小説

『ネバーランド屋台』柿ノ木コジロー(『ピーターパン』)

 あまり酔った感じもなかったのだが、祐也は気が付いたら、大きな一本杉の木の元、知らない場所にいた。

 いつもの駅からはかなり遠そうだ、駅どころか、商店街も、民家さえも姿を消している。

 ただ、まっすぐに続くのは踏み固められた未舗装らしい道路。道幅はそれなりに広いが、車一台通る様子はない。

 しかし路傍には、祐也の立つ位置から両ぎわにずらりと屋台が並んでいた。

 屋台のほかには、特に何も見当たらない。あとはどんよりとした赤昏い闇に飲み込まれている。

 少し背伸びして、祐也は前方に目を泳がせた。

 道の続く限り、屋台も続いているようだった。

 赤いちょうちんの灯、オレンジ色の裸電球の連なり、ひとつひとつはわびしいが、こうどこまでも並んでいるとそれなりに魅惑的だ。

 冬にしては妙に生温かい風に乗って、いくつか鈴の鳴るような音も微かに耳に届く。

 季節外れの祭りなのだろうか、祐也は一番近い、木の根元にある屋台に近づいてみた。

 近づいて気づく、店は真ん中に箱型のおでん鍋を据えて、その前には幅のせまい木のカウンターを置き、丸いパイプ椅子を数個、並べていた。温かい湯気が出汁の香りで優しく鼻をくすぐる。

 小さな影が湯気の向こうに控えている。人影は物言わず、近づく祐也にも目をくれる様子はなかった。

 これだけ屋台が並んでいるのだろう、他に何があるか少しみてやろう、そう思い、祐也は少し先に進んだ。


 かなりの店数なのに、よく見ると他に歩いている客がいない。

 夜も遅いからなのか、元々人が少ない地域なのか、祐也はしばらくきょろきょろしていたが、それよりも、屋台のしつらえに心を奪われ、いつの間にか気にならなくなっていた。

 驚いたことに、どの屋台もほとんどがおでん屋台だった。鍋は木枠がついていたり、銀色だったり、丸鍋だったり、カウンター形式だったりテーブルだったり、少しずつ違いはあったが、しかし結局は、どこも商っているのはおでんだけのようだ。

 人影はどれも、鍋の向こうの湯気に隠れているか、席を外していて見えないかのどちらかだ。


 おでん屋台の他には、なぜかこれも不思議なことに、ひよこを売っている店のみだった。

 おでん屋が何軒も続き、ふと息継ぎのごとく、ひよこの屋台がある。

 店主はここでも見当たらず、丈のひくい囲いの中に、黄色いふわふわしたヒナが群れているだけだ。どことなくぬか臭い。

 先ほどから鈴を振っているのかと思っていた音は、このひよこたちが立てていたようだ。

 しかし、おでん屋の数に圧倒されて、ひよこたちはどこか遠慮がちに見えた。

 急に、祐也の腹がなった。

 さっきから漂ってくるおでんの香りに、ついに負けてしまったようだ。

 それでも、どの店に入ろうか祐也はしばらくうろうろと前に進んだ。ここが美味しそうかもと思っても、いや、この先にはもう少しよい店があるかも知れない、となかなか決めかねてしまう。しかし、あまりに先に進むと店が途切れてしまうのでは……そう思って目を前に向けると、さらに暗い通りの向こうにまで、暖かな色の灯りが続いている。

 慌てて振り向くと、一本杉のシルエットが赤い光の上にぼんやりと浮かび上がっていた。ずいぶん小さくなっている。

 急に、ぞくりと腕に寒気が走る。

 いいかげんに店を決めないと。このあたりで食べてみよう、そしてここがどこなのか店の人に聞いて、駅を探さないと。

 とん、と座った椅子は木製の四角いものだった。図工室にあるような、いかにも手作り感がある古びたものだ。目の前のおでん鍋も使い込まれているのか、渋い銀色の四角の中に、黒く濁り、白い湯気が絶えずその上に揺れ動いていた。下の具が何だか分からないのに、竹櫛だけが数本ずつ、仕切りの中でもっともらしく突っ立っている。

