小説

『しゃがむ』もりまりこ(『野に臥す者』)

 空知の冷たい指がわたしの耳たぶにふれて引っ張られるとしだいに耳の中がすっきりと風通しがよくなっているのを感じた。
 カウベルの帽子がわたしの頭上から消えた感じがした。
 空知は分厚いトーストと珈琲でお腹いっぱいになった後、わたしがパンケーキの最後の一枚がぜんぶなくなるまで見守って、ふたりで店を出た。
 ふたりで歩いていたら、さっきのバイクのお兄さんが、ちいさい公園の入り口辺りにいて眼でコンタクトを取っているみたいに、にって、その人の眼だけが笑った。笑い返していいのかどうか迷っていたら、そのお兄さんは後ろにいる仲間らしい人に眼と口笛で合図してあっという間に空知とわたしを取り囲んだ。

 なにかよくないことが起こる前触れはほんとうになにげない顔をしてやってくるものらしい。
 あれはかつあげといういうらしく、空知は狙われた。わたしがこれが血筋というものかと、認識したのは、空知が金を出せと脅された時よりもその直後に、タイミングよく正午のお知らせの銅鑼が鳴った時だった。それこそあのカウベルどころの音じゃない。お腹の底に響いて引き裂いてしまうような轟音だった。
 そのせつな、空知はまたたくスピードでもってしゃがんだ。つないでいた手が急に毟り取られる衝撃を感じた。いっしゅん腕の付け根がみしっと軋んだ。いきなりしゃがんだ空知を見たちんぴらは、身体に発作でも起こしたのかと思い、慌てた。たぶん心臓発作かなんかで死ぬんじゃないかと焦ったんだと思う。

 なんだこいつぅと、なんども仲間の男たちだけが呪文のように繰り返しながら消えた。
 それでもそのバイクのお兄さんは、見たことないものをみたような怯えた顔をしながら空知ではなくて、わたしから一切視線を外さなかった。その一重の切れ長の眼がいつか犯罪者としてテレビの画面に登場するかもしれないなって予感がした。お兄さんの眼がいつまでも、残像となって消えなかった。それが微塵も嫌悪感がはなかったことは、空知には一生黙っておかなければいけないと思った。
 結局お金はとられなかったけれど、空知はしゃがんだままぶるぶる震えていた。震えながら云った。、
「あいつの眼、こうこつの眼しとったな。栞、大丈夫か? 気をつけにゃ」
 フェイドアウトするように気をつけにゃって言葉を何度もつぶやきながら空知はしゃがんでいた。空知に引っ張られるように立っている。立ったまま手をつないでいるわたしの方が若干背が高くなっていた。なにかが逆転してしまったみたいで、その逆転はすこし嫌ですこし寂しかったので、早く立ち上がってほしかったけれど。空知は子供になったみたいな視線で、膝に顎乗っけながらアスファルトの蟻をしらばっくれた瞳で見ていた。

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