小説

『あんこく老人ホーム』桜井かな(『花咲かじいさん・舌きり雀・こぶとりじいさん』)

 

 

 あたしは三か月前からちょっと変わった名前の施設で働いている。

 その名も「あんこく老人ホーム」だ。最初は変な名前にびびったけれど、ここしか採用してもらえなかったから仕方ない。最近は人に勤務先を聞かれたら「あんこ老人ホームです」と答えるようにしている。

「心優しいお爺さんとお婆さんは鬼をやっつけて、村の子供たちに囲まれて幸せに暮らしましたとさ」

 ラストを読みあげると側にいるお年寄りは温かな拍手を送ってくれた。ぺこりとお辞儀をする。あたしは学生時代から趣味で絵本を描いているのだ。新作ができあがると、談話室で朗読している。

「メグちゃんの絵本はいつ聞いても面白いわ」

 102号室の鈴田さんは大きな飴を握らせてくれた。

 色白の鈴田さんは、品が良く優しい。いつもみんなより小さいもの選ぶ。「私は粗末なもので十分よ」と遠慮を忘れない人だ。

「絵も上手いじゃないか。こりゃプロになれるぞ」

 そう褒めてくれたのは203号室の犬丸さん。強面だけれど本当は情に厚い人だ。あたしのミスをいつも豪快に笑い飛ばしてくれる。

「えへへ、ありがとうございます。ただの趣味ですけどね」

「ずっとここにいて欲しいくらい。私たちにとって孫のような存在だもの」

 そう言うとお年寄りは顔の皺を深くさせて洞穴のような笑みを浮かべた。いくつもの穴ぼこが急に開いたみたいで、ひやっとした気分になる。でもそんなことを感じるのは相手に失礼というもの。あたしは自分の頬をきゅっとつねった。

「ギャーーーーー!!」

 その時、野太い絶叫が響いた。

 強面の犬丸さんが椅子の下に体を押し込めているではないか。

「い、い、犬がいるぞ。嫌いなんだよお。あっちへ行ってくれえ」

「大丈夫ですかっ?」

「ほら、あそこに犬だよ、犬」

 犬丸さんが指した方向を見ると、若い女性がチワワを散歩させている。愛らしい宇宙人のような生き物の、どこがそんなに怖いのか。

 鈴田さんが教えてくれた。

「この人ねえ、昔から犬嫌いなのよ。あんなにちっぽけなのに。おほほ」

 笑うところでない気がするのだが、鈴田さんは面白くてたまらないといった様子で口元を抑えている。だが彼女も窓の外を見て「ヒャア!」と飛びのいた。

「雀よお! 追い払ってちょうだい!」

 たしかに窓の外には一匹の雀がいる。雀が苦手なんてめずらしい。

「早くっ。何とかして!」

 鈴田さんは唾を飛ばす勢いでわめいている。

 興奮して引きつけでも起こされたら大変だ。近くにあった箒を手に取り、勝手口を出た。「あっちに行けー!」と雀に向かって箒を振ると逃げていった。談話室に戻ると、鈴田さんから「ありがとうね」と見たこともないくらい特大サイズのおせんべいをもらった。これくらいで感謝されるならお安い御用だ。


「この老人ホームって変わってますよね」

 あたしは休憩室でベテランスタッフの坂田さんに話しかけた。お昼の介添えが終わり、鈴田さんからもらった巨大おせんべいを昼食代わりに食べていた時だった。

「どこが?」

「なんていうか、施設の名前がまずおかしいじゃないですか。入居者さんはみんな優しいんですけれど……」

 いくら食べてもなくならないおせんべいをかじりながら口ごもった。

「でも?」

 坂田さんは探るようにあたしを覗き込んだ。ふっくら焼きたてのパンみたいな顔についた目は細められている。

「たまにみなさんの笑った顔が怖くなるんですよ。全員同じ場所から糸で引っ張られてるみたいな笑顔。あたしに気を遣って無理して笑ってくれてるんですかね」

 人の顔を怖い、なんて言ったら怒られると思ったのに、坂田さんは意外にも大きく頷いてみせた。

「たしかにこの老人ホームは特殊な施設よ。面会人もボランティアも全然来ないでしょう」

 そして吹っ切るように告げた。

「そろそろ話さなきゃいけない時期かしらね。ついてきてちょうだい」


 歴史は繰り返すの、と坂田さんは繰り返し口にした。

「一度あることは何度も起こるの。今の時代でも、昔話みたいに、隣家に嫉妬して犬を殺害したり、雀の舌を切ったりして天罰が下る人がいる。そういう問題を起こしたご老人はここで預かっているのよ。言わば昔話の悪人収容施設ってわけ」

