ヒッチハイクでデコトラを止めてしまった。
十五才、人生初めての家出で北海道から東京へ向かった。肌寒い初秋だった。
窓ガラスが開き、運転席から助手席越しに声を掛けられる。顔は見えないが女性の声だ。
「ヒッチハイク? 東京まで? 乗っていいよ」
「いえ、誤解です。紛らわしくてすみませんでした」
僕が答えると、「へ?」と素っ頓狂な声が上がった。そして彼女は、助手席の方へ身を乗り出してきて、トラックのドアを開けた。彼女は僕の顔を確認してニヤッと笑う。
「遠慮すんなって」
彼女はそう言って僕の首根っこを掴み、強引にデコトラの中へと引きずり込んだ。
もう一時間ほどトラックに揺られている。たぶん彼女は反社だ。僕のことを「商品」と言い間違えるし、実家の電話番号を聞いてくるし、家はお金持ちじゃないですと言ったら残念そうにした。誤魔化すようにかけた音楽も、車内が揺れるほどの大音量だった。彼女は「ボタン押し間違えたのかな」と苦笑いして、音量調整のつまみを回す。
訝しむ僕の様子を彼女は察したらしく、ムッとして言った。
「私は反社じゃないって。真っ当に生きてるの。そもそも君は車に乗せてもらってるわけだ。妙な詮索はしないで欲しいね。東京に行きたいんでしょ?」
脅すように顔を近づけてくる彼女の圧に押され、僕はコクコクと頷いた。彼女は怖気づく僕の態度を見て満足げに深くシートにもたれかかる。
「そもそも何で東京に行きたいの? はるばる北海道から。それもヒッチハイクで」
ぎくりとする。高校生が北海道から東京までヒッチハイク。当然そんな妙な状況に陥った理由を突っ込まれるであろうことは分かっていた。しかし、用意していた回答をここ一連の緊張でど忘れしてしまっていた。
「えっと、その、東京に祖母の家があって……。でも財布落として……」
「嘘。家出でしょ? 若いなあ」
言葉に詰まる。自白しているも同然だった。通報されるのではないかと心配する僕だったが、彼女にそんな素振りはなかった。
「私もド田舎出身で地元を飛び出した身だからさ。気持ちは分かるよ」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
岩手に入ったところぐらいで、トラックが下道に降りた。と思ったら、道路を外れ、道なき道へと進んでいく。トラックの馬力に任せて藪の中を進み、頭の揺らしすぎで嘔吐する寸前、トラックが止まる。そこは、山の麓の河原だった。
「どうして川に?」
「体洗わないとだめでしょ? ここで洗うの」
「まさか、冗談でしょ?」
「私が先ね」
彼女は一方的にそう言って、トラックを降りてしまった。
彼女はヒンドゥー教徒なのだろうか。そんな疑問を抱いたが、そんなことを考えている場合ではなかった。こんな人目のないところに連れられ、今、自分は相当なピンチに陥ってるのではないか。今すぐ屈強な男たちが商品、すなわち僕を回収しに乗り込んできてもおかしくはない。
逃げるチャンスだ。そう思って、ドアハンドルに手をかけたところで、僕は大慌てでドアのそばを飛びのいた。水浴びをする彼女の裸体が見えたのだ。背中にクジャクの刺青があったことだけ報告しておく。だからあの人銭湯行けないんだって。
結局、その後も逃げ出せないまま時間だけが過ぎ、彼女が「次は君の番」と言ってトラックに乗りこんできた。
「いや、僕は大丈夫です」
「人の車で不衛生は感心しないなあ」
ぐうの音も出ない正論だ。結局僕は論破され、川の方へ向かった。
置いてかれやしないだろうかとトラックの方を確認しながら、上着を脱ぐ。彼女の様子はここからでは見えない。
ふと、正面を向く。すると、藪の奥で、赤い二つの光が暗闇の中で動いたのが見えた。それは、僕を狙う獣の目に見えた。
「く、熊だ! た、助けて!」
僕は腰を抜かして、そのまま後方へと這う。
すると、トラックがクラクションとを鳴らしながら突っ込んできた。悪趣味なそれが、畏敬の対象になるのを実感した。後ろに目をやると、獣は茂みの中へ去っていったらしかった。
トラックの窓が下り、「大丈夫?」と彼女が顔をのぞかせる。
「味方になると、超頼りになりますね」
