小説

『長い道』川瀬えいみ(『万葉集3724番』)

 母が家を出ていったのは、アブラゼミに代わってヒグラシが鈴虫と共に夕方の合唱を始める頃。私が五歳になったばかりの夏の終わりだった。理由は知らない。

 背は高いが痩せっぽちの父は、声を荒げる術も知らないような穏やかな性質。母は、頭のてっぺんが父の肩にも届かないほど背が低く、ほんのりと微笑んでいることが多かった――ように思う。

 私は、両親が喧嘩している場面どころか、軽い言い争いをしている場面にすら、出くわしたことがなかった。両親の仲が悪いなどとは、一瞬たりとも考えたことはなかった。自分と両親はずっと一緒にいるのだと信じ切っていた。

 ただ、月に二、三度、近所に住む父方の祖母がやってきて、そのたびに厳しい口調で両親を責めていたことを憶えている。父の母は、私の母より背が高く、その眉はいつも、きりきりと音がしそうなほど高く吊り上がっていた。祖母は、穏やかな父の生母とは思えないほどはっきりした物言いをする人だった。口調ばかりでなく、心身共に強い人――きつい人だった。

 対照的に、私の両親は、心も身体も強い人たちではなかったと思う。

 私自身は直接祖母にきつく当たられたことはなかったが、祖母の両親への苛烈な態度が怖くてならなかった。優しい父母が、なぜこんなにも祖母に責められるのか、そして、どうして両親は一言も祖母に言い返さないのか――を、いつも不思議に思っていた。もしかすると、祖母がそんなふうに振舞わざるを得ないような問題が、私の両親にはあったのかもしれない。子どもには知らせられないような不都合が。

 だが、私にとって両親は、ただただ優しく心安らげる存在だった。


 母が家を去る日の前日。私は、その日が母と過ごせる最後の日だと知らされていなかった。

「マリカ。お母さんは、明日から、お母さんの生まれた家にお手伝いにいくことになったの。マリカはしばらく、お父さんとお留守番していてね」

 取り込んだ洗濯物を畳んでいた母にそう言われた時には、ごく自然に、「私とお父さんも一緒に行ければいいのに」と思った。

 母の生まれた家には一度だけ行ったことがあった。私はおそらく三歳か四歳。あの時は、祖父から借りた車を父が運転していた。父が疲れないように休み休み、六、七時間は車に乗っていたように思う。

「もう少しで着くよ」と言われてから、やたらと鹿の飛び出しに注意を促す看板が目につくようになり、車の中に長時間閉じ込められて退屈に疲れていた私は、その数を数えて、母に報告する遊びを繰り返した。

 母はあの鹿の町に行くんだと思ったが、確かめはしなかった。私には、母がどこに行くのかということより、もっとずっと知りたいことがあったから。

 私がもっとずっと知りたかったこと。それは母の言う『しばらく』がどれくらいなのかということだった。

「いつまで?」

 私の問いかけへの母の答えは、

「お月様がまんまるになるまで」

 だった。

 夏が終わりかけた日の昼下がり。雲一つない水色の空には、楕円形のおまんじゅうのような月がぼんやりと浮かんでいた。輪郭のはっきりしない白い月。私にはそれがすぐに丸く膨らむように感じられた。

「それまで、いい子にしてて」

「うん!」

 いい子にしていれば、お母さんは早く帰ってきてくれるのだ。私は力強く頷いた――と思う。記憶は、かなりおぼろげなのだけれど。なにしろ私は五歳になったばかりだったから。


 私の家は、北関東の地方都市の外れにあった。車がなければ生活ができない――とまでは言わないが、最も近い食料品店まで車で十分はかかり、隣家とは五十メートル以上の距離があった。周りにあるのは、芋畑と水田だ。

 遠出をする時は、家の前の農道を二十分も歩いて、県道にあるバス停でバスに乗る。そこから第三セクター鉄道の駅まで二十分。二両編成の電車に十五分揺られると、やっとJRの駅に着く。そんな場所だ。

 私が五歳だった、あの日。母は、小さな鞄を一つ持って、とぼとぼと農道を歩いていった。

 玄関を出て庭先に立ち、私と父は、そんな母を見送った。母の姿が見えなくなっても、父は家の中に戻ろうとせず、母を連れ去った朝露の乾ききっていない道を、いつまでも無言で見詰めていた。


