小説

『花冠の約束』ハンチング純一(『自殺について』他四篇)

 見ず知らずの男に辱《はずかし》めを受けていた小学4年生の私を助けてくれた先生は、その14年後、笹野くんという名の、全く縁《ゆかり》のない幼い子どもの命を救った。

 優しくて思いやりがあって勇敢な先生は、この髪に花飾りをつけてくれることもないままに、あの日、あの瞬間に、忽然と私の前から姿を消してしまった――

 
 目覚めると、深緑色の水が視界いっぱいに広がっていた。

 水面に浮かんでいる手漕ぎボートのうえで、膝を抱えながら本を読んでいるのは、白い花冠に白いドレスで身を飾った若い女性だった。

 真珠のように慎ましやかな光を放つサテンの生地のうえに開かれているのは、ショウペンハウエルによって著された、それほど厚みのない文庫本で、その人が感謝し憧れ、永遠の契りを交わし、今もなお愛し続けている男性の愛読書だった。

 
〈…………死後の生命のことについてたずねられるとしたら、思うに最も適切なまたさしあたり最も正確な回答は次のようなものであろう――「君が死んだ後には、君が生れる前に君があったところのものに、君はなることだろう。」…………だからもし怖ろしいということがあるとすれば、せいぜいのところ移りゆきの瞬間だけなのだ。…………以上すべてを考えあわせてみるならば、たしかに生は夢なのであって、死はまた目覚めであるという風に考えることができる。
…………このような観点からすれば、死は我々にとって全く新しい見慣れぬ状態への移行と見做《みな》されるべきものではなく、むしろそれはもともと我々自身のものであった根源的状態への復帰にほかならぬものと考えられるべきなのである、――人生とはかかる根源的状態のひとつの小さなエピソードにすぎなかった。…………我々の人生というものは死から融通してきた借金のようなものだと考えられよう、――そうすると睡眠はこの借金に対して日ごとに支払われる利子だということになる…………〉

 
 その人の目はこれらの文字列を追っていたが、何度追ってみても、字面だけがただ、眼球の表面を素通りしていくだけで、その人の心は、羅列する文字が示す意味をいっこうに読み取ることができなかった。

 いよいよ先生に訊いてみるしかないと思ったその人は、吊り橋付近に浮かんでいるボートに向かって、オールを動かし始めた。

 けれども、向かい風が吹いているせいなのだろうか、漕げども漕げども、先生が乗っているボートとの距離が少しも縮まらない。

 それでもその人の手は、諦めずに懸命にオールを動かしていく。

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