うすうす感じていたとはいえ、置き引きがトリガーになるとは思いもよらず加奈は呆然とした。「神様の啓示」発言にあっけにとられどう返していいのか分からず口をOの字にしたまま1ヶ月が過ぎた。メンフィスでは修一の新しい彼女の噂が聞こえてきた。まだ1ヶ月しか経っていないのに。怒りがこみ上げてきたが自分から連絡するのは悔しい。加奈は春休みなので週5でシフトを入れていたがわざとはずしているのだろう、修一とシフトが重なることは一度もなかった。
それが今日まさかコスタで再会することになろうとは。これも神様の啓示?イエス。恵理子は気づかなかったが加奈は修一が店に入ってきた時にすぐに気が付いた。修一が席に案内される 3 分ほどの間にオフィーリアのように哀しみをまとうか、ドラゴンのごとく怒りをたぎらせるか、地蔵さながら無を装うか悩んだ。そこに天からふりそそいできたのが加奈の大好きな映画のテーマ曲だった。舞台のスコットランドを彷彿とさせるバグパイプの音色が美しい。映画はスコットランドの英雄の戦いがメインだが、美しく勇敢で聡明な王女が人質同然の立場ながら敵に溜飲を下げるシーンが白眉で何度も観た。ここでこの曲が流れるのも神様の啓示か。アコーディオンが激しく呼吸し、フィドルが遠く近くいななく。加奈は映画の王女のように堂々と威厳を放つことにした。このテルテル坊主みたいなケープ姿は情けないが、他人の犬にするかのような修一のあの挨拶が威厳を保つのと怒りに油を注ぐのを助けてくれた。
「ねえ、恵理子さん。今からヘアスタイル変更してもいい?」加奈は雑誌のモデルをさして言った。「前からこんな風にしたいなと思っていたんだけど今まで踏ん切りがつかなく て。」何が踏ん切りをつけさせたのかは聞かずに「似合うと思うよ。でも来月から新入社員なのに大丈夫?」「うん、多分大丈夫。」「履歴書の写真と違い過ぎて替え玉かと思われるかもよ」「もしそうなったら逆に印象に残って覚えてもらいやすくていいよね」加奈はやると決めたらなかなか神経が図太い。
3時間後に仕上がったスタイルに加奈は踊りださんばかりに喜んだ。恵理子からみてもお世辞抜きでよく似合っていた。今日入店してきた時とは別人のように晴れ晴れとした笑顔だった。右に左に顔をかたむけ鏡に向かって満足げに微笑む加奈をみて恵理子もすっかり嬉しくなった。こういう時は美容師をやっていて本当に良かったとしみじみ思う。
加奈は上機嫌で会計を済ますとこの髪に合う服を買いに行くと言って恵理子に手を振って 店をあとにした。気分は上々だった。今日コスタで修一に偶然出会わなければこんな冒険 をすることもなかっただろう。あの映画を思い出さなければへこたれていたかもしれない。なかばヤケクソに修一の目の前でガラリと変身して王女の矜持を見せつけるつもりだった が途中から修一のことは念頭になかった。バッサバッサと切り落とされる毛束は荒んだ気 分も一緒に持って行ってくれた。元カレなんてどうでもいいではないか。サッパリと軽く なった未来の自分はスキップしながら鼻歌を歌っている。あとをついていけばいい。
恵理子は床に散らばった髪の毛をほうきで集めた。毎日幾度となく繰り返すこの掃除だが切った後の髪の毛というのがいつまで経っても苦手だった。単なるゴミとしてみることが出来ない。脱ぎ捨てられた髪の毛は持ち主の邪念や厄を取りこみ力尽き打ち捨てられている。髪にはヒトの念がこもるというし、いい加減に扱ってはいけない気がする。閉店作業が一通り終わると恵理子は棚から陶器でできた塩壺を取り出し丁寧に塩を店内に撒き、役目を終えた髪の毛にふりかけた。大切な業務だ。美容室「コスタ」が活気にあふれ繁栄しているのはスタッフの努力はもちろんだが、このお浄めの力も大きいと信じて疑わない。