大晦日の夜、亡くなった妻と娘に化けた二匹の狐がカップうどんを持ってやってきた。
「おとうさん、ひさしぶり」
娘に化けた狐は、娘とよく似た声で屈託なく笑った。
「今年も一年お疲れさま」
幼い笑い声が部屋に響き渡るなか、妻に化けた狐の声も耳に懐かしく響いた。
窓の外にはこの地方では少し早い雪がちらちらと薄暗がりのなかに舞っていた。
「なんだ、ふたりして。めずらしいこともあるもんだ」
私はその細い肩にも粉雪が積もっているのを視界の端で認めながら、妻と娘に化けた二匹を迎え入れた。
私たちは居間に置かれた座卓を囲むかたちで座り、これまでの離別を埋めるように疑似の家族団欒の時を過ごした。
「あなた、ちゃんと食べてるの?」
妻に化けた狐は電気ストーブの前で暖を取りながら私の顔をまじまじと見つめた。
「齢のせいだろう」
妻に化けた狐の姿はあの頃のままだった。妻と娘を亡くしてから二十年が経っていた。当時、小学五年生だった娘は、卒業式までに一つ結びにするといって髪を伸ばしはじめたばかりだった。そのままの姿に化けた狐は、もの珍しそうに男やもめの狭いアパートのなかを走りまわりながら、時々立ち止まっては無邪気な質問を繰り返した。
「これなに?」
「それは来年のカレンダー。お父さんが職場でもらってきたんだ」
私はその一つひとつに答えながら娘との久しぶりの会話を楽しんだ。髪を一つ結びにした娘の晴れ姿やその後の成長を見ることはできなかったが、その頃にもきちんと幸せを受けていたことを思い出さないわけにはいかなかった。
「おかあさん、お腹すいた」
「そうね、そろそろ年越しの準備でもしましょうか」
娘に化けた狐の言葉に腰を上げた妻に化けた狐は、二十年前の妻と同じ口調でその要望に応じながら台所に立った。
「おかあさん、これ、ふたつしかないじゃん」
妻に化けた狐を追って台所に向かった娘に化けた狐は、足を踏み鳴らしながら嬉々とした声を上げた。その声と重なるように妻に化けた狐の短い悲鳴が聞こえた後、控えめな足音がこちらに近づいてきた。
「ごめんなさい、二人分しか用意してなかったみたい」
蚊の鳴くような小さな声を上げながら居間に戻ってきた妻に化けた狐の腕にはカップうどんが二つ抱えられていた。
落ち着いた性格のなかにどこか抜けたところがある妻は時折微笑ましい失敗をすることがあった。
「ふたりで食べなさい」
「でも…」
「最近あまりお腹が空かないんだ」
私は妻に化けた狐の困惑した表情を眺めながら、昼食に菓子パンを食べたきりだったことに思い当たった。妻と娘を失くした後、朝夕の食事に関心を示せなくなっていた。冷蔵庫のなかにはその日のためのアルコールといくつかの保存食が入っているばかりで、部屋の狭さのわりに場所を取っているそれをいくらか持て余していた。
「せっかくの日なのにごめんなさい」
妻に化けた狐はもう一度謝罪の言葉を口にすると、娘に化けた狐に急かされるかたちでもう一度台所に消えた。
「それで由実ちゃんちのお母さんにお菓子を焼いてもらったの」
三分後、出来上がったカップうどんを前に娘に化けた狐は同級生の話を続けていた。
「じゃあ今度会ったときにお礼言わなきゃね」
妻に化けた狐はカップうどんのフタを丁寧に剥がしながら、娘に化けた狐の話に相槌を打った。
はじめて娘の級友たちと顔を合わせたのは妻と娘の葬儀のときだった。
教師の引率で弔問に訪れた同級生の『由実ちゃん』は、葬儀には不釣り合いな笑顔を浮かべた娘の遺影の前で、嗚咽を上げながら泣いていた。その日、朝から弔問客との形式的な挨拶に追われていた私は、出棺の時間になってようやく彼女が娘の親友だと気づいた。前日の通夜から休む間もなく動きまわっていたために悲しみに浸る暇もなく、弔辞を読み上げる頃にはすでに感情の起伏を失いかけていた私は、その自分の悲しみを代行したような涙にいくらか救われている自分を見つけた。
「明日には積もってるかもだな」
冷蔵庫から日本酒を取り出した私は、それを一杯口に含んでから窓ガラスに額をつけた。外にはまだ雪が降り続いていた。早朝の積雪のなか、六つの足跡を残して近くの神社に初詣に行く家族の姿を思い描きながら、窓ガラスの冷たさとともに早くも酔いがまわりはじめていることを自覚しないわけにはいかなかった。
妻と娘が亡くなった日も朝から雪が降っていた。
その日、急な打ち合わせのために早めに家を出た私は、妻と娘と一緒に朝食を取ることができなかった。早朝の雪に凍った道路が通行人の歩みを阻むなか、いつもより一本早い電車に間に合うように早足で歩きながら、何故かそのことをいつまでも悔やんでいた。
もちろん、その日の夕方に妻と娘が交通事故に巻き込まれるなど知る故もなかった。あるいは、今になって振り返ってみれば、その前後に起こった様々な出来事に前兆とも呼べる可能性を見出せたかもしれない。しかし、それは想像に過ぎず、いくら夢想癖のある私でも突拍子のない妄想と思わないわけにはいかなかった。
そのときの私はただ、いつもの朝と同じように二人と朝食を取れなかったことを後悔していた。
「ふう、おなかいっぱい」
しばらく懸命に箸を動かしていた娘に化けた狐は、麺を三分の一ほど残したところでその箸を置いた。
「おとうさん、あと食べれる?」
「いいよ、こっちにもらおうかな」
それは過去にも何度か繰り返された会話だった。少食のわりに妙に食い意地が張っている娘は、いつも自分が食べきれる以上の量を選び、案の定残すことになった。そのたびに父親の私があとを引き受けることになるため、いつの頃からか外食のときには自分の量を減らして待つようになっていた。
この日も同じ運びになったためにカップうどんを手元に寄せると、その様子を見ていた妻に化けた狐が言葉を重ねた。
「わたしももう食べられない」
妻に化けた狐のカップうどんには油揚げが半分ほど残されていた。そのとき、ふいに妻に化けた狐と娘に化けた狐が目配せをして微かに笑みを浮かべたのを見た私は、少し訝しがったあと、ようやくその意味を理解した。
「ふたりともちょっと残し過ぎだろう」
二つの容器を目の前に並べながら強い口調を意識すると、妻に化けた狐と娘に化けた狐は堪えきれないといった様子で笑い声を洩らした。
「いいから、遠慮せず食べてちょうだい」
二人から差し出されたカップうどんは、まるで出来上がったばかりのように湯気を立てていた。私は妻に化けた狐と娘に化けた狐に見守られながら、そのだし汁を少しずつ口に含んだ。もちろんそれは付属の粉末をつかったいつものカップうどんだった。が、それはまた、いつか家族で食べたおいしい記憶の味でもあった。
「おとうさん、いまは幸せ?」
「そうだな、きっと幸せなんだろうな」
窓の外の雪は次第に激しさを増し、雪の女王の嘆きのような声を上げながら吹雪いていた。その凍てつくような寒さのなか、家族とともに食べるカップうどんの暖かさはいつまでも胸を温め続けた。
(了)