深い闇に浮かび上がるようにして佇む紫紺の看板。楷書体で『怒りで失敗した人生、やり直してみませんか?』とある。店の名前は、記されていない。その謳い文句だけ。
細い路地から地下に続く階段の先、赤茶色のドアが入り口のようだが、やはり何も記されてはいない。看板の置かれた位置から考えて、ここが、その店に間違いない。が、賑わいは感じられない。コン、コン、コンと、短い間隔でドアを叩く。返事はないが、こちらに近付く足音だけが聞こえた。そして、ゆっくりと開くドア。一歩後退りする。錆びた蝶番の鈍くも高い音が不気味に響いた。
「いらっしゃい」
この場に相応しくない、白髪をオールバックにした優しそうな老紳士が私を迎えた。白いシャツに蝶ネクタイという姿は、さながらバーテンダーのようだった。今の私に恐れるものは何もない。私はためらうことなく、薄暗い店に足を踏み入れた。
二時間前―
「俺がそう決めたんだから、文句を言うな! 黙って俺の言う通りにしろ!」
「絶対にイヤ! なんで私があんな田舎に引っ越さないといけないのよ! あなた一人で行けばいいじゃない」
「じゃあ、ここの家賃はどうするんだ?」
「私はここに住み続けるから! あなたが決めた話なんだから、あなたが払ってよ。それくらいの責任はとってもらわないと」
実家に一人で暮らしていた母が死んだ。一人息子の私は、故郷に帰って先祖代々受け継がれてきた土地を守ろうと考えた。
今年で三十五歳。大学卒業後に勤め始めた企業で十三年が経つ。いよいよ平社員のポジションが確立されつつあり、ちょうど将来を案じていたタイミングと重なった。
都会で厳しい社会の荒波にもまれ、賃貸マンションの家賃を払い続ける生活に嫌気がさしていたところ。持ち家で農作物を育てながら、ノルマに追われぬ仕事に就いて気楽に過ごしたい。そんなことを考えるようになった。しかし、妻は猛反対した。
都会に生まれ育った妻にとって、田舎暮らしをするなど二つ返事で決められないことは分かっていた。だから、諭すように穏やかな口調で話をしていた私だったが、ある一言に怒りの感情が爆発してしまった。
「あんなオンボロな家、売り払えば? 少しはお金になるでしょ!」
私のルーツが否定された気がした。それをきっかけにお互いを罵倒し合う言い争いが始まったという訳だ。日頃、妻に従順な私が口ごたえするものだから、それが余計に気に入らなかったのだろう。口にする言葉は、数を積み重ねるにつれてエスカレートしていった。まるで冷たく激しい北風のように。