何年かわかるか? あ、いや、え? じゃあ、コロナは? おまえ、もうマスクしてないよな? いや、そもそもマスク生活の前か」
「お兄ちゃん、どうしたの? なに、コロナって?」
「あ、いや、ちょっと。待て待て待て。えっと、ごめん、ちょっと一服して落ち着いてくるわ」
たばこのケースを出したところではたと気付く。最後の一本を吸い終わったのだった。
「わりぃ、ばあちゃんの店で買ってくるわ」
入ってきた店側の出入り口で靴を履き、店の窓口を覗くと、ばあちゃんは居眠りをしていた。声をかけずに自動販売機で買うことにする。
「えっ、安っ」
四、五年前の価格だった。
「うわ、まじかよ」
買ったばかりのたばこを手に、店の裏へと回った。たばこ屋を営んでいる家とはいえ、さすがに屋内で吸うわけにもいかない。店の裏は細い砂利道だった。ガラス引き戸の玄関があり、坂口と彫られたかまぼこ板のような表札がかかっている。
その玄関前でたばこケースの底を指で弾き、一本取り出した。紫煙をくゆらせるうちにわずかながら気分が落ち着いてきた。しかし、状況が見えてきたわけではない。
たばこを二本吸い、三本目に火をつけようとしたとき、ふと思いつき、メッセージの受信履歴を開いてみた。
思った通り、四年前の履歴が並んでいる。最新のものはバイト先からだった。日付は今日だ。
半開きになった唇に張り付いていた火をつける前のたばこが、ぽとりと落ちた。
場所:××町、××商店街の坂口たばこ店。
ターゲット:高齢女性
回収品:キャッシュカード(暗証番号を忘れずに)
理由:孫が暴力団関係者の車に傷を付けたことによる示談金
役どころ:孫の担任
※店は人目に付くため、裏の玄関から訪問のこと
祐介がかつて請け負った初仕事の案件だった。
商店街に足を踏み入れた瞬間に不安感を抱いたこと、訊ねることなく住宅用玄関の位置がわかったこと、坂口のばあちゃんが祐介を見て潤の担任と間違えたこと。すべてが腑に落ちた。
四年前のおれは、坂口のばあちゃんから金を奪っている。だが四年分歳を重ねたおれを似ているとは思ったものの、他人のそら似と思い直したのだろう。潤が男にからまれていたという話も例の示談金の件だと思っていたのかもしれない。
止めなければ。いや、もうやってしまったことだ。じゃあどうすればいい? 金はもう引き出されたのか? そのはずだ。詐欺が発覚する前に現金を手に入れるためスピードが要求される。出し子はもう現金を本部に届けただろうか。
間に合ってくれ。
おれは駅に向かって走り出した。
商店街を走っていると、向こうから警官がやってくるのが見えた。急いでいる様子はないからパトロールなのだろう。とはいえ、確信はない。今つかまるわけにはいかない。
素早く辺りを見回すと、寂れた洋品店が目に付いた。かけこんで、入り口付近のハンガーにつるされていた黒いパーカーを買った。包装を断り、その場で身につける。フードを被って外に出ると、警官は既に通り過ぎたらしく、見える範囲に姿はなかった。
鼻先をたばこの臭いがかすめて、反射的にそちらを向くと、ビルとビルに挟まれた見覚えのある細い路地があった。潤が駅への近道だと言っていたことを思い出し、迷わず入った。
一歩踏み入れた途端にざわめきが消えた。エアコンの室外機かなにかのブーンと低い音が鼓膜を震わせる。誰かが喫煙中らしく、空気が淀んでいる。うっすらと煙っていて視界が悪い。
そこへ向こうから小さな影が近づいてくるのが見えた。背丈は祐介の肩あたりまでしかなさそうだ。
「まさか」
思わず声がこぼれる。
脇を通り抜けていこうとした瞬間に確信し、祐介は目の前の細い腕を掴んだ。
「潤」
「えっ? 誰?」
潤は怯えたように後ずさったが、祐介はつかんだ腕を放さなかった。
これはおれと出会う前の潤だ。ということは、今ならまだ四年前のおれは坂口たばこ店に着いていないかもしれない。
「よく聞け。ばあちゃんに騙されるなと言え」
「なんのこと?」
「きっと今ならまだ間に合う。急いで伝えるんだ」
言い聞かせるように手に力を入れた。
「いやです! やめてください!」
潤が身をよじった瞬間、路地の先から男の声がした。
「おいっ、なにしてるんだ!」
祐介はハッとして顔を上げ、声の主を見た。
瞬時に理解した。『現在』にいたおれだ。
男は祐介の肩を平手で突き飛ばし、潤の手を取って路地を走り抜けていく。
「頼む! 四年前のおれを止めてくれ!」
しかし、男は振り向きもせずに走り去った。声が届いていないことは祐介自身が知っている。
もう一度、四年前の商店街に出られるかもしれないと淡い期待を胸に、潤たちの後を追ってみたが、そこは行き止まりだった。
しかたなく表通りへと抜ける。記憶にあるとおりの町並みだった。
路地と表通りの狭間で一服した。
孫思いのばあちゃんに金は返ってこないだろう。けれどもせめて、できることをしなくては。本当は四年前の初仕事を終えた瞬間からこうしたかった。こうするべきだったんだ。
祐介は短くなった吸い殻を携帯灰皿に押し込むと、スマホに持ち替えた。駅前に交番があるのはチェック済みだ。
祐介は、バイト先からのメッセージを表示したスマホを手に交番に向かう。
どこからかおいしそうなカレーの匂いが漂っていた。