小説

『クロワッサンと筍ご飯』ウダ・タマキ(『田舎のネズミと町のネズミ』)

 

 

 クロワッサンを頬張る顔が、憎い。

 ついに憎しみの感情が芽生えたか。そう思いながら、倉田貴子はコーヒーを啜った。

 にがっ―

「どう? 美味しいでしょ?」

「え、あ、まぁ……」

「このペルー産のコーヒーは、酸味とコクのバランスが絶妙でさ。あ、マチュピチュって知ってる? ペルーのコーヒー豆ってのは標高が○#&☆〒」

 森口雄也が語るうんちく。耳をシャットアウトし、途中から雑音と化した。テーブル席が満席なのを幸いと思ったが、道路に面したカウンター席で横並びに座る方が苦痛だと知る。やたらと体を貴子に向け語りかけてくるものだから、顔を横に向け続けた首が痛い。だからといって、カウンターで向かい合って座るのは、もっとイタい。

 雄也と食事をするのは、今日を含めて三回目だが、すでに雄也は恋人気取りだ。一ミリたりとも縮まってもいない距離感をまるで測れていない。貴子にはわかる。雄也の自分に対する好意が強まっていることが。しかし、相反して貴子の気持ちは遠ざかるばかりで、むしろ嫌悪感が芽生え、増し、憎しみへと変わった。あからさまに態度で示しているはずだ。が、空気の読めない雄也の独演会は続く。

 貴子はうんちくを語る男が苦手だ。それ以上に許せないのは、食べ方が汚いこと。口に物を入れたまま喋るので、よく食べ物がこぼれ落ちる。

 初めて行ったイタリアンのときなど、十五センチくらいのパスタが、つるりと口から一本滑り落ちた。これには呆れながらも、器用なものだと感心すらした記憶が残る。今もそうだ。クロワッサンの皮だか衣だかをポロポロと落とし、テーブルを汚している。

 窓の外には仲睦まじく歩く恋人たちの姿。うらやましいなと、貴子が頬杖をついて眺めていると、窓を通じて雄也と目が合った。雄也がにこりと微笑む。

 いや、あんたに見惚れてたわけじゃないから――

 師走の街は華やかだが、虚しい。街を彩るイルミネーションさえ、貴子の心には響かなかった。


 終電を告げるアナウンスが鳴り響くと、深夜のホームは慌ただしくなった。貴子は電車の座席に着くと同時に、ため息をついた。やっと、解放された。乱れた髪を黒い窓で確認し、手櫛を入れた。しかし、安堵したのも束の間、左隣からの視線を感じ、ちらりとそちらをうかがうと、見知らぬ男が貴子の顔を見つめていた。切れ長の一重まぶたに薄い唇の男は、二十歳を過ぎた頃に思えた。

 どいつもこいつも―

 「なによ!」と言わんばかりに、きつい視線を向けると、男は目をしばたたかせ「すみません」と呟いた。

 もう一度、鋭い視線で一瞥し、貴子は目を閉じた。動き出した電車の揺れに、少しずつ眠気が襲う。カフェの前に行った居酒屋で、久しぶりに日本酒を口にしたせいだ。いける口ではないが、飲まずにはいられなかった。

 いつの間にか、貴子は夢にまで至らぬような曖昧な世界にいた。

 朝霜を帯びた村が白く輝いている。ここでは、ただ巡る季節だけが景色の色を変えていく。村に暮らす人も景色に過ぎない。村の子どもは村の大人になり、やがて村の老人と化すだけのこと。連なる山々の山腹に白い風車が並んでいることだけが、以前とは変わった景色だった。

 正しくは風力タービンというそうだが、田舎では「ふうしゃ」の響きが、どこか緩さを感じてふさわしかった。山から吹き抜ける冬の風は強く、冷たい。貴子の実家の前にある竹藪は、南に向いてしなったまま、その形をとどめている。

 貴子は高校を卒業してからずっと、親の紹介で入った村唯一のスーパーで勤めていた。都会のそれとは違い品揃えが少なく値段もほぼ定価だが、隣町へのアクセスが困難な老人達やツーリングやドライブを楽しむ者達が、休憩所代わりに立ち寄るので、それなりの客がいた。

「貴子さん、平台のかぶのそぼろ煮、追加しといてな」

「はぁい」

 田口佳苗がスイングドアの隙間から貴子に声をかけた。スーパー田口のオーナーだ。佳苗は十年以上も勤めている貴子に全幅の信頼を置いていた。

 貴子は入社して間もなく惣菜部門に配属された。配属といっても個人経営の小さなスーパーだ。繁忙期にはレジ応援も任されることもあるので、貴子はスーパー田口の仕組みをすべて把握していた。それなりの自負もあった。この先、ずっとここで働いていこうとは考えていなかったが、いつか辞めようという気持ちもなかった。スーパー田口は、貴子のありふれた日常だった。

 転機は些細なことをきっかけに訪れた。

 二十代最後の誕生日。いつもと変わらず出勤し、炊きあがったばかりの筍ご飯を陳列していたときのこと。

「おばちゃん」

 春の行楽日和は、筍ご飯がよく売れる。忙しなく腰を屈めて動く貴子の背後で声がした。しかし、日配部門の畑中さんか、レジ担当の松宮さんでも呼んでいるのだろうと、振り返ろうとはしなかった。

「おばちゃん、すみません」

 誰も返事をしない。パートの松宮さんは最近、耳が遠くなったと嘆いていた。七十を過ぎれば仕方ない。レジを打っているだけでも素晴らしいものだ。

 しょうがないな。そう思いつつ、ちらりと振り返ると、そこには小学生の男の子が立っていた。付近に松宮さんの姿は、見当たらない。畑中さんもいない。

「おばちゃん、すみません。糸こんにゃくはどこですか?」

 貴子は目を丸くした。間違いなく貴子を見据える少年の目は、あまりにも澄んでいた。嘘偽りのない目だ。だからこそ、胸を深く抉られた。

「あ、えっ……」

「糸こんにゃく買って来いって、母ちゃんに言われたもんで」

「あ、あぁ、糸こんにゃくね。あっち。豆腐とかあるとこ」

 いつになく素っ気ない口調で指をさした。

「ありがとう、おばちゃん」

 貴子は少年の後ろ姿を呆然と立ち尽くして見送った。

「おばちゃん……」

 帰宅してもあの響きが、はっきりと耳に残っていた。夕陽に照らされ、ゆっくりと回る風車を窓外に眺めながら、貴子は考えていた。

 これまでの約十年間という年月は、あっという間に過ぎ去った。それをこの先に置き換えてみると、その頃には四十歳を迎える。じっとこの地に身を据え続け、風車みたいに風が吹けば回るような人生だった。風が吹かなければ止まってしまう。スーパー田口が、これからも変わらず存在し続ける保証はない。

「あなた、冴えない顔しとるね」

 窓にぼんやりと映る己に向け、悪態をついた。自然と頬に涙が伝っていた。 

 それから一週間後、退職を告げた佳苗もまた涙を流した。 


 東京に出て来て半年が経つ。何のあてもなく、ただ衝動的に動いてはみたが、三十を間近にして新たな地で送る一人暮らしは、理想とは大きくかけ離れていた。もっと華やかな暮らしになるはずだった。そう、今の季節を彩るイルミネーションに、心躍らせるような。

 貴子は派遣社員として百貨店で雑貨を販売している。かつての職場だったスーパーは百貨店となり、取り扱う商品が惣菜から洒落た雑貨へと変わった。時給も格段に高くなったが、住まいはうんと狭くなった。

 雄也は店に出入りするメーカーの営業担当だった。入社して間もない頃、食事に誘われたのがきっかけだった。ほぼ毎週顔を合わすので断わり辛いということもあったが、決して悪い気はしなかった。今となっては後悔しかないが。 


 ふと目が覚め、貴子は慌てて周囲を見回した。ひょっとして、降りるべき駅を乗り過ごしたかもしれない。

「次、徳和台ですよ」

「あ、どうも」

 乗客がまばらになった車内で、左の男がそっと貴子に告げた。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、教えてくれたのはさっきの男だと気付く。

「うなされてましたね」

「いえ……」

「うなされてましたよ」

「大丈夫ですから」

 都会の人間は無関心だと聞いていた。

「あのぉ」

 なのに、しつこい。空気が読めないのは、雄也と同じだ。

「もぅっ! 何ですかいったい!」

「付いてますよ」

 男が自分の右頬に人差し指をあてた。

「えっ?」

 貴子はバックから鏡を取り出し、右の頬を確認した。

 クロワッサンの乾いたチョコレートが、まるでホクロのように貼り付いているではないか。

「マジ…… 最悪……」

 ティッシュで拭う。とてつもない悲しみに襲われた。決して泣き上戸ではないが、惨めで仕方なかった。

「大丈夫ですか?」

 あれだけ顔を向け続けた雄也は、チョコに気が付かなかったのか。それとも、意図して教えてくれなかったのか。いずれにしても最悪だ。

「うん、大丈夫です。ありがとう」

「慰めにもならんでしょうけど、実は僕も悲しいことがあって……」

 男は誰に言うでもない口調で、小さく静かに語り始めた。

「片想いだった子にデートの約束したんやけど、日にちを間違えて怒らせちゃったんです。食事に誘ったら『しあさってならいいよ』って言ってくれたから、楽しみにしてたんですけどね……」

 知らぬ間に涙は止まっていた。途中から貴子は男の話に耳を傾けていた。

「三日後の夕方、『ごめん、ちょっと遅れる』ってLINEが来てたんです。けど、僕、バイトしてたもんで、それに気付いたのは深夜で……」

 電車が速度を落とし、車掌が次の駅を告げる。次は徳和台です―貴子が降りる駅だ。

「しあさってって、僕の地元やと四日後なんですよね。彼女にとっては三日後だったようで。認識が一日ずれてたんです。ハハッ」

 虚しい笑いだった。

 貴子がゆっくりと腰を上げた。ふらつく体を吊り革で支え、男の前に立った。

「お兄さん」

 ゆっくりと男が顔を上げた。

「明日、あさって、しあさって。このあたりじゃ『ささって』って言葉は、ないからね。わかった?」

 男の細い目が丸くなる。

「えっ? あ、はい」

「いろいろと大変やろうけど、頑張んないな」

「はい、ありがとうございます」

 ホームに降りると、貴子は長く息を吐き出した。白く濁る息に、釜から立ち昇る筍ご飯の湯気を思い出した。

 東京に発つ数日前のことだった。最後の挨拶をするため、貴子はスーパー田口を訪ねた。佳苗はまるで我が子のように、貴子との別れを惜しんだ。

「いつ出発するん?」

「ささってです」

「あと三日……もうすぐやなぁ。寂しくなるな」

 そう言って、佳苗が貴子を抱きしめた。

「無理せず、頑張んないな」

 心にそっと置かれるような、優しい言葉だった。

 パスタよりもクロワッサンよりも、今の貴子には筍ご飯が恋しくてたまらない。スーパー田口のみんなは元気だろうか。今日も風に吹かれて風車は回り、竹は大きくしなっているだろうか。あの何もない村が遥か遠く、とてつもなく懐かしく感じられた。

「いってらっしゃい」と見送られるより、いつか「おかえりなさい」と迎えられるのも悪くないな。そんなことを思うのだった。