「毎月のお金さえ入れてくれたら、あなたの顔を見なくて済むからそれでいいけど」
妻はそう吐き捨てるように言い放ち、吹き荒れる風は一瞬にして止んだ。静寂が部屋を包む。私は背を向けた妻に包丁を振りかざし、無言のまま、何度もその背中に突き刺した。妻は苦悶の表情で崩れ落ちた。
私は妙に冷静だった。警察に連絡をしなければならないところだが、その前に少しだけ外に出て頭を冷やそうと考えた。外城田川の河川敷から駅前の繁華街を通り、なぎさ公園を抜けるコースを歩いておきたかった。私が好きだった散歩コースだ。きっと、これが私の人生で最後の散歩となるだろう。
そうしているうちに、駅前の路地で見つけた店がここだった。
マスター(と、呼ぶことにした)はカウンター越しに私の対面に立ち、私は椅子に腰掛けた。
「元々、バーだったんです、ここ。居抜きで使っているだけなんで、”ぽい”ですが飲み物はありません。ご了承を」
「ええ、結構です」
これから待ち受ける警察の取り調べに、アルコールが入っていてはまずい。
「お客さん、何をやり直そうとお考えでしょうか?」
「実は・・・・・・人を殺してしまいました。妻なんですが。つい、カッとなって」
遅かれ早かれ、いずれは逮捕される身だ。私は見ず知らずの彼に罪を告白することに抵抗は感じなかった。
「つまり、お戻りになって殺人を思いとどまりたいと?」
「はい」
「分かりました。引き受けましょう。ただし、お客様にも協力をしていただく必要があります」
「協力?」
「ええ。実は、ここは研究所です。とある研究を世界規模で行なっております」
「世界規模で?」
この状況において、あまりに飛躍した話に思わず笑いがこぼれた。
「世界各地の都市に臨時的にこのような研究所が出ています。一か月の期間限定ですが。感情コントロールによって世界平和の道を追求するためのエビデンスを集めているのです」
私の頭の中には、いくつものクエスチョンマークが浮遊していた。顔にも張り付いていたことだろう。それでもお構いなくマスターは続けた。
「いいですか? 怒りを冷たく激しい北風とします。相手を吹き飛ばすほどの強い風です。それがさらに強くなれば様々なものが破壊されてしまいます。分かりやすい例を挙げれば、戦争です」
「はぁ」
「その逆。本来ならば怒りの感情を表出すべき場面において、明るく、温かく、優しく相手を照らせばどうなるでしょう? 太陽のように」
「神経を逆撫でしません? それ」
「おっしゃる通りかもしれませんが、風を吹き荒らすより、きっと争いが収まる確率は高くなるはずです。その研究をしているのが、ここという訳です」