小説

『てまりうた』木口夕(『山寺の和尚さん』)

 事件を起こした会社員山寺について、周辺の人間はこう語る。
「仕事ぶりは真面目でした」
 「いい旦那さんでしたよ、いつも奥さんと一緒で」
 「中学で同じクラスでしたけど、地味で目立たない感じでしたね」
 最後にはお決まりの、
 「あんな事件を起こすような人には見えませんでした」
 という証言で締めくくられる。

 事件の二か月前の朝。山寺はいつも通り家を出た。
 「今日は遅くなるよ」
 「分かった。無理しないでね。いってらっしゃい」
 出勤する山寺を妻が玄関で見送る。いつもの光景だ。
 山寺は小さな会社の営業職をしている。三十代は、まだまだ若手。地味な風貌と性格ながら、とにかく客の要望を聞いてこまめに動くので、成績はまぁまぁといった所だ。理不尽なクレームを受けてもぐっと堪える。会社の為、給料の為、妻の為・・・自分を抑えつける枷は幾らでもある。山寺は溜まったストレスを飲みに行って吐き出したり、休日にスポーツで発散するタイプではなかった。ただただ、腹の底に澱のように、やり切れない鬱憤が溜まって行った。思いがけない発散法を見つけるまでは。

 それは、山寺自身どうして自分が、と思う方法だった。きっかけは、家へ帰る途中の公園に座っていた時。山寺はいつもこの公園で自分を切り替える。
 客の無茶な要求に応え、制作部門へ頭を下げ、余計な仕事を増やしてしまったアルバイトへ自腹でジュースを奢る。そんな苦労も上司にとっては当たり前のことで、評価の対象にはならない。家へ帰れば今度は良い夫の役割が待っている。ああ、そう言えば今日はお土産のコンビニスイーツを買い忘れた。太るんだけどなぁと言いながらも妻は喜んで食べる。
 (買いに行くか)
 勢いよく立った時、足元から
 ギャッ!
と悲鳴が上がった。
 「えっ?」
 黒い影が飛ぶように逃げて行く。野良猫の足か尻尾を踏んでしまったらしい。
 「あ、あぁ。ごめんな・・・」
 逃げる影へ謝りながら、心の奥から初めての感情が湧き上がる。これは何だ。この感情は。

「山寺さん、何か最近明るいですね」
 会社の同僚にそう言われるようになった。
 快活な表情になり、積極性が出て来て、周囲の評判も営業成績も右肩上がり。それらは皆、初めて見つけたストレス発散法のお陰だ。
 あれ以来、山寺は毎夜公園へ寄り道をする。ポケットから猫餌を出し、人目につかない場所に撒いておく。
 (今日あたり、やるか)

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