しかしここ半年ほど二人の仲はどうもかみ合わなかった。いや実際は始めからかみ合っていなかった。音楽、映画、ファッションの趣味、金銭感覚、価値観、将来の仕事に対する理想、何をとってもベクトルが違う。付き合い始めのころはその違いが新鮮でお互いを面白がる好奇心が勝っていた。ところが並走するカヌーではあっても、一方が空を眺めればもう一方は水面を見つめ、一方がのんびり漂えばもう一方はシャカリキにパドルを振り回し、一方が激流を避ければもう一方はスリル上等と突進する二人はいつまでたってもお互いを追いかけてグルグル回っているようで徒労感が蓄積していった。加奈はそもそもカヌーなんかより公園の池に浮かぶスワンボートに二人並んでペダルを回したいのだ。なぜ私はこの人とつきあいたいと思ったのだろう。最近は自問してばかりだった。バカがつくほど優しいが修一の優しさはお得意のレディーファーストの延長でしかなく加奈に対して愛情があるかどうか甚だ疑わしい。一歩でも近づこうと修一のお気に入りのCDや映画のDVDを借りてみたが「声がいい」とか「あの俳優がカッコいい」とか「ラストシーンがいまひとつ」程度の感想しか抱けず、余計なことしなけりゃよかったと会うのが億劫になってしまい、修一の方でも何を話していいか分からぬようで自然無口になり会う回数も減る一方だった。
その日は1日シフトにはいっているため加奈は朝からメンフィスに向かった。電車はラッシュで混み合っていたので邪魔にならないようバッグを網棚にのせて吊革につかまりながら本を読んでいた。2駅ほどして前に座っていた乗客が降りたのでそのまま座り降車駅の赤坂まで本を読みふけっていた。
赤坂に到着する直前、加奈は立ち上がりバッグを取ろうとしてそれがないのに気が付いた。え?バッグがない? 心臓が秒でわななき始めた。周囲を見回す。近くに立っていたスーツ姿の若い男性に「ここにあった黒いバッグみませんでしたか?」と何も載っていない網棚 をさして震える声で聞いてみたが怪訝な顔で首を振られた。なんで?どうして?とにかく 電車を降りて赤坂駅を出ると考える。バッグには何が入っていた?財布とハンカチ、ティ ッシュ、化粧ポーチ、今読んでいる本の下巻。スマホとスイカは幸いポケットにねじ込ん であった。財布にはいくら入っていたっけ?カードは?それにあのバッグ。とにかくメン フィスに行かないと。肉体が思考に追いつかずつんのめりそうになりながら徒歩10分の 距離を脚ももつれんばかりに走り出した。
「あー、あなたね、網棚にバッグ乗せちゃあダメだよ」制服姿の男性がペンを机に投げ出して桜の代紋がきらめく帽子をふりふり加奈を見上げた。桜の代紋っていうけれどあんまり桜っぽくないんだな。加奈がぼんやりそんなことを思っていると「盗ってくれって言わんばかりだよ。寝てたの?」と話をふられた。「寝てません、本を読んでて」「気をつけないと。多いんですよ、電車内の置き引きって」この書類に記入して。見つかったら連絡しますから。犯人が?バッグが?どちらとも取れるけれどどちらも見込みがないのは察しがついた。通りいっぺんとうの対応が終わり加奈はすっかり魂を抜かれた気分だった。
電車内でバッグの置き引きに遭い動転してメンフィスに転がり込んできた加奈に冷静に指 示をだしたのは店長だった。まず銀行とクレジットカード会社に電話して。カードを止め てもらわないと。警察には?まだ?今日は休んでいいから早く警察に届けなさい。そうし て加奈はやるべきことをやり終わってやっと今日の出来事を振り返る余裕ができた。現金 もたいしてはいっていなかったしスマホは無事だし。カードの被害もなく再発行すればす む。お気にいりの財布は悔しいがもっとお気に入りを見つける楽しみができたと考えよう。なんとか気持ちを立ち直らせよう、前向きに考えようと苦心したが、ひとつだけ取り返し のつかない被害品があった。バッグだ。修一からのプレゼントだった。スタッズのついた 本革の黒い重いバッグは正直好みではなかったけれど嬉しくてコーディネートに関係なく 毎日持ち歩いていた。修一に失くしたことを謝らなくては。LINE で簡単にことの顛末を知らせ不注意を詫びるとしばらくしてきた返信は置き引きに遭ったショックを十分に吹き飛 ばしてくれた。「気にしなくていいよ。ちょうどいい神様の啓示だよ。二人の仲は終了ですってね」