小説

『しゃがむ』もりまりこ(『野に臥す者』)

 思えば我が家は、しゃがむ一族だったのだ。父や祖父、親戚一同は我が家に降りかかるとうてい予想のつかない出来事に対峙しきれなくなると、たちまちしゃがんだ。
 祖父の空知がたちまちわたしの前でしゃがんだのは、繁華街を歩いている時だった。小学生だったわたしは、祖父の皺いっぱいの掌の中でぬくぬくとしていた。
 時々その中で指を動かしたりずらしたりしてみる。そのどの指の形にも祖父は対応してくれた。逃れようとする親指を祖父の人差し指と中指がすぐさま捉えると、わたしを説き伏せるのだ、無言の指で。その度にわたしは尿意とは別の何かを感じる。それが心地いいのか悪いのかもよくわからないけれど、その現象が嫌いではなかった。
 商店街から漂っている縄のれんの向こうからは、コリアンダーのスパイスの香りが、畳屋からは青臭いイグサの匂いがした。魚屋では潮にまみれた魚の体臭がした。祖父は、暫く歩くと、分厚い木の扉を開ける。カウベルが鳴る、わたしの頭上で。ころろんと響く。
 頭にすっぽりとあのベルの帽子を被って聞いてしまったように、鼓膜をぎりぎり震わせた。
 辺りは珈琲の香りが部屋全体に広がっていて、湯気がカップやサーバーから立ち上っていた。いつも頼むモーニングセットは、家では目にすることもないぐらい分厚いパンの上にバターが半分溶けかかっていて、ゆで卵にはサラダがついていた。サラダの上には酸味の勝ちすぎた鼻につんとするドレッシング。
 まわりをみても時々ナポリタンのおじさんがいたけれど、たいていの人たちはこのモーニングだった。
 祖父の前でわたしは右耳を振る。そして左耳を振った。
「なにしとる? 栞」
 祖父の空知を見ようとした時、窓ガラスにバイクにキーを掛けている人がみえた。背中が、ちちに似てるって思ったらそのひとがわたしの視線に気づいたみたいにこっちを見た。わたしと眼があった。もちろんちちじゃなかったけれど。その人は目じりだけで、にやっと笑って、みせた。
 再び耳を振ってみる。今度はちゃんと空知と眼が合う。
「ん? なんしとるさっきから」
「そらちぃ。耳の中がわんわんまだしてるよ、ほらあれのせい」
 わたしの指差す方を空知が見ると、あぁチャイムのことかって云って、空知はわたしの目の前に手を伸ばすと耳たぶを思いっきり引っ張った。
 痛いよって云おうとするあわいを狙って空知が、べろだしてあーあーって云ってみぃって真剣な眼で云うから、されるがままにわたしはあーあーって何度も云った。時折、空知にされるがままになっている時、あやふやだけどもやっと温かいものを感じて、いつまでも空知はこのままでいてほしいって感情がふつふつと芽生える。そのことに戸惑いながらも、うれしくもあった。

1 2