小説

『修羅よ、櫻の樹の下で眠れ』長月竜胆(『春と修羅』『櫻の樹の下には』)

 

 

 草木を掻き分け、時に斜面を這いずりながら、山を登っていた。

 東北の桜の開花は遅い。ようやく蕾がちらほらと開き、春の色が辺りを染め始めていた。

 季節を映して刻々と変わりゆく風景。毎日眺めてもいれば、確とその変化を体感できる。しかし、不思議と変わらないものもあった。

 辿り着いた中腹、遠く開けた景色を臨む、切り立った崖の上。傘のように枝葉を伸ばす、大きな一本の桜の樹、その下で。決まって同じように、キャンバスを前に老いた男が座っている。筆は仕事を与えられず、キャンバスは色を知らぬまま。ここ数日、それは変わることなく、まるで男だけが時間の外にいるようだった。

 時折頭を揺らすので意識はあるようだ。しかし、やはり異様というほかない。ましてやこの、曰く付きの場所で。

 如何に絶景とはいえ、山など珍しくもない風光明媚なこの田舎で、わざわざこんな秘境まで足を運ぶ者はそういない。いるとすれば、余程の物好きか、もしくは何かしらの訳ありだ。

 そう、ここは特別な場所。一部では、自殺の名所とも噂されている。美しさと恐ろしさが相まって、生と死の狭間、と誰かが呼ぶ。

 あの男もそうであるとは言い切れないが、初めて彼の姿をそこに見つけた時、その傍らに、死が寄り添っているように見えた。

 光に溶け込むように儚げで、影に沈み込むように侘しげで。

 私は、確かめなければならない。彼の中にあるもの、その正体を――。


「こんにちは。良い場所ですね。何をされているのですか」

 ここへ通い始めて四日目、私は初めて男に声をかけた。キャンバスを前にした人間に対し、間抜けな質問だったかもしれない。しかし、男は訝る様子もなく、私に一瞥をくれることもなく、「時が来るのを待っている」とただ静かに答えた。

「桜が咲く時を?」私が尋ねると、「私の中に、ね」と男は答えた。

「君もここ数日、毎日のように通っているだろう」

 不意に男にそう返され、私は少し驚いた。

 気付いていたのか。

 慎重に監視しているつもりだったし、男はじっと座っているばかりでそんな素振りもなかったというのに。

「……ええ。ご覧の通り、写真を撮るのが仕事なもので」

 私は首から下げた一眼レフを見せる。しかし、男は顔も上げずに首を振った。

「そうか。私は目が見えないものでね」

「目が? 失礼ですが、よくこんな場所まで通えますね。それに、絵を描くことができるのですか?」

「体が覚えている。それに、今になって見えるようになったものもある。視力のあった頃の方が、私には何も見えていなかったのかもしれない」

「そういうものでしょうか」

「少なくとも私はね。失って初めて、大切さに気付いた。空になって初めて、自分を知った」

「……はあ」

 不得要領な話だ。男がどこを向いているのかさえ分からない。戸惑いをそのまま相槌にすると、「救いようのない愚か者の、罪と罰の話だ」そう言って、男は語り出した。

「もう二十年は昔の話になる。当時四十過ぎ、私はそこそこ名のある画家として活動しながら、とある美大で教壇にも立っていた。そこで、生徒だった二十歳の女学生と恋に落ちた。いい年をしてと笑われるかもしれないが、私にとっては初めてのことだった。絵以外に心を奪われたことなどなかったんだ。真剣な恋だった」

「それでも、風当たりはさぞ強かったでしょう」

「祝福してくれる者はいなかったな。だが私たちは、周囲の反対を押し切り、結婚を前提に交際を続けた。彼女もプロを目指していたから、状況が安定するまでは、互いに自分の生活を優先させることにしていた。胸を張って肩を並べられる、いつかを夢見て」

「……夢、ですか」

「そう、夢に過ぎなかった。彼女が大学を卒業して二年が経った頃、私は自身の目の不調に気付いた。網膜色素変性症という難病だった。医者には失明する確率は高くないと言われたが、日に日に状態は悪化し、私の目は確実に光を失っていった。期待を持たされた分、余計に失望も深くなった。裏切られたようにさえ感じた。医者に対して酷い悪態をついたものだ」

