小説

『耳』田辺ふみ(『耳なし芳一』)

 この美しい耳に墨をつける? 私の字では汚すも同然ではないか。
 住職に代わってもらおうかと思ったが、住職は一心に芳一の背中に経文を書き込んでいる。白い肌に墨文字が美しい。
 しかし。
 芳一の耳を見た。
 住職の文字であっても、この耳には相応しくない。
 こっそり、筆を変え、ただの水を含ませると、私は芳一の耳に経文を書いた。
 美しい耳に水が光り、文字が浮かび上がる。それから、乾くにつれて、その文字は消えていく。
 観。自。在。菩。薩。
 筆の先を通して、私は耳に触れている。
 そっと、優しく触れている。
 舐めるように、くすぐるように、撫でるように。
 最初、緊張して、震えていた手が生き生きと動き出す。手が心が私の身体が喜びに打ち震えている。
 芳一は住職や私の筆を感じないかのようにじっと座っていた。
「よし、これでお前の姿は亡霊たちには見えなくなった。何があっても、声を立ててはならぬ、動いてもならぬぞ」
 住職は芳一に言い聞かすと、私たちを引き連れ、法会に向かった。
 法会の間、ずっと、私は心の中で般若心経を唱えていた。
 そして、目に浮かぶのは、経文の水文字が光る美しい耳だった。


 寺に帰ったときにまず、気づいたのは血の匂いだった。
 住職は青ざめ、芳一のもとへ走り出した。私もすぐに後を追った。
 芳一はじっと座っていた。
 両耳からだらだらと血を流しながら。
 いや、そこには耳はなかった。
 あの美しい耳の代わりに無残に引きちぎられた傷跡があった。
「芳一、済まぬ。悪かった。まさか、耳に書くのを忘れていたとは」
 住職は声を上げた。耳を担当したのは私だということが頭から抜け落ちてしまったらしい。
 「横になれ」、「医者を呼べ」と大騒ぎだった。
 私は淡々と芳一の世話をした。
 命を取りとめた芳一は耳なし芳一の名で有名になった。
 そして、あの耳がなくなったことで私の修行をさまたげるものはなくなったはずだった。
 それなのに、いまだに執着を捨てることができないことがある。
 美しい耳を引きちぎっていった亡霊は本当に芳一を迎えに来た証拠として、持って行ったのだろうか。
 実はあの耳に心を惹かれ、自分のものにしたいがために引きちぎっていったのではないだろうか。
 あの耳を捨てることなどできるだろうか。
 どこかに大切に保管されているのではないだろうか。
 耳の行方が気になって仕方ない。

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