小説

『花冠の約束』ハンチング純一(『自殺について』他四篇)

 もう10分以上も休むことなく漕ぎ続けているはずなのに、二艘《そう》のボートのあいだには水がひらけていて、先生の背中がずいぶんと小さくなってしまっていた。

「先生、待って!」

 届くはずがないとわかっていても、その人は呼びかけずにはいられなかった。

「それ以上、オールを動かさないで!」

 遠ざかる背中に呼びかける声が、水のうえに虚しく響いて、うすい霧がかかり始めた虚空へと儚く消えていった。

 もう一度呼びかけようと思ったとき、その人の髪を飾っていたシロツメクサの花冠が、強い突風にあおられて水面に飛ばされた。

 手をのばしても届かない距離だったから、その人はふたたびオールに手をかけて、花冠が浮かんでいるほうへとボートを近づけようとしたとき、ふと吊り橋の向こうに視線を流すと、濃い霧が立ちこめていて、先生のボートが見えなくなっていた。

 ――もしもこのまま先生に会えなかったら、この本の意味が永遠にわからないままかもしれない。

 ――だったら、すぐに追いかけななくちゃ!

 ――あっ、でも、その前にあの花冠を!!

 その人の視線が水面へと移ろいだ。

 シロツメクサが浮かんでいたはずの水面へと。

 けれども、そこにはただ淀んだ水があるだけで、その人が大切にしていた花冠は影もかたちもなくなっていた。

 そのときだった。

 ボートの舳先《へさき》が突然、見えなくなって、その人の体が宙に浮いた。

 一瞬、目の先に大きなくぼみが見えた気がしたが、確かめることもできないままに、その人の身はボートもろとも、水の中に大きくあいた円形の穴へと飲み込まれるように消え失せてしまった。

 先生と、先生がこしらえてくれた花冠を同時に失ってしまったその人の身もまた、愛している人と、愛している人がくれた贈り物を飲み込んでいった水の穴へと消えていった。


 目覚めると、私の肉体は消えていて、シロツメクサの花冠が畳のうえにひっそりと置かれていた。

 目が覚めたということは、さっき水の穴に落ちてしまったあの場面は、現実に起こったことなどではなく、夢の中で起きた出来事だったのだろうか。

 だとしたら、夢の中で夢を見ていたということなのか――

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