 男は中空に浮かぶ太陽へ顔を向け、サングラスを外す。弱くはない日差しに、その目を細めることもなかった。ゆっくりと目を閉じると、代わりにまた口を開いた。

「何れ光を完全に失うと思うと恐ろしくて仕方なかった。画家としては終わりだ。理解してはもらえないだろうが、私は人である前に画家だった。それだけが私を生かしてきたんだ。そんな与えられた唯一のものを、取り上げられようとしている。私は荒れた。絶望の中で、全てを否定し、他者を遠ざけた。彼女さえも」

「では、それっきり彼女との関係も……」

「そのつもりだった。だが、彼女は強情でね。何度無下に追い返そうとも、あなたには支えが必要だと、根気強く私のもとに通い続けた。とても芯の強い女性だったんだ。だからこそ、惹かれたのかもしれない。しかし一方で、その芯の強さが悲劇を生むことにもなった」

 機械のように単調だった男の声が、震えて、掠れた。男は少しの間を置き、感情を押し殺すように、また静かに語り出した。

「突然の連絡だった。私のアトリエが火事になり、彼女が亡くなったと。火事の原因ははっきりしていない。ずっとほったらかしにしていた。結局、それがいけなかったんだろうな……。アトリエは全焼したが、絵は何枚か無事だった。駆け付けた彼女が運び出したんだ。炎に巻かれながら。彼女は、必死で私の絵を守ろうとした。いや、彼女が本当に守ろうとしたのは……。いつだって手遅れになるまで気付かないんだ。人である前に画家だった。そんな私を人にしてくれたのが彼女だった。私は既に得ていた。たとえ光を失っても、画家でなくなっても、私には生きる理由があった……」

 語られる罪と後悔の告白。暗闇以外を映さない男の目に光る雫が浮かぶ。懺悔のようなその態度に、腹の奥を掻き回されるような思いがした。

「……今は全てを失い、罪だけを背負って生きている。実は肺も患っていてね。余命幾ばくもない。相応な人生かな。さんざ身勝手に生きた罰か」男は息を漏らすようにそう言って、鼻を啜った。

 救いようのない愚か者の、罪と罰の話――か。

 つくづく癪に障る。「勝手なことばかり……」私は苛立ちを抑えられなかった。

「あなたの不幸が罰だというなら、同じように病に苦しむ人々も、罰によってそのような目に遭っていると? あなたが死なせたという彼女も、罰によって命を奪われたと? それはあんまりではありませんか」

 男は一瞬動きを止め、黙り込む。そして、小さく頷いた。

「なるほど。仰る通り、失言だった。世の中は平等ではなく公平でもなく、不運というのはいつも理不尽なもの。また身勝手な言い訳だった。申し訳ない」

「……いえ、こちらこそ失礼しました。私も辛い死別を経験しているものですから、つい……。神も仏もいやしないと思い知らされながら、一方で神や仏を呪って生きてきました。所詮は都合の良い偶像です。時に祈り、時に感謝し、時に恨み、行き場のない思いを向ける先として縋っている。浅ましい矛盾に揺れてばかり。人は誰しも身勝手です。己の弱さが情けなくなります」

 そうだ。分かっている。身の内に滾るこの怒りは、男に対してのものではない。

 目に映る景色はいつだって他人事。春を湛える、水晶のような柔らかな輝きも、生命の滲む色彩豊かな香りも。心の内は、青い炎に揺らぐ灰の世界。だから、レンズ越しに見ると安心できる。隔てた硝子が実感を与えてくれる――。

「ご存じですか? この場所は、陰で自殺の名所のように言われていることを」

 問い掛けると、男は頷いた。

「皮肉なものだ。こんなにも美しい場所が」

「そうでしょうか。むしろ、こんな場所だからこそ最期に相応しいと考えるのではないですか。それに、桜の樹の下には死体が埋まっている、とも言うでしょう」

「人を魅了する、生と死の狭間か。ますます皮肉なものだ。真に求めているのは生なのか、死なのか。実を言うと、若い頃はよくここへ絵を描きに来た。私もまた魅了されていたのかもしれない。今や、心に最も深く色付く、思い出の場所だ。彼女を連れてきたこともある」

