小説

『愛はふたりが同時にめざめる朝』いわもとゆうき(『浦島太郎』)

 マンションに帰るとドアの前に乙姫がいた。
 楽しい楽しい夢のような日々を竜宮城で過ごして戻ってきてから一年が経っていた。何しろ竜宮城から戻ると浜辺の景色は激変していたし、家族や親戚はおろか知り合いさえもまったくいなかったありさまで(面影のある人たちは何人か見かけたが)、とにかくようやく何かとここにきて落ち着いてきたところだった。驚いたことに、浜辺で目を覚まして最初にぼくに話しかけてきた老人の話によると、どうやら世界規模の大きな戦争が三度もあったようだったのだ。茫然自失状態の、おまけに変な服装の変なイントネーションで話すぼくにこの町は、ありがたいことに住む部屋や毎月の生活費や仕事さえもあたえてくれた。まるで人類の理想郷のような場所になっていたこの町で、さびしさや環境に慣れるのにつらい日々だったことはその通りなんだけど、でもぼくはけっこうこの一年あの頃に比べたらびっくりするほどに快適で優雅な日常生活を送っていた。仕事はカルチャーセンターのつり入門の講師を紹介された。何が得意なのか役所の何かの担当の人に聞かれて、ぼくは釣りかなと答え、実際にその役所の担当の人たちの目の前で実践してみた結果がそれだった。この町では誰もが必要とされ、誰もがそれにきちんと応えていた。    
 乙姫が、七階のぼくのマンションの部屋のドアの前にいたのは、ちょうどそのつり入門の授業から帰ってきたところの黄昏どきのことだった。乙姫はこの時代のこの海辺の町に溶け込んだカジュアルな服装をしていた。初夏の季節の陽気をそのまま身につけたかのようなサマーセーターに、動くたびにアコーディオンみたいにゆれて風のメロディーが聴こえてきそうなやわらかなスカート。そして何より自然界のすべての美の結晶のようなその完ぺきな容姿。ぼくは軽いめまいをおぼえながら乙姫に言った。
「やあ、ひさしぶりだね」
 乙姫はふっと口元に笑みを浮かべて、
「その髪型似合うわね」
 と言った。
「そうかな?」
 とぼくはウルフカットの髪に手をやった。
「ずいぶん印象が変わるものね。最初誰だかわからなかったわ」
 そう話す乙姫の声は相変わらずサテンのドレスようになめらかで艶めかしかった。
「君も髪をおろすとそんなセクシーな感じになるんだね」
 とぼくは微笑んだ。
「結ってた髪はセクシーじゃなかったかしら?」
 と乙姫は不満げに髪を両手でかきあげてみせた。
「ううん。とってもセクシーだったよ。また違ったセクシーさって意味さ」
 とあわててぼくは取り繕った。
 すると乙姫はそのくちびるに満足げな微笑みを浮かべるのだった。それはまるで時間さえも止まって見入ってしまうような、暴力的なまでに色っぽい微笑みかただった。
「会いに来てくれるなんてうれしいな」

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