「いらっしゃい」

 祐也は驚いて湯気を透かし見る。ここの店主も小柄で、フードを被っているのか顔はうかがい知れない。

 しかし、声からしても、それはまだ10かそこらの子どものようだった。

「あの……」

 祐也は娘のことをふと思い起こす、顔も知らない娘のことを。

「キミ、お父さんかお母さんは?」

 フードの下から答えはない。

「おうちの方は、いないの? お留守番?」

 まだ返事がない。祐也はまずいことを聞いたか、と口をつぐむ。


 別れた彼女は一人で産んで育てると言ったのだ。祐也も、それで結構だ、と答えた。それから一度も会おうと思わなかったのだが、その子だって、すでに10歳くらいになるだろう。


 祐也の沈黙に、今度は相手がこう言った。

「どうぞ、ご注文を」

 立ち上がっても、祐也の座る高さに至らない。それでも小皿を手に、湯気を通してこちらを見ているのに気づいた。

「ああ……ではまずコンニャクと」

 やはりこの子どもがれっきとした店主なのだろう、男の子か女の子かも判らないが、店主はためらうことなく一番端のくしを引き上げた。

 味のよく染みていそうな、四角い物体がぞろり、と黒い汁の中から現れた。

「それと、大根と」

 店主は真ん中の仕切りからくしを引き上げる、今度は厚く輪切りにされて、すっかり茶色く煮詰まった大根が現れた。

「それと……玉子」

 ふと思ったのだ、こんな子どもに道を聞いてもロクな答えは期待できないだろう、ここで三本頂いたら、次の屋台に移ろう。

 しかし、ここで初めて店主の手が止まった。

「玉子は、ありませんよ」

「そうなの?」

 おでんの中では一番好きなのが、玉子だったので祐也は残念そうに、そうなの? と繰り返す。それから未練がましくつぶやいた。「売り切れかぁ」

「いえ」

 店主はまっすぐ、彼を見ているようだ。

「玉子なんて、もともとありませんから」

「えっ?」

 言っている意味がよく分からなかったが、訊き返すのも癪だったので、

「では二本だけで」

 そう答え、小皿を受け取った。

 手元のチューブからしを小皿の端にちょこっと絞り、コンニャクの角を押し付けてから、用心して口に運ぶ。熱くて噛み切る前にいったん口から放してしまった。先がちぎれかかった部分を、今度は用心して口に入れる。

 少し涼しくなってきたせいか、熱いものが美味い。しかも味もよくしみていた。

 冷めてきてからは一気に喰いついた。

 大根はくしで半分に、また半分に切ってから一切れずつくしに刺して食べた。じゅわりとつゆが滲み出して、絶品だ。

 追加で何か頼もうと声に出しかけたが、いや、次は玉子のある店に行こう、と祐也はくしを置く。

「旨かった、ごちそうさま」

 祐也は札入れを出した。しかし

「二本で120円です」

 そういわれ、あわてて尻ポケットから小銭入れを出した。ベルトが緩んだのか、ズボンがずり落ちそうになって片手で押さえる。焦りを見せたくなくて

「安いね」

 言わずもがなの一言を付け足し、店を出た。


 次の店を物色していたが、面倒くさくなって三軒ばかり先の、今度は通りの反対側の店を選んだ。

 座ってから気づいたが、ここも店主は子どものようだった。こちらもフードの下の顔がよく見えないが、髪が長いようなので、女の子なのかもしれない。

 店主が子どもしかいないのだろうか、ふと思ったが祐也はもうどうでもよくなってきていた。とにかく玉子を食べたら、とりあえず道を聞いてみよう。

 今度は奥の隣がひよこ屋台だった。何となく支えがない感じで、右を向くと何匹かのひよこと目が合うのには少々閉口した。それでも気を取り直して

「玉子とはんぺん」

 今度はすぐにそう告げた。が、ここでも

「玉子はありません」

 即答だった。

「……じゃあ、ジャガイモは」

 ジャガイモはあまり用意されていないだろう、と予想したのに、店主は穴あきお玉を取り上げ、こちらも濁った黒い汁からまるまるひとつ、ジャガイモのよく煮えたのを取り出して、小鉢に載せた。煮崩れることなく、それはころんと艶めいていた。

