小説

『マーメイドの食器棚』長谷川美緒(『人魚姫』)

 もやのようにかたちの定まらない薄闇の中を、ただひたすら前へ、前へと進んで行く。
 とっさにつっかけてきた履物が、ヒールのないパンプスで助かった。他人事みたいだけれど、何に足を入れるかなんて気にも留めなかった。いつもは家を出る前に、あるだけの靴を並べてさんざん悩むというのに。
 前にあるものもよく見えない、濁った水槽の奥みたいな闇を掻き分けるようにして、どれくらい歩いたのだろう。時間の感覚が抜け落ちてしまったみたいだ。ただ足が、体を運んでいくのにまかせている。ついさっきまで確かに舗装された道だったはずのところが、柔らかく湿った土に変わっている。わずかに下草も生えているらしい感触が伝わってくる。ぼう、と、少し先に明かりが見えた。
 森が始まるところまで来ていた。わたしは歩調をゆるめた。道がなくなり、木の葉が鬱蒼と生い茂るその手前に、ほとんど小屋といってもいいくらいの小さな家が一軒、ぽつりと建っている。
 胸に抱えてきた包みをそっと、守るように抱きなおした。包みは、薄い瀬戸物どうしが触れあうような、かちゃ、という音をわずかにたてた。皮膚を切られるかすかな痛みがよみがえる。右手の人差し指の腹に目をやると、ぷっくりとにじみ出ていた血は、もう乾いていた。
 鐘のかたちをした、くすんだ金属のドアベルを鳴らそうとして躊躇っていると、「開いてるよ」とくぐもった声がした。カーテンをかけた窓の奥で影が揺れ、扉がゆっくりと向こう側へひらいた。明かりが柔らかくこぼれ、何か香りのいい空気がふわ、と流れてくる。
「ちょうどお茶が入ったところだよ。さあさあ、おはいり」
 柔和な笑みを浮かべた老婆がわたしを見て、弾むような声で言った。それからフェルト生地の室内履きをはたはたと鳴らして部屋の中へ歩いて行くのを、追いかけようとしてふと自分の靴に目をやった。薄く土のついた黒いパンプス。このまま入ってもいいものだろうか? 靴を拭くためのマットなどは見当たらない。少し迷ってから、板張りの床に一歩、足を踏み入れた。紅茶のような香りがまた漂ってきた。扉を閉め、遠慮がちに奥を覗くと、どっしりした木のテーブルの真ん中にガラスのポットが置かれ、老婆が鼻歌を歌いながら食器棚を開けてティーカップを選んでいた。
「いま、準備するから。ちょっとそこへ座って、待っていておくれね」
 言われるままに、背もたれのない丸太のような椅子に腰をかけ、包みをテーブルの上に置いた。外から見た時には小さいと思った家は、入ってみると奥行きがあって広く感じられた。掃除の行き届いた室内にはあちこちに花の鉢植えが置かれている。ガーベラ、パンジー、胡蝶蘭に、……サボテン。
「あたしはね、何でも屋じゃないんだけどね」
 老婆が苦笑しながら、蔓草模様のカップに紅茶を注いでわたしの目の前に置いた。それから自分のぶんも用意して、椅子にかけた。
 わたしはテーブルへ置いた包みに手を触れて、それからゆっくりと、結び目をほどいた。弁当の包みを小ぶりにしたくらいのそれの、濃い色の布を一枚ずつよけていくと、骨のように白々とした円く薄いものが重なって現れた。一番上には真っぷたつに割れた破片がのっている。ああリンちゃん、危ないから、いま箒とちりとり持ってくるから待ってて――義母の声は聞こえていたけれど、その前に体が勝手に動いて、わたしは破片を拾い上げていた。

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