今朝の雲はやたら高いところを漂っている。
まるで溶けたバターのように不規則に広がり、それが東の方へ流れてゆく。
どうしてその先が東だと判るのか。
答えは簡単だ。
このホテルの最上階にあるカフェからは町が一望できた。とりわけ良い景色が広がっている訳ではない。よくある地方都市の雑居ビル群だ。そして、その約2キロ先には工場が見える。
3階建てに匹敵する大きな工場はドーム状で、そのドス黒い褐色の屋根からは2本の煙突を突き出している。
それは僕がかつて務めていた工場でホテルから見ると東側に位置する。
だから工場の方へバターの雲が流れたら、それは即ち東を指す訳だ。
「まだ残っていたんだ……」
10年前に閉鎖した工場は当時のまま其処にあった。ずんぐりむっくり煙突2本、その実にユニークな造形の工場は、平凡なこの都市で昔も今も異形の存在感を放っていた。
「当時はNASAのロケット部品も作っていたそうですよ」
女性のフロアスタッフがそう言いながらコーヒーを置いてくれた。景色を眺めているというよりも、工場を凝視していた僕に気付いて説明してくれたのだろう。
「アメフラシの工場って呼ばれているんです」と女性は続けた。「あの形、海にいる軟体動物のアメフラシに似ているでしょう?」
「このホテルから見ると本当によく似ていますね、正直今まではそんなに似ているかなって思っていたんです」
あの腹の中で働いてはいたが、こうして離れたホテルの最上階で見る工場は本当にアメフラシのようだった。
「あ……お客様はこの町の方でしたか」
「いえ、以前あの工場に勤めていたんです」
女性はとても驚いた顔をして左手で口元を覆い「あら、すいません私ったら工場にいた方に余計な説明をしてしまいました……」と恥ずかしそうな笑みを見せた。
「ロケット部品を作っていたなんて僕も初耳でしたから、なにしろ閉鎖するまでの3年間いただけですから」
1942年から稼働しているアメフラシの工場は軍で使用する計器類の製造から始まり、戦後は時計の精密部品からガスメーターの針まで幅広く設計と生産を行っていた。
だが、人手不足と海外工場の波に押され10年前に潰れてしまったのだ。まさかNASAの仕事も請け負っていたなんて。
僕が入った頃にはすでに工場の半分は稼働停止状態、死にゆくアメフラシの中で過ごした3年間だった。
「だから、この町は10年ぶりなんです」
「そうだったんですか……」と女性は呟きながら何か思い当たるふしがあるのか目を泳がせていた。
「潰れた時は悲しかったな、好きだったんですよ、あそこで働くの」
そう言いながら僕はコーヒーを飲んだ。酸味が強く、その奥底にはまるでこのコーヒーの座標を記しているかのようにコクもしっかりと残されている、好みの味だった。
「このコーヒー……美味しいですね」
「此処のオリジナルブレンドなんですよ」
「なるほど」と僕は唸った。なるほど。
実はこのホテルのカフェのコーヒーはネットの口コミによってここ数年で知名度を上げコーヒーマニアならば1度は訪れたい場所になっていた。