彼女は「はあ?」と呆れた表情をしていた。
彼女からブランケットを渡される。
「朝まで休憩ね。ゆっくりして。あと、コンテナは開けちゃだめだから」
僕は元気よく返事する。
「はい! 承知しました」
助けてもらって、完全に警戒を解いたのだ。彼女は気味が悪いという表情で僕を見る。
「あれはきこりの泉だったのかしら」
「あなたがなければ僕は熊の胃の中です」
「あれ鹿だよ」
「いえ、熊です」
彼女は、「はいはい」と曖昧に応え、ブランケットを被って寝に就く。
一方で僕はその後も眠れずにいた。いまごろ、地元では大騒ぎになっているだろう。目を閉じると、その様子がありありと目に浮かんでくるのだ。地域中に知れ渡って、皆が僕の話をしている。昔から、普通とは違う、変な子だったって。
「眠れない?」
横を見ると、彼女がこちらをニヤニヤと見つめていた。
「寝てる間に、身ぐるみ剥がすなんてことしないよ。ゆっくり休みな」
「もう怖がってないですよ。素直に感謝してます。僕をトラックに載せてくれたことも」
彼女は「そう」と小さく鼻を鳴らした。そして、ニヤニヤとしながら僕の顔を覗き込んだ。
「どうして家出したの?」
「大した理由じゃないって思われるかも」
「思わないよ」
「地元から離れたかったんです。あそこは冬になると、雪でどこまでも見境がなくなるんです」
「綺麗そうじゃない」
「ずっと、何も変わらないあの場所を象徴してるんですよ。景色も、評価も、人間関係も、ずっと同じまま。でも、みんなはそれをありがたがってる。あそこであぶれた僕はずっと一人だ。そんな中で、一生雪かきしてると思うと、ゾッとする」
彼女は優しく笑って頷いた。
「分かるよ。私は君よりも田舎出身だから」
「じゃあ、カラオケなんてないですよね?」
「勿論ないよ」
「ファミレス」
「ない」
「コンビニ」
「ない」
「日本国憲法」
「通じない」
彼女は、「真面目に答えてください」と憤慨する僕に笑って言った。
「要は私も田舎からあぶれた口ってことだ。だから君には何も言うまい」
翌日、再び高速道路に入り、福島に入ったぐらいの時だった。
後方を走っていた車が突然、屋根に赤色灯を乗せ、サイレンを鳴らした。
「そんなにスピード出てました?」
「しょうがない」
彼女はそう零して、前方に回り込んだ覆面パトカーの誘導に従う。そのまま、インターチェンジの出口付近で停車した。
車内から警察官が二人降りてきて、トラックへと駆けてくる。
彼女はトラックの窓を開けて、警察官に言った。
「この子、人質。追いかけてきたら、分かるよね?」
「へ?」
一連の流れは刹那的だった。彼女は言うと同時にアクセルを踏み込んだ。急発進した反動で体が大きく揺さぶられる。トラックはそのままインターチェンジから、下道に出る。
「ちょ、何してんですか!」
「このまま下道から行くしかないなあ」
彼女は、特にテンションを変える様子もなく、気怠げに零す。
「人質って、僕の事?」
彼女は横目で僕を見ながら、涼しい顔で言う。
「そうだね。まあ説明するとさ、このトラック、盗難車なんだよ」
気が遠くなりそうな事実の開示だった。
「一体どうして? そもそも、こんな目立つトラックでどうやって逃げるんですか?」
「そのための君だろ?」
「本当に人攫いじゃないか!」
「やむにやまれぬ事情があるんだって。ほら、熊から命救ったでしょ? ここはひとつお姉さんに恩返しを」
「……あれ鹿ですよ」
彼女は呆けた顔で僕を見つめた後、怒鳴って、
「この恩知らず!」
「恩着せがましいのはそっちでしょ!」
ぐぬぬと声を漏らす彼女だったが、すーっと深呼吸をした後、落ち着くようにして言った。
「君に危害は加えない。警察に言ったのは、ただの脅し文句。現に君はこうやって拘束も何もされてない訳だ。元々目的地は東京だったから、そこで君を解放することも約束する。君に不都合なことは何もない。そもそも、犯罪者でもなければ、見知らぬ未成年を乗せて、北海道から東京に連れて行ったりはしない。東京に行きたいのなら、この事態は必然だったわけだ」
「それは、確かにそうですけど」