 黙って坂田さんの後をついていく。話を聞きながらもあたしは信じられなかった。冗談でしょ、と思う。

「二人とも精が出るねえ」

 廊下ですれ違い、感じよく挨拶してきたのは202号室の山本さんだ。頬の両方が大きく腫れたお爺さんである。まさかと思っていると、「あの人はこぶとり爺さんに出てくる悪人」と耳打ちされる。

「昔話の悪人なんて、冗談にしてもひどいです。ここは親切な人ばかりですよ」

「これを見てほしいの」

 坂田さんが手を置いたのはアンケートボックスだ。たしか施設の生活で改善してほしいところがあれば、紙に意見を書いて投稿する仕組みがあった気がする。入社初日に説明されたきり、すっかり忘れていた。廊下に誰もいないことを確認すると、坂田さんは鍵を取り出して開錠した。

 箱を傾けると、雪崩のように白い紙が机に吐き出される。紙には黒い文字がびっちりと書き込まれていた。

 あたしは紙を一枚手に取った。

『庭を散歩していたら、坂田さんに今日は気持ちのいい天気ですねと言われた』

 うんうん。スタッフと入居者の温かなやり取りじゃないか。

『今日はずっと曇りだった。こっちを軽んじているからそんなてきとうな言葉が出てくるのだ』

 よく読んだら苦情だ。坂田さんも忙しいから間違ったことを言ってしまうこともあるだろう。なかなか手厳しい。回答者の虫の居所の悪い日だったのだろうか。次の紙に手を伸ばす。

『新しく入ってきた若い女、自作の絵本を読み聞かせしてくる』

 あたしのことだ、と心臓が跳ねた。

『内容が陳腐でつまらない。悪者を倒して、子供に囲まれてめでたしっていつの時代の話だ』

 一気に血の気が引く。他にも出てくるわ、出てくるわ。施設やスタッフの悪口。一番きつかったのは、あたしの絵本のダメだしだ。あんなに拍手してくれたのに、褒めてくれたのに、ここ掘れワンワンの金貨みたいに罵詈雑言、罵詈雑言、……。ちなみに全部匿名である。

『話を聞いていると、眠いを通り越して気絶しそうになる』

『絵にセンスを感じられない』

『偽善的な物語に虫唾が走る』

 坂田さんはあたしの肩に手を乗せた。

「みんな匿名じゃないと意地悪できないのよ。顔出しで意地悪して天罰が下るのが怖いから。ここだけが発散の場所。気にしなければ大丈夫よ。リアルではちょっと笑顔の不自然なお年寄りってだけで」

 何それ、ネット世界の住民みたい。あたしはめまいがした。


 さすがに悪意あるアンケートに数日落ち込んだが、あいかわらず絵本を描いては読み聞かせをしている。

「こうして二人は宇宙に行って火星で幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」

「今回は壮大な話だったなあ、いやー、面白い」

 みんな感心したようにあたしに拍手を送ってくれるけれど、ボックスは駄作だの承認欲求モンスターだの悪口の嵐である。

 正直、お年寄りたちのことは怖い。けれど家族やボランティアの人たちに見放されたこの人たちを見ると、あたしの胸は痛むのだ。

 坂田さんになぜ読み聞かせをつづけるのか聞かれたことがある。

「せっかく生まれてきたんだから、最期は絵本のようなハッピーエンドを迎えてほしいんです。絵本は人生を丸ごと肯定してくれるような懐の深さがあります。あたしは絵本のそういうところが好きなんです。いつか自分の書いたもので、みんなにいい影響を与えたいと思ってます」

 熱く答えると坂田さんは「あなたのキャラもなかなかよねえ」とため息をついた。

「メグちゃんは本当に才能豊か。ねえ、みんな」

 鈴田さんの意見にはっと我に返る。他のお年寄りは、笑顔を張り付けたばね人形のように首を振っている。

 しばらく観察をしていると、誰がなんの物語の悪役か、見当がつくようになってきた。舌きり雀の鈴田さん、花咲か爺さんの犬丸さん、エトセトラ、エトセトラ。有名どころからマイナーな物語の悪役まで顔をそろえている。

