小説

『百分の壱物語』裏木戸夕暮(『日本の妖怪の伝説』)

 

 

 小夜子は枕元の電灯を消そうとしてやめた。

 元々小夜子は、寝室を真っ暗にして眠るのが好きだった。

 近頃は消せない日が続いている。


 「おはよう」

 飼い猫に声を掛けて朝のおやつをあげる。元保護猫で、団体の人に聞いた推定年齢と飼っている年数を足すとかなり高齢になる。

「そろそろ尻尾が割れてくるかねぇ」

「にゃあ」

「化け猫になっても長生きしてね」

 ゴロゴロゴロ・・・

 機嫌の良い音が静かな部屋に響く。

 猫のご飯皿の前から立ち上がる時、キッチンのカレンダーが目に留まった。

 母が亡くなってから一年が経つ。 


 小夜子は40キロ離れた実家まで車で通い、介護をしていた。ひとりで暮らしていた母は施設を嫌がり、ヘルパーと小夜子と弟夫婦が交代で訪問して生活を補った。母は階段を降りるようにボケていき、妙な洗濯物を干しているなと思ったら、物干し竿でトイレットペーパーがヒラヒラと揺れていた。風に吹かれて飛んでいく様は一反木綿のようだった。

 別の日には

「お昼食べていきなさい」

と笑顔で食卓に招いたかと思うと、ご飯に砂がかかっていた。母は平気で食べ始め、あんなに綺麗好きで料理好きだったのにと思うと涙が滲んだ。

 転んで骨折をして入院し、感染症を併発して病院で亡くなったが、思ったよりも早い終末に申し訳ないが安堵した。あれ以上ボケる姿を見たくなかった。弟も別に家を建てていたから、相談して実家は処分した。

 ひとりで珈琲を淹れながら思う。

 父が死んだ後の母の暮らしもこんな感じだったのだろうか、と。


 夫が入院し、小夜子は今「仮」の一人暮らし。夫がいないとテレビもつけないし会話もない。共に生活をしていた人員が欠けるとこんなにも喪失感があるのかと驚いた。人間一人の生活音と存在感は意外と大きい。

 違和感は些細なことにも現れた。夫の不在が続いた後、風呂に入ろうと浴槽に触れたらざらりとした。

(ああ、そうか)

 家事全般苦手な夫だが、ここだけはと若い頃に分担を決めたのが風呂掃除。場所を絞ると集中する性格で、夫が妖怪垢舐めの如く磨いた浴槽はピカピカだった。夫の不在でようやく風呂に水垢が付いたのだ。

 一人暮らしは楽な部分もある。

 夫が居れば食材の買い出しもまず夫の献立を考えるし、仕事から帰って束の間自分だけの時間があったとしても、二人分の洗濯物を畳んだり食事の支度をしたり。風呂掃除以外は箸を運ぶことすらしない夫は、経済的には生活を支えてくれる守護霊でも、家事の負担については小夜子にのしかかる背後霊だ。

 今は食事の支度も一人分で済むから、買い出しの頻度も減った。それでもつい、夫の好物がセールと聞くと、離れたスーパーへ足を伸ばし商品へ手が伸びる。手長脚長は主婦のサガだ。


「午後は病院に行くから、午前は断捨離でもしましょうかね」

「にゃあ」

 独り言を呟くと、猫が返事をしてくれた。

 夫に見られたくないゴミをずっと押し入れに隠していた。処分する良い機会だ。

 押入れから段ボールを取り出す。結婚当初に義母から贈られたものが入っている。ベビーミトン、スタイ、おくるみ・・・小夜子夫婦に子どもは居ない。

(上等な品だから勿体無くて、つい今までとっておいたけど)

