加奈が身をこわばらしたのに気付いた恵理子はハサミを持つ手を止めた。鏡越しに目をやると加奈は通路の反対側の席に座る男性客を凝視している。あれ、修一くんだね。言いかけて口をつぐんだ。加奈は顔は正面をむけてカットの姿勢を維持しているが、眼光鋭く修一を見つめ、いや射すくめている。修一の方はシャンプー台に移動するときに視線に気付き「よっ」と軽く手をあげたが、加奈は軽々しく話しかけることは許さぬといった態度で正面の鏡の中の自分の顔を見据えてから手にした雑誌に目を落とした。恵理子はそんな二人には気づかないふりをして長さを定規で測らんばかりにカットに集中し加奈の頭から湧き出る不穏な空気を髪の毛と一緒にはらい落とした。
恵理子がアシスタント時代からずっと勤務する美容室「コスタ」は道路に面した窓が大きく天井の高い作りでサーモンピンクを基調にしたインテリアと1日中かかっているケルト音楽が性別・客層を問わず人気でいつもにぎわっていた。オーナーの意向でかけているケルト音楽だったが恵理子はもちろん他のスタッフも独特のリズムや民族楽器の音色をすっかり気に入っており、客の多くもこの音楽は何か、誰か、どこのかと尋ね帰り際にメモして帰っていった。ある常連客は独裁者のごとく断言した。曰く
「美容室で過ごす時間って長いから思っている以上に音楽が大事なのよ。その点ここはいいわ。よその美容室だとなんだか騒々しいラップだがヒップホップだかKだかJだかPO PSばかりで、美容師さんが好きな曲をかけて仕事の気分をアゲているんだろうけど客のことを考えていないわ。他人にシャンプーしてもらいながら会話を楽しんだり、普段は読まない雑誌を読んだりするのはリラクゼーションなの。それをジャマする音楽は必要ないのよ。」あと望んでいないおしゃべりもね、と付け加えた。BGMはスタッフのための応援歌ではない、客がリラックスできてナンボと今でこそ恵理子も理解できるが、学生時代にアルバイトをしていた食堂では店長が気弱なのをいいことに学生バイトたちが好き勝手に
騒々しい音楽をかけていて、たまに本社からヘルプで来る社員に「こんな曲聞きながらメシ食いたいか?うまいと思うか?」と怒られたが、恵理子も含めみんな何がダメなのか本気で理解できない身勝手で未熟な学生だった。
またコスタには客の知らないちょっとした慣習があった。この効能については誰も証明できないが欠かせない業務で、恵理子は始めは驚いたがなるほどこれは美容室にこそ必須だと感銘をうけ率先しておこなっていた。
加奈が高校生のときから通うコスタに修一を連れてきたのは 1 年くらい前で「カレです、いつも床屋さんでカットしているって言うの。カッコ悪いでしょう?だから連れてきたの」と言葉とはウラハラに少々自慢げに紹介した。自慢げなのがよく分かる美丈夫なカレだ。 目にかかるくらいの長さの少しクセのある黒髪は床屋のカットで何の問題もない。何より も姿勢がいい。背中にモノサシでも入っているかのような背筋をさらに伸ばして「今日は よろしくお願いします」と挨拶した。
オフィスビルの 2 階にあるカフェ「メンフィス」で修一は遅刻魔にもかかわらずその憎めないキャラで店長やバイト仲間、はては常連客からも可愛がられていた。どこで身につけたのか訝りたくなるレディーファーストぶりで女性に対して荷物を持ったり、ドアを開けたり、服を褒めたりとイヤミでなく自然とするので「ホントにいい男よねえ」と女性客から評判だった。修一と加奈がつきあっているのは周知の事実ではあったがそれでもモテる彼のことが心配で新しくアルバイトに入ってくる女子に加奈は「私彼とお付き合いしてるんだけど」と釘をさした枕詞で自己紹介をするのが癖になってしまった。