「そうでしたか。それなら安心しました。てっきり、自殺志願者なのではないかと」

「自ら命を断つことはしない。私に、そんな権利はない」

「余計なお節介でしたね。お騒がせして申し訳ありませんでした。それでは、そろそろ私は失礼します」

 会釈をして、踵を返す。そんな私の背に、「――私を殺さないのかね」と男の声が刺さった。

「ここなら誰も見ていないし、簡単だ。崖から突き落とせばいい。事故か自殺としか思われないだろう」

 心臓を撃ち抜かれたようだった。盲目と思って油断したか。最後に会ったのは、十年以上も前のことだ。

「……気付いて、いたのですか」

「今になって見えるようになったものもあると言っただろう。それに、目が光を失っても、焼き付いて離れない景色がいくつかある。この場所もそうだし、彼女のこと、そして、その遺族、特に彼女の兄の顔。あの時の君の怒りに満ちた目。天啓のように感じた。君がここへ現れたことは」

「……天啓、ですか」性懲りもなく。「とんだ思い違いです。言ったでしょう。あなたがこの場所へ通っていると知り、自殺でもするつもりなのではないかと、それを確かめに来ただけです。私にも楽になる権利はない。妹は幸せになるべき人間でした。私は守ることも救うことも、支えてあげることもできなかった。死ぬまで生き、苦しむべきです。あなたも、私も……」

 そう、それが全てだ。ただ、それだけだ。

 私は止まった足をまた動かし始めた。背後で、

「あと三日もすれば、桜が満開を迎える。その頃に、もう一度だけ来てもらえないか。渡したいものがある。桜の舞い散る、その下で」

 男が言った。私は返事をせずに足を動かし続けた。


 三日後。私はまた、斜面を上がっていた。

 足取りは重い。しかし、だからこそ行かねばならない。苦しみの道を歩まねばならない。

 山はむせ返るように春の色が強まっていた。その中で、変わることなく待ち受ける男。そう思った矢先、私は変化に気付いた。

 白紙だったキャンバスに見事な絵が完成している。屍の絡み合うおどろおどろしい大地と果てしなく清らかな光注ぐ蒼穹。そして、それらを結ぶ、温かな桜と花吹雪。生と死が、そこには宿っていた。

「驚きました。とても盲目の人間が描いた作品とは思えない。これ程までに、色と光に満ちている。そして、これ程までに、美しく、醜い。まるで、いや、まさしく……」

 話し掛けている最中、私はもう一つの異変に気付いた。

 男は、座したまま絶命していた。眠るように。自らの全てを込め、この絵を描き切ったのだ。

 ふと目に付く、絵の隅に書かれた文字。

『修羅よ、櫻の樹の下で眠れ』

 タイトル、あるいはメッセージ?

 修羅――憤怒や憎悪に侵されし者。私のことか、男自身のことか。いや、人は誰しも……。

 感情や想いは割り切れるものではない。愛する程に、失われた時の哀傷は強く、求める程に、得られぬ時の失意は深い。

 この絵は、そんな修羅の安らかな眠りを祈るものなのか。それとも、桜の樹の下の死体のように、この醜くさまよう心の上にも、美しき何かを咲かせることができる、その可能性を願うものなのか。

 男は、何を伝えたかったのだろう?

 不意に風が吹き抜け、キャンバスの上で無数の桜の花弁が躍った。現実と絵が混ざり合う。私はハッとして、十歩程下がり、カメラのレンズを覗いた。

「……そうか。渡したいものとは、こちらのことか」

 光に溶け込むように儚げで、影に沈み込むように侘しげで。完成された、一つの風景。

 ふと師の言葉を思い出した。

『写真は絵のようであってはならない。絵は写真のようであってはならない』

 替えが利くようなものは本物ではないという意味だ。しかし、心象と現実が大きくズレ始めた私には、何が本物か分からなくなっていた。

 今目の前にあるものはどうだ。光を失った男には見えていたのかもしれない。それを伝えたかったのかもしれない。


     花散り行くも 風うたう波の葬送 大地は未だ遠く

  刻溶け合う銀河 生と死の狭間で 明滅する夢現

    瞬きを重ねた永遠に あるいは 永久を刻んだ一瞬に 真実が映る

 在るもの 見えるもの 偽りなどではなく ただそれが 全てなのだ


 その心を景色へ重ねるように、その景色を心へ刻み込むように、私は静かにシャッターを切った。


(了)