 あれから三十年。付喪神になる前に捨てようと、分別しながらゴミ袋に放り込んだ。 


 ひとつ片付けると別の思い出が出てくる。

 夫の浮気を疑ったことを思い出した。相手はシングルマザーだった。

 四十代の頃。お節介な知人が半ば楽しそうに報告してくれた。

「ねぇ、ご主人がカフェで若い女性とお茶してたわよ」

「その前は公園で一緒にお弁当食べていたわ。子どもも連れて」

「その子が『おじさん、おじさん』ってご主人にまとわりついてね。図々しいわねぇ」

 始めは聞き流していたが、ある時、小夜子自身も夫と女性が歩いている姿を目撃した。間に子どもを挟んで三人で手を繋ぎ、楽しそうに歌っていた。

 問いただすことは出来なかった。

 暫くすると女性の姿を見なくなった。またも知人が

「引っ越したみたいよ。ご近所の噂が気になったんじゃない?」

「でも遠くには行ってないわね。子どもは同じ学校に通っているもの。まぁ、転校にはお金も掛かるし。あの人シングルマザーって聞いてたから」

 知人は何処へどう長い首を突っ込むのか、ろくろっ首もかくやと思わせるネットワークで聴き込んだ情報を教えてくれた。似たようなろくろっ首が世間に何人居るのやら。

 その知人には一応

「教えてくれてありがとう」

と菓子折り一つ渡しておいた。処世術の一環として。 


 他にもさざ波が立ったことがあった。

 夫が自分に黙って転職を進めていた時。いきなり単身で他県へ行くと言われて喧嘩になった。話では、とりあえず転職先で一人暮らしをする。地盤が固まったら呼び寄せるとのことだった。

「何故事前に教えてくれなかったの?」

「転職なんてうまくいくか分からないから言えなかったんだ」

「考えてるってだけでも言って欲しかったわ。何よ、離婚でもしたいの?」

 直接怒鳴り合った分、浮気疑惑の時よりも衝突した感じがあった。

 結局夫は勤務先の会社に慰留されて転職を諦めた。

 だが、転職を考える時点で悩みがあったのだろう。その後夫は鬱状態となり休職した。

「会社の補助があるから。今までと同じ生活費は渡すよ」

 夫は部屋に閉じ籠った。会話もしなくなった。塗り壁を隔てたような暮らしは半年続いた。

 幸い夫は回復して会社に復帰した。異動した部署が向いていたのか、その後はバリバリと働いている。

(あの時も。もし子どもが居たら、転職なんて考えなかったのかしら)

 分別したゴミに視線が行く。

「過ぎたことね」

 猫に呟く。

「あの時ああしていたらなんて、人生に何回もあるものよ」

 壁の時計が目に入った。

「あらいけない」

 いつの間にか昼近くになっていた。 


「あら」

 背後でプシューとバスのドアが閉まる。

 午前中妙な感傷に浸ったせいか、降りるバス停を間違えてしまった。○○と○○前と、元々紛らわしい名称ではあるのだが。次回の時刻表の編成を機に名称が変更される予定だ。面会には間に合う。バス停ひとつ分を散歩と思おう。

「お天気がいいのが幸いね」

 日傘をぽんと開く。シンプルなデザインで単色の中に大きな水玉模様がひとつ。細身の自分が差して歩く姿を、夫は唐傘お化けのようだと笑った。

「あなたが買ってくれたんじゃないの」

「いやぁ、我ながら良いセンスだ」

 その掛け合いが日傘を差す時の定番だった。今は相方が居ない。

 病室に行くと夫は寝ていた。


「ん・・来たのか」

 体を起こす。

「今日は来る日よ。洗濯物はこれね」

「ああ」

 夫はぼーっとした後

「夢を見ていた」と言った。

 小夜子はお茶を淹れながら聞き流す。

「スーパーで万引きを見つけたことがあってな」

「そうなの」

「子連れのお母さんでな。万引きしたのも子どもの飴玉で。俺が見たのに向こうも気づいて、青ざめて。見なかったことにしてスルーしたんだ」

 子連れの言葉に引っかかった。

 夫が買い物を済ませて店を出るとその女性が居て、自分の買い物袋を示した。

「さっきは・・・あの。ちゃんと買いました」

 袋の中の飴玉を見せて走り去った。

 その後、休日に公園を散歩していると偶然親子に会った。親子は小さな弁当でつましいピクニックをしていた。

「そのお母さん、痩せてて顔色が悪くて幽霊みたいでな。身なりも生活に余裕が無い感じで。変な想像をしたんだよ。これが最後の晩餐で、この後親子で心中でもするんじゃないかって」

(ああ・・・)

 繋がった。

 これは、小夜子が浮気と思っていた話だ。

 夫が少しずつ話しかけると相手も警戒を解いていった。夫には可能だろうと小夜子は思った。全体的に丸っこい体型で童顔の夫は人当たりが良い。話してみると偶然にも女性と夫は同郷だった。

「離婚したご主人が養育費を払ってくれないと困っていてな。同級生で弁護士をやっているのがいたから紹介したよ。そいつとも同郷になるから話しやすいだろうと思って。後から聞いたら問題は解決したらしい。少し良いアパートに引っ越すことが出来たって感謝された」

