小説

『愛はふたりが同時にめざめる朝』いわもとゆうき(『浦島太郎』)

 とぼくはどきまぎしながらぎこちなくそう言った。
「あなたが玉手箱をいつまで経っても開けないからよ」
 と乙姫は今度は一転して冷たく言い放った。
 でもそこからは怒りというものは感じなかった。強いて言うなら、母親が子供に対してたしなめるときのそれに近かった。
「こんなところでそんな話もなんだから部屋に入るかい?」
 とぼくはポケットから鍵を取り出した。
「そうね」
 と乙姫は言うとニッコリと笑った。

 レースのカーテンを開けると、目の前にはピンク色に染まりはじめた海が見えた。ぼくは窓を開け放って外の空気を部屋に入れた。マンションと海のあいだには砂浜があり、防波堤があって、制限速度が三十キロの幹線道路があり、外灯が並ぶ植え込みがあって、それから歩道があり、マンションのレンガの塀があった。クルマの静かな走行音が消えると波音が聞こえた。乙姫はソファーに座って部屋の中を見渡していた。一人暮らしの男の部屋のわりにはきれいに整理整頓されているほうだと思う。一応インテリアは『男の部屋』という雑誌を参考にした。ぼくは窓を開けたまま、台所に向かった。2LDKのつくりで、寝室用にしている部屋にはセミダブルのベッドがどかんと置いてあった。寝心地は最高だった。
「何か飲む?」
 とぼくはじぶんの身長ほどある冷蔵庫を開けてふり向いた。
 乙姫はソファーからぼくに視線を向けて、水で、と言った。ぼくは冷蔵庫から2リットル入りのミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、コップに注いだ。それからぼくはソファーの前のガラス板のテーブルにそのコップを置いた。乙姫は一気に飲み干した。ぼくは台所に戻り、冷蔵庫からペットボトルをふたたび取り出して、そのままテーブルの上に置いた。乙姫は身動きひとつしなかった。ぼくはペットボトルのキャップを開け、コップに注いだ。乙姫はコップを持つと、また一気に飲み干した。ぼくがまたつごうとすると乙姫は、もういいわ、と言った。ぼくはキャップを閉め、冷蔵庫に戻そうとすると乙姫は、置いといて、と言ったのでぼくはそうした。台所にぼくは戻ると、冷蔵庫から缶ビールを出して、そのままひとくち飲んだ。乙姫がコップに指でちょんちょんとたたいて指図した。ぼくは冷蔵庫から缶ビールを取り出して、テーブルに置いた。乙姫は身動きひとつしなかった。ぼくは缶ビールを開け、コップにはんぶんほど注いだ。乙姫が一気に飲み干そうとしたとたん、盛大に床に吹き出した。ぼくは台所からぞうきんを持ってきて床を拭いた。ふと乙姫を見ると、彼女はじぶんで缶ビールをテーブルに置いたコップに注いでいた。泡がコップからあふれ出した。そしてテーブルに泡がひろがっていった。ぼくは台所からふきんを持ってきて、テーブルの上を拭いた。ふと見ると、乙姫がコップのビールを飲み干していた。乙姫はコップをテーブルに置くと、目をパチクリさせてから目を閉じ、それからゆっくりとスローモーションのようにソファーに倒れ込んだ。

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