「私は警察から逃げられる。君は東京に行ける。互いにウィンウィンだ」
言葉巧みに、丸め込まれてしまった気がする。ただ一点、或ることに気が付いて、彼女に聞いた。
「大型免許は持ってるんでしょうね」
彼女は鼻を鳴らすだけで、何も答えなかった。
人目のない、森の中でトラックが止まった。彼女がトラックから降りて、周囲を確認する。しばらくしてから、再びトラックに乗り込み、僕に言った。
「日中はもう動かない。暗くなってからまた出発する。今夜には東京に着くよ。君も休んでて。そこで解放するから」
「え?」
僕が質問する間もなく、彼女はブランケットに潜り、寝息を立て始める。
「本当に寝てる……」
ふと、尿意を催すのを感じた。外に出ても大丈夫なのかと心配しながらも、漏らされる方が嫌だろうと思ってトラックを降りる。
茂みで用を済ました後、ふとトラックのコンテナが目に入った。確か昨夜、開けてはいけないと言われていた。どうして彼女は、このトラックを盗んだのか。その理由はここにあるんじゃないかと直感的に思った。
「何故そんなことを」と疑問を払拭したくて扉に近づく。
絶対に開けないほうがいい。扉の鉄の冷たさを手で感じ取った時、自分の中で警戒音が鳴った。
それでも好奇心が勝り、僕はコンテナを開けてしまった。
コンテナの中は、段ボールが幾重にも積み重ねられてられていた。しかし並び方は不規則でゆとりがあり、人が通れるぐらいの隙間があった。僕はそこを通って、奥へと進んだ。
一つ、蓋の開いた段ボールが目についた。僕はそこへ目を見やった。
段ボールの中身は、ビニールに包まれた白い粉だった。それがいくつも敷き詰められている。
僕はその粉を手に取ろうとして、段ボールに手を伸ばした。すると、薄暗くて遠くから見えなかった、赤い血痕が視認できた。
「え?」
ふと、周りを見渡すと、その血痕は床一面に広がっていた。尋常な量だ。怪我などでは到底ない。それこそ、血しぶきでも吹かなければ、こんな光景にはならないはずだ。
僕が悲鳴も上げられず、その場にへたり込むと、扉の方で、キーッと軋む音が聞こえた。
振り向くと扉の前に彼女が立っていた。
「開けるなって言ったのに」
彼女は、そう言って微笑んだ後、扉を閉める。
コンテナの中に入る光が徐々に狭まり、掛け金が下ろされる金属音が響いた。
トラックは、コンテナに僕を閉じ込めたまま、走り出した。
閉じ込められて、どれくらい時間が経った頃かは分からない。しかし、発狂する寸前のことだった。掛け金が外され、コンテナの扉が開いた。
「悪かったね。東京に着いたよ。もう解放だ」
僕は無我夢中にコンテナの外へと駆けた。地面に足をつけると、絶大な安心感に包まれる。呼吸を落ち着かせ、改めて周りを見渡してみると、そこは夜の港だった。
「ここは?」
「東京湾。私の故郷だよ」
「は? 何言って……」
「私、人魚なの」
彼女の表情を見て、彼女の寂しげな表情にぎょっとした。短い旅の中で、初めてみる表情だった。
「ふざけないでください。段ボールの白い粉や血痕は一体何なんですか!」
「昔話をするね。私はある日、手足を縛られて沈んでいる男を見つけたの。初めて見た人間に興味を持った私は、その男を助けた。それ以降、私は人間への憧れが止まらなくなってしまった。私は人間になる為、魔女と取引して足を得て、助けた男のもとへ向かった。でも、私はただ憧れていただけで人間について何も知らなかった。助けた男は最低で、無知な私はひどい犯罪に協力させられた。でも他に頼るあてもなかった。そんな時、みじめに生きる私を見かねた姉達に言われたの。男を殺せば人魚に戻してやると。そうしなければ泡になってしまうと」
彼女は語り終えると、自嘲めいた大笑いをし始めた。
「例え話ですか?」
「小説家になれるかな? でも君への教訓になるかも。社会は持たざる者には悪辣だから、行動を起こすなら計略的にって」
彼女はそう言うと、海へ向かって駆ける。
「何して!」
僕が追いかけると、彼女は最後振り返り、微笑み、暗い海の中へと落ちて行った。僕は落ちる寸前で踏みとどまり、眼下の海を見渡したが、彼女の姿はどこにもなかった。
(了)