「何故言わなかったのよ」

「親切の自慢話みたいだろ。久しぶりに思い出したなぁ・・枕が変わったせいか」

 妖怪枕返しでも出たのだろうか。

「ふふっ」

 小夜子は正直に言った。その話を知人から聞いたこと。浮気と誤解していたこと。

「ええ?そんな訳あるか。なんだ、それなら言っておけば良かった」

「隠すから変な話になるんですよ。あぁ可笑しい」

 小夜子は、もうひとつ正直に言った。

「私もね。あなたに聞かなかったのは、変なこと考えてたんですよ。私たちに子どもがいないから、代わりに他所のお子さんを可愛がって慰めているのかなって」

 夫は黙った。

「・・・やっぱり子ども、欲しかった?」

 本当はずっと訊きたかったことだ。 


 小夜子が妊娠しづらい体であることは結婚後に分かった。話し合って作らないことに決めたのだが、煩わしいので互いの両親には説明しなかった。

 夫は意外にも

「別に?」

と軽い口調で言った。

「どうしても欲しい人は頑張るんだろうけど、そうでもなかったし。・・なんだ、そっちこそ欲しかったのか」

 小夜子は首を振った。

「いいえ。でも何度か思ったわ。子どもが居たら違う人生だったのかしら、って。特に三十代の頃なんかはね。知り合いもどんどん子持ちになって。まぁ、ねぇ・・・今更よね」

 結婚して一年が過ぎた頃、夫の留守を狙って義母が訪ねて来た。箱いっぱいのベビー用品を押し付け、冷たい視線に口角だけを上げ、

「オマジナイみたいなものよぉ。ほほほ・・」

無理に笑った顔は鬼婆のようだった。その義母も既に亡い。

 病室が静かになった。

 黙っていても平気な程の夫婦になっていた。 


「そういえば、起きてていいの。寝てた方が楽じゃない」

「ああ。じゃ、ま、横になろうかな」

 大人しく横になる。

「でも思うよ。夫婦二人で共稼ぎで、精神的にもゆとりのある暮らしが出来たじゃないか」

「そうねぇ。でも、あなたは趣味の食べ歩きのせいで体を悪くしたんだから。これからは控えないと」

「はは・・スマンスマン。こないだはな、食事で出された味噌汁が薄くて」

「病院食ってそんなものよ」

「しみじみ、あーお前が作る野菜がゴロゴロ入った味噌汁が飲みたいと思って可笑しくてな。お前の味の舌になったんだな。若い頃は実家の味噌汁が一番だと思ってたからなぁ」

「まぁ」

「あと、豚バラ肉の肉じゃがな。実家は牛肉だったんだ。今は豚バラがいい」

「食べることばっかり」

「はっはっは。甘いものも食べたい。俺が小豆を洗うからおはぎを作ってくれよ」

「ダメ。暫くは帰っても病人食よ」

 小夜子の胸にゆっくりと暖かいものが広がった。

 ギクシャクした事があっても、なんとかかんとか歩んできた。

 賽の河原の石のように、上手くいく日とそうでない日を積み重ねて、崩れて、また積んで、この年まで一緒に。

「あなたもよく、こんな頑固な子無きババアと連れ添ったわね」

「うん?子泣き爺のもじりか。あはは、ジジイなら俺だな。どれ・・よく喋った。少し寝る」

 夫の言葉を潮に小夜子も席を立った。

 病室を去る時小さい声が聞こえた。

 お前と結婚して良かったと思うよ、と。

 振り返ると夫は背を向けて寝ていた。 


「ただいま」

「にゃあ」

 猫が出迎える。

 ひとりの夜が来る。 


 夫の洗濯物をベランダに夜干しして、街を眺める。百の灯りに百の暮らしがある。百の物語が眠っている。自分もその中のひとつだ。 


 深夜。小夜子は枕元の電灯に手を伸ばす。

 元々、寝室は真っ暗にして眠るのが好きだった。

 夫は常夜灯をつけて寝るタイプで、寝室が同じ間は我慢したが、寝室が別れると元の習慣に戻った。

 ところが、夫が入院すると暗闇が怖くなった。

 別々に寝ても、夫が同じ家に居るだけで安心していたのだ。

 この話を夫にすれば

「気の強いお前が」

と笑うだろうか。

 夫が居る暮らしが普通になっていた。

 夫が、自分の味を懐かしむようになったのと同じように。 


 いつかは来る。片方が片方を残して旅立つ日が。残された方には違う物語が流れていく。

 それまでの間、ゆるゆると衰えつつ、なんとなくの日々が続くこと。それを平穏と呼ぶのだと小夜子は思う。

「にゃあ」

 猫が布団の上で丸くなる。

 灯りの下で夜の本を開いた。