「お月様がまんまるになるのはいつ? 明後日? 来週?」

 私は幾度も父に尋ねた。

「お月様がまんまるになると、お母さんが帰ってくるんだよ!」

 と、得意顔で父に教えたりもした。

「月は滅多にまんまるにはならないんだよ」

 父は私にそう答え、五歳の私には、父の言葉を疑うことができなかった。


 小学校に入る頃には、まんまるな月に出会うことは諦めていた――と思う。四年生になった頃には、両親が離婚したことを理解していた。

 理解しないわけにはいかなかったのだ。祖母に押し切られる形で、父が二度目の妻を迎えたから。

 二度目の母が来る直前、実母に会いに行きたいと、一度だけ父に頼んだことがある。

 母の両親は私が幼稚園に入る前に亡くなっており、母の生家も既にないことを、その時、父から教えられた。幼い私が車の中で鹿の看板を数えた時が、もしかしたら母の両親の葬式に出るための道行だったのかもしれないと、私は察するともなく察した。

 今更、母との思い出を語って、その推察の真偽を父に確かめることはできなかったが。


 それでも、中学校の修学旅行の行先が奈良京都方面と知った時には、もしかしたらという期待を抱いた。私の中学校が修学旅行で奈良に来ることを知った母が、こっそり私に会いに来てくれるのではないかという期待を。

 母の生家が奈良にあったのかどうかも定かではなく、もしそうだったとしても、母がずっと鹿の町にいるとは限らないというのに。

 もちろん、そんな期待は抱くだけ無駄だった。


『君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも』

 私がこの歌を知ったのは高校二年の時だ。古典の先生が、万葉集に収められている歌の中でいちばん好きな歌だと言って、教えてくれた。

『あなたが行く長い道のりを、手繰り畳んで、焼き滅ぼしてくれる天の火があったらいいのに』


 狭野茅上娘子という女性が、夫の中臣宅守を思って歌った歌。

 神祇官という祭祀を司る役職にありながら、斎宮の女官を妻にしたことを咎められ、宅守は、奈良の都から遠い越前の地に流刑になる。

 車も電車もなかった頃、奈良から越前までの三百キロの道は、恋し合う二人にとって、耐え難いほど遠く冷酷な隔たりだったろう。だから、遠い地に流される夫との別れを嘆き、狭野茅上娘子は、「この長い道のりを手繰って畳んで焼き滅ぼしてくれる天の火があったなら!」と歌った――否、叫んだのだ。

 愛する夫を遠い地へと運ぶ長い道を手繰り畳んで焼き尽くしてしまいたい! とは、何という発想か。

 一つの歌として、技巧が優れているとか、趣があるとか、そんな評価を超越している。思いが激しく迸る歌。

 美しいわけでもない。高尚なわけでもない。ただ、ぐいぐいと強く胸に迫ってくる歌い手の心。

 四十代の未婚の女性教師は、いつになく熱弁を振るって、この歌の素晴らしさを生徒たちに語った。

 いつも、助動詞がどうの、係り結びがこうのと、文法や技巧の優劣を抑揚のない声で語るばかりだった女性教師の思いがけない熱量に、私は驚き、だが、素直に同感できた。

 美しさも技巧も理知もない、裸の心が燃えているような歌。こんな歌を、皇族でも貴族でもない下級の使用人が歌った。むしろ、名家の出でもなく、非力で取るに足りない女だからこそ、娘子はこんなふうにまっすぐで激しい歌を歌うことができたのかもしれない。

 私は、なぜか、母が歩いていった道をいつまでも無言で見詰めていた父の姿を思い出した。

 君が遠くに行けぬよう、この道を燃やし尽くす天の火がほしい。その火があったら。自分にその力があったなら。共に焼かれ滅びることを覚悟して、愛を貫くことができたなら。

 あの時、父は、本当は、そんなふうに自分の怯懦を哀しく思っていたのではないかと、ふと思った。父が母との別れを望んでいたはずがないのだ。

 両親が別れを余儀なくされたのは、もしかしたら私がいたせいなのかもしれない――とも思った。

 二人で支え合っているから生きていられるようだった両親が別れを選んだのは、破滅するかもしれない自分たちの恋の熱情に幼い娘を巻き込むわけにはいかないと、理性が激情を凍らせたせいだったのではなかったか――と。