 はんぺんとジャガイモに、イワシの粉だしこと青のりを振りかけ、今度は備え付けの甘みそをかける。なぜかワイシャツの袖が小鉢に入りそうになり、少しばかりたくし上げた。

 ここのおでんは、祐也が幼い頃、地元の商店街で食べた味に近かった。


 あの頃は、おやつ代わりだったよな……思わず目が遠くなる。

 玉子とモツが少し高くて、よほどのことがない限りはいつもチクワやコンニャクを買っていたよな。


 しかし、と祐也は小鉢を置く。せっかくここまでおでん屋があるのだから、もう少し玉子を探してみよう。

「ごちそうさま」

 こちらもお代は120円だった。ジャガイモが少し高いのでは? と思っていた祐也はまた、小銭財布だけで済んでほっとしていた。


 次の店はもう少し奥、あまり梯子をしているのを探られたくなく、かなり歩いてしまった。

 足が靴の中でずれてしまい、足指が痛んだ。

 おかしいな、夜だと足がむくむのが普通なのに……しかし玉子のためにもう少し、がんばろう、祐也は更に前に進み、ようやく一軒に目星をつけた。

 しかし

「玉子? ありません」

 こちらも子どもじみた店主に、フードの下から言われてしまった。

 次の店でも、また次の店でも、答えは同じだった。

 泣きたくなってきた。

 バッグがなぜか、地面をこする。スーツがゆるい。ズボンも相変わらずずり落ちそうだ。


 ようやくたどり着いたのは、終いの店なのだろうか、反対側はひよこの屋台で終わっていた。

 終わっている、と言ってもまだ奥にはずらりと店らしき構えは並んでいる。

 ただ、灯りがついていないだけだ。暗がりのなか、店はどこまでも道にそって並んでいるようだった。

「あの……」

 か細い声になってしまう。それでも祐也は声を振り絞る。

「おでんください」

「いいですよ、おでん屋ですから」

 店主のフード下の目は、少し笑っているようだった。

「何がいいですか」

「玉子を……それと」

 不思議なことに今更気づいた。店主は、祐也と同じくらいの背丈だった。

 やっと大人がいた、祐也は震える声で問いかける。

「道が分からなくなってしまって……」

「玉子なんて、ありませんよ」

 店主が言い聞かせるよう、ゆっくりと言った。

「この場所には、もともと玉子なんてないんですから」

「えええ……でも」

 祐也の目がさまよう。向かいのヒヨコたちは相変わらず鈴を鳴らすような音で固まりあっている。

「あのヒヨコだって、玉子がなければ生まれませんよね」

「いえ」

 店主がカウンターのこちらにやってきた。祐也の肩に手を置いて言う。

「ここのヒヨコはずっと、ヒヨコだったんです。最初から……そして最後まで、ね」

「なんだって? どういうことなの?」

 泣きそうになっていたからではない、祐也はようやく気付いた。


 声が震えていたのは、か細くなったのは、自分が小さくなってしまったからだ。


「きみは、どこに行きたいの?」

 店主が祐也を覗き込む。端正な可愛らしい子どもだが、目だけは闇以上に暗く、老いた者の光を宿していた。

「ぼくは、」

 祐也はすでに、泣き出していた。

「お、おうちに、かえりたいんだ」

 ふう、と店主は優しく祐也の肩を押した。

「しばらく、誰かおうちの人が迎えに来るまで、そこにいるといい」

 店主が指さしたのは、ヒヨコ屋台のひとつとなり奥、暗いままの屋台だった。

「あそこで、おでんを売っているといい」

「ぼ、ぼくが?」

「そうだよ」

 導かれるまま、だぶついた背広の少年は空いていた屋台に入っていった。

「しばらく、誰か来るまで……いつになるかは、分からないけどね」


 しばらくたって、その店にもぽつりと、橙色の灯りがともった。