小説

『たなおろし』太田純平(『機械』)

 

 

 例えばレモンが三つあるとする。左手に持ったスキャナーでレモンのバーコードを読み取り、右手で端末の“3”のキーを叩き、エンターキーを押す。そしてその隣にリンゴが一つあったとする。その場合、レモンの“3”のキーを叩きつつも、すでに頭ではリンゴを数え終えていて、すぐにリンゴのバーコードを読み取り、端末の“1”のキーを叩き、エンターキーを押す。棚卸し業務とはこの繰り返しである。

 客のいない深夜のドラッグストア。その一階で小見山良平は棚卸しを行っていた。

静寂の中、数値を打ち込む棚卸し専用端末の音だけが店内に響いている。端末は大きな電卓を右腰の辺りにぶら下げていると考えればよい。日用品がぎっしり詰まった棚の、その上段から下段にかけて商品をカウントしていく。左から右へ、左から右へ。時には中腰で、時には膝をつき。まるで機械のように右手は絶えず動いている。

 小見山が一列の棚のカウントを終えてレジに向かった。レジのカウンターにはデータ送信用のパソコンが置かれていて、それと右腰の端末をケーブルで繋ぎデータを送る。

「1100か」

 やって来た松本辰次が人を見下すように言った。彼も小見山と同じ一階の担当で、彼の言った“1100”という数字は“生産性”のことである。データを送ると、掛けた時間に対してどれだけカウントしたかがランキング形式で表示される。それはテストの点数よろしく高ければ高いほど成績が良い。

 続いて松本が端末をケーブルに繋げる。

「……チッ」

 松本が不機嫌そうにケーブルを引っこ抜く。彼の生産性は“1040”だった。松本は年齢もアルバイト歴も小見山よりダブルスコアで上。当然、生産性の数字は彼の沽券に関わった。

「シャンプーに紙オムツにトイレットペーパー。いいよなぁお前のとこはカウントしやすくて」

 捨て台詞を吐いて松本が現場に戻って行く。この店に棚卸し代行として派遣されたメンバーは二階に一人、一階に二人。一階は日用品と医薬品で、二階の化粧品は統括責任者の新井美貴子が担当していた。小型のドラッグストアであればこの三人でも回せるだろうが、なにせ上下階に分かれた中型店舗である。今は冬場の繁忙期で、本来であれば五人か六人は必要なところを三人で回しているのである。それを週に六とