小説

『カンペ』永佑輔(『代書屋』)

 

 

 三日前のこと。ソメシタ塾の講師が、知的問題を抱える小学校二年生の女子塾生を連れ回して逮捕された。


 近隣住民たちは事件に関する説明会の開催を要求した。

 塾長の染下京子は要求を呑んだものの、説明責任を果たせそうにない。何の皮肉か彼女が小学校二年生のとき、クラスメイトたちから鼻の下のホクロを鼻糞とからかわれ、人前に出ることが苦手になったのだ。

「説明会なんてムリ、ムリ」

 京子が説明責任を放棄したものだから、ソメシタ塾創業者であり京子の祖父の染下吾郎が説明することになった。

「私がスケッチブックでカンペを出すから、お父さんはそれを読むだけでいいの」

 ソメシタ塾の職員室で、京子が伝えた。

 染下は、京子の言葉を理解しているのかいないのか、ニコニコと笑うだけ。医者に診てもらえば何かしらの病名がつくだろうが、染下はいざ病院に行くとなったときに限ってボケの症状が出るため、病院に行ったためしがない。表向きは健康体である。

 そんな染下を、京子は「都合の悪いときだけボケるジイさん」の頭文字を取って「TBG」と呼んでいる。しかしジイさんの頭文字は「J」であるから、「TBJ」の間違いだということには気づいていない。


 教室は住民たちでごった返している。口の悪い数人が、「ロリコン講師」だの「廃塾」だの「死刑」だのと言っている。

 中には、ソメシタ塾に通っていたことを誇っている者も混じってはいるが、悪口を耐え忍ぶ時間が続く。

 染下は校内暴力華やかし頃にソメシタ塾を開いた。安い月謝さえ払えば小学校一年生から中学三年生まで誰でも入塾できること、それゆえ学童保育的な役割を果たしていることが相まって、地元ではなくてはならない存在なのだ。

 住民たちが溢れる中、不自然に空いていた最前列まん中の席に消防団長が座ってフンと鼻息を吐いた。この男こそ、京子を鼻糞と呼んだ主犯である。


 京子は染下を教卓に送り出すと、消防団長の横っちょにオズオズと座ってスケッチブックを広げた。鼻糞実行犯が隣にいることに気づいた京子の手はブルブルと震えている。それに合わせてスケッチブックもブルブル震えている。

 このままでは染下がカンペを読めないじゃないか。そんな京子の心配を遥かに超える事態が発生した。教卓の染下はすでにカンペを見ていないどころか、京子の存在すら忘れている様子だ。

 ゴホン、京子は咳払いをして染下の注意を引きつけた。染下はハタと思い出したようで、キーン、マイクのハウリングなど気にもせずにカンペを読み上げる。

「わたくし、ンメツタ塾の創業者で……」

 染下は『ソ』を『ン』、『シ』を『ツ』と読み間違えた。住民たちがざわつく。

「じいさん、大丈夫か?」

 消防団長が嘲笑を浮かべた。

 染下は難儀すると足踏みをする癖がある。足踏みに気づいた京子は震える手でカンペに文字を書き、染下に向けた。

 染下はカンペを一瞥すると、

「失ネレしました」

 『礼』を『ネレ』と読んだ。

 消防団長が唾を飛ばしながら声を荒らげる。

「ボケジジイじゃなくまともな奴を出せ!」

 住民たちも消防団長に同意している様子だ。

 スケッチブックは京子の手汗を吸収してシナシナと波を打ち始めている。京子はグッと堪えてカンペに汚い字を書き加え、染下に向ける。

「ワタツがハチナス前にハチシゲソしないでくだください」

 おそらく「ワタシがハナス前にハツゲンしないでください」と言いたかったのだろうが、住民たちのみならず、染下本人ですら何を言っているのか理解できていないようだ。

 京子はスケッチブックをペラペラめくって謝罪文をしたためたカンペを染下に向けた。自己紹介をすっ飛ばす算段だ。

「この度は皆様に多大なるご心配、ご迷惑をおかけいたしました。本塾は、平素よりコソプライアソスに……」

 染下が『コンプライアンス』を言えなかったものだから、もう京子はお手上げ。スケッチブックを閉じて虚空を見つめた。


「てめぇ、カンペ読んでるだろ!」

 消防団長の加虐心に火がついた瞬間、住民たちにピリッと緊張が走った。

 京子だけは虚空を見つめたまま動かない。動けない。動画の中に静止画が埋め込まれているようだ。

 そのとき、染下が消防団長をジロリと睨みつける。

 消防団長が怯む。

 すると染下は柔和な表情になって、

「あのぉ、何でしょうか? カソペって」

 そう応じると、消防団長を置いてきぼりにして、住民たちはドッと笑いを爆発させた。

 途端、スポットライトは罪を犯した講師から染下の間抜けさに移って、事件そのものが笑いにかき消されていった。

 染下は緊張が解けたこの瞬間を逃さず、住民たちに嘆願書を回した。地方検察庁への嘆願内容は『ソメシタ塾講師、武藤綾子氏に対する寛大な処分を望みます』である。

 染下が説明する。

「本塾講師の武藤綾子は子宝に恵まれないまま旦那さんを亡くしたばかりでして、被害にあわれた塾生をいるはずのない我が子と重ねてしまって、ついついピクニックに連れて行ってしまったんです。一緒にサンドイッチを食べただけなんです。どうか、どうか……」

 染下は深々と頭を下げた。住民たちは滞りなく署名をした。

 消防団長も渋々と署名をした。

 以来、ソメシタ塾は片仮名の書き方にうるさくなった。京子は叱られる側だという。

(了)