 もちろん、その時も、私は、父に父の心を確かめることはできなかった。


 もともと身体の弱かった父が亡くなったのは、私が大学を卒業してまもなく。

「私は、おまえのお母さんと別れたくて別れたんじゃない。彼女は優しいひとだった。別れたあとも忘れられず、私は人に頼んで彼女を探した。だが、身寄りもなく、生家もなくなった彼女を探しだすには、手掛かりがなさすぎて……」

 病の床に就いた父は、病室で私と二人きりになった時、突然話し出した。それは、『今言わなければ、二度と父の心を娘に伝える機会は得られないかもしれない』という不安に急き立てられての告白だったかもしれない。

 その腕と同じように痩せて枯れた父の声。

 父の告白を確かに聞いたと知らせるために、私は、「うん。うん」と、二度頷いた。

 庭に出て、「お月様がまんまるになるのはいつ?」と、幼い私が尋ねるたび、母が歩いていった道の末に視線を投げていた父は、その二日後、静かに息を引き取った。

 認知症になっていた祖母が、息子の死を知らぬまま旅立ったのは、それから半年後のことだった。


 父を失い、母の行方も知れぬまま社会人になった私は、二十代の最後の歳に、友人に紹介された二つ年上の男性と結婚した。

 大きな欠点もないが、図抜けた才に恵まれているわけでもない彼と結婚することを決めたのは、彼が高速道路関係の技術研究所に勤めているからだったかもしれない。

 道路舗装の耐久化、渋滞の緩和、道路土工の処理技術等を日々研究する仕事。それは、遠い道のりを短くする仕事だ。遠い道を手繰って畳んで焼き滅ぼす代わりに。

 狭野茅上娘子の激しい願いを叶えたり、父の悲しい思いを消し去ることはできなくても、遠い隔たりに苦しんでいる人々の心を癒そうとする優しい行為であるように思えたの。私には、彼の仕事が。


 私は三十半ばになった。実母と別れて三十年が経った。娘が五歳になる。私が母と別れた歳だ。

 両親が別れた本当の理由を何としても知りたいという気持ちは、もう私の中にはない。

 私がそう思うのは、二人目の母の存在が大きいだろう。継母は明るく元気な人で、病弱な父と気弱な私を、いつも励まし力づけてくれる人だった。私たち父子に厳しく振舞う祖母を、屈託のない笑い声で撃退してくれる人だった。父亡きあとも、私の母は彼女で、私の娘の『ばあば』も彼女だ。

 彼女に、実母が恋しいと言うことはできない。言っても、彼女は気分を害したりはしないだろうけど、それでも。

 父と祖父母が鬼籍に入った今となっては、私の実母がどうしているのかを知る術はない。生きているのかどうかもわからない。

 生きていたとしても、会いにきてくれない人を探しに行くことはできない。彼女が私に会いにこないのは、私たち母子は会うべきではないと考えているからなのだろうし。

 私は、実母との再会は諦めている。ただ――。


 あなたが行く長い道のりを、手繰り畳んで、焼き滅ぼしてくれる天の火があったらいいのに。

 そんな火がほしい。そんな強さがほしい。

 父は、そう願っていたのだろうか。母も、同じことを願っていたのだろうか。

 もし、二人が、互いに好き合っていたのに、別れることを選ばされたのだとしたら。私のために、別れを選んだのだとしたら。

 思い出の中にいる両親の姿が静かで穏やかなものである分、二人の心の底にあったのかもしれない激情に思いを馳せるたび、私の胸は、告白できない初恋の中にいる思春期の少女のように切なく締めつけられる。


 今、私は、夫と共に、穏やかに幸せな日々を過ごしている。幼い娘と遊び、笑っている。

 この幸せが、私の両親が破滅覚悟で恋の情熱に身を任せず、静かに別れたことで手に入った幸せなのではないかと思うと、悲しい。

 もし生きているのなら、母には、ただ幸せでいてほしい。