やや黄ばんでいるピアノの鍵盤。
彼女はそれに向かって長い黒髪を振り下ろしていた。
振り下ろすという表現は間違っているか。
正確には、彼女は頭を力の限りに振っている。振り乱す艶やかな黒髪。それが鍵盤に向かって下りるんだ。
鍵盤上の指先が、滑らかに波打ち流れる。それと交互して、彼女の頭が振れる。
力強く、そして懸命にだ。
鍵盤に吸い付く指先。力一杯に押し込め、叩かれて響く弦の音色。
だけど僕に響くには刹那に遅れる。指先が盤から離れる瞬間に、引かれるように心の弦を鳴らしてくれる。
彼女は目の前。本当に直ぐ前。
けたたましい音の中で、息づかいまで感じとれる程に目の前で。
彼女はピアノを弾いている。
圧倒され、感動させられ。
唖然としたままに聴かされる、僕の為に奏でられる曲。
でも、僕は彼女を知らない。
今、思い知らされている。
偶々に出会した彼女に、今は魅入られているんだ。
平日の昼食時を過ぎた頃だ。お店に伺ったのは。
何時もその時間帯を狙って。ランチ客達が引き揚げる時を。
週末はやや、お客が少なめなのもある。この近辺では。
喫茶店というには広めの開放されたフロアだ。ギャラリーカフェといった所か。
店のカウンター席列、その側にアップライトピアノが設置されている。そこが舞台。休日などは様々なジャンルのライブも行われている。
シックな雰囲気ではない。店構え、室内の造り、家具に至るまで。木目が色濃く出るノスタルジーな情緒。温かみに包まれる、この店の息づかいが好きになった。