 朗読会を終えて廊下に出たあと、ボックスを覗きこんだ。『バカ』の大きな文字が底に堂々と張り付いていた。

「可哀そうに」

 あたしは『バカ』の紙切れを取り出してつぶやいた。

「心が貧しくて、可哀そう」

「何その上から目線」

 通りかかった先輩がぶっと噴き出した。


「ワークショップですって?」

 坂田さんは素っ頓狂な声を上げた。

「はいっ」とあたしは弾む気持ちを抑えて返事をした。

「みんなでチームになって絵本をつくってもらうんです。それで発表会をやってもらうんです。どうでしょう?」

「教会の合唱団やボランティアの学生がいなくなったのを忘れたの? アンケートで毒を吐かれておしまいよ」

「それは人から与えてもらってばかりだからではないでしょうか? あたし、思ったんです。自分たちの手で何かをつくれば、それがあの人たちを助けてくれるって」

「どうかしらねえ。施設長に相談してみるけれど」

 数日経って、坂田さんが持ってきた答えは「怪我させなければ、どうでもいいって」というひどく投げやりなものだった。

 あたしはさっそく用意していた『みんなで絵本をつくりましょう!』というチラシをばらまきに行った。お年寄りは「楽しそう」と同意してくれたが、ぎこちない笑顔のまま、紙と鉛筆を持ち自室に引っ込んでしまった。今ごろアンケートに答えているのだろう。一体どうなることやら。


「……ねえ、ワークショップはどうなったのよ」

 坂田さんに詰められるけど、あたしだってよく分からない。分からないなりに、空を見上げて、必死に考えをまとめていた。

 夜十時。老人ホームの付近は、閑静な住宅街で、夜になると星が見えるくらい真っ暗になる。そんな夜空に、一等星よりも明るい人工的な光がいくつも散らばっていた。

「そのはず、だったんですけど」

 結論から言うと、誰もまじめに絵本なんかつくらなかったのだ。腰痛がするだの、目がかすむだのと逃げられ、挙句の果てには字が書けないと言い出す始末(毎日アンケートを書いているくせに)

 その状況を打開したのはあたしの一言だった。一番面白いものを書けたグループには、賞金をだすと言ったのだ。

 その瞬間、お年寄りの肩がぴくりと反応したのを見逃さなかった。

「あたしの一か月分のお給料が賞金です!」

 やけくそになって言ってみると、彼らは意気揚々と絵本作成に取り組みだした。

 けれど、あたしの頭から完璧に抜けていたのだ。

 相手が忘れっぽいお年寄りであることを。

 一番面白いものを、と言ったはずなのに、いつの間にか一番大きなものを、というふうに話が広がっていたのだ。一か月分のお給料も、なぜか一年分のお給料ということになっているらしい。

 もとより共同作業が嫌いらしく、勝手に個人競技にもなっている。

 お年寄りは下手くそなバンクシーのように壁や床にも絵と文字を描き始め、これも絵本だと言い張るようになった。そしてついにはもっと大きな絵本をつくるため、庭で作業するようになった。猫の額ほどの庭なので、当然横ではなく縦に拡張していくことになる。

 もはや絵本とは思えない、おどろおどろしい絵のついた塔が何本も夜空に向かって伸びている。塔の側面にはお経のように読めない文字がぐるぐる渦を巻く。てっぺんにはライト付きヘルメットを着用したお年寄りが梯子を使って作業をしていた。犬丸さんも鈴田さんもあの中にいるはずだ。

 バベルの塔みたいに神様が怒りださないか心配になってくる。

「ママあー」

 仕事帰りらしいスーツ姿の女性の自転車が施設前を横切る。後ろには園児が乗せられていた。

「あんこく老人ホームってさあ、僕、分かった気がするよ」

 何を? とくたびれた母親が素っ気なく聞き返した。

「暗いところでもキラキラ光るから、あんこく老人ホームっていうんだねえ。ほら、綺麗だよお」

 あーはいはい、と母親は返事をしてのろのろと自転車を漕いでいった。

 もう一度空を見上げる。頭部のライトが下品なくらいに光っていた。彼らの内側にあった負のエネルギーがようやく放出されて輝いているようにも見える。

 めでたし、めでたし、なのかな……?

 お年寄りのつくる塔がどこまで届くのか少し楽しみになってきた。

 次の絵本ができたら、出版社に持ち込んでもいいかもしれない。趣味じゃなくて、ちゃんと本気で書いたやつを。

 あたしの胸にもぽっと野心の火がうつる。