小説

『耳』田辺ふみ(『耳なし芳一』)

 美しい耳だった。
 ふんわりとした耳朶は縁に近づくにつれ、赤みを帯び、甘い果物のようだった。
 上部のカーブは優しく、耳輪はくっきりとしていた。
 その内側の穴に向かう迷路のような襞はくねくねと曲がり、まるで、誘っているようだった。
 そして、穴。女のような柔らかそうな産毛がまわりに生えていた。その中心に暗く秘密を隠したような穴。
 触りたい。
 その穴に指を入れたい。
 こんな美しい耳が世の中にあるとは思わなかった。
 この阿弥陀寺の本尊の前に初めて立った時のことを思いだす。
 ありがたく、気高く、そして、美しいお姿。これより美しい耳はないと思った。
 それが、現世にも存在するなんて。
 きっと、この耳で聞きながら練習するから、芳一の琵琶の音は美しいのだ。
 そして、盲目の芳一は私がじっと見つめていることにも気づかない。いや、その美しい耳で気配には気づいているのだろう。
 あの耳が私を捉えている。そう、思うだけで身体が熱を帯びるようだ。
 いけない。こんなことでは悟りから遠ざかるばかりだ。
 芳一の前に住職が座った。
「琵琶をひいてやりたいと思うお前の気持ちは優しい。ただ、相手は平家の亡霊。お前は八つ裂きにされてしまうだろう。演奏に行ってはならぬ、行ってはならぬぞ」
 あまりにも美しい琵琶の音に亡霊が執着してしまったらしい。芳一が今夜も琵琶をひけば、亡霊に殺されると住職は考えている。
「明日も迎えに来ると言っていました。私が迎えを断るなど、とてもできません」
 芳一は首を少し傾けて、答えた。
「それよ。拙僧がいれば、お前を守ることもできるのだが、今日は法会に行かねばならぬ。また、他の者ではお前を守りきることは叶うまい」
 住職は少し考えてから、私に命じた。
「筆と墨を持て」
 住職は芳一の身体に般若心経の文句を書き込み始めた。
「足の裏を頼んだ」
 私は芳一の足の裏に経文を書き込んだ。
「頭を」
 私は芳一の頭に経文を書き込んだ。頭頂、後頭、顔。
 耳まで来て、手が止まった。

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