母方の祖父は無口な人だった。年子の三人姉妹の私たちがたまに遊びに行くと、迎えてくれるのはいつも祖母のほうで、祖父の方はどこかに出かけているか、たまにいても階下の書斎に篭っていた。
それでも覚えているのは、真夏のある日、一度だけ、なぜか私たち姉妹三人は彼の書斎に呼ばれた。夕方の日差しが伸びかけた雑草を照らす庭から薄暗い室内に足を踏み入れると、ひんやりと湿った空気が身を包む。天井から吊るされた裸電球が同じオレンジ色でもこちらは細いオレンジ色の光を放っている。壁にぎっしり並ぶ埃っぽい本、棚に積み上げられた、錆びたお菓子の缶 。その先に、狭い部屋の奥に座っていた祖父が立ち上がるが、三人の六、七歳の女の子たちに何を言えよう。対面した私たち姉妹も、慣れない部屋の雰囲気もあいまって、果たして何を言っていいのかわからなく、もじもじしていた。どうして祖父は私たちをここに呼んだのだろう?
それでも、しばらくたつと、私たちは普段見慣れない部屋のあれやこれやをつつきまわし始めた。こういうところは、三人姉妹の強さである。何かを見つけては、彼に掲げて見せる。「これなあに?」「新聞屋からもらったうちわ。」もちろんうちわが何かなんて見ればわかっていたのだが、祖父とはいえ、あまり知らない誰かの部屋にあるものは、知ってるものでも、何か違う気がした。「じゃあ、これは?」…自宅でも私たち姉妹は、おもちゃで遊ぶよりもいつも、むしろそういうことを飽きずにやっていた。祖父は特に気の利いた答えを返すわけではなく、ひたすら客観的に、社会的に、それらが何と呼ばれているか、を辛抱強く答える。その対象にできるものもだんだん飽きてきて、すでに聞いたものを取り上げ、祖父ではなくお互いに聞きだすクイズ形式に発展。当 然、少しでも間違ったり、そうでなくても、「ブッブー」となり、「なんで?」というところに、「これはうちわでなくて新聞屋さんにもらったうちわです。」となり、『負けた』方が『勝った』方にズルをしたとかしないとか…自ら呼んだはずの祖父は、後悔していたりしたのだろうか。
そのうち、部屋の外、祖父母の住居のある階上から祖母が私たちを呼ぶ。晩御飯の用意ができたのだ。私たちが来ても、祖父はいつも私たちとは一緒に食べなかった。部屋から出て行こうとする私たちを祖父は呼び止める。振り返る私たちに、祖父は言う。「なんでもいいから、この部屋にある好きなものをあげよう。」突然の申し出に、私たちは面食らう。「なんでも、って?」「だからなんでも。この部屋にあるもので好きなものを一つあげよう。」「本当になんでもいいの?」「なんでも。」父にも母にも、そんなことは言われたことがなかった。靴下に穴が開いても、新しいのを買ってくれと言うのは気が引けて、しばらく足の指が穴に食い込む靴下で我慢していた。底一面に穴が開いてしまってもはや靴下の役目を半分果たさなかった真っ赤な靴下を今でも覚えてい る。せがむのは気が引けたが、穴が空いているのは 自分さえよければ特に問題ではない、という時代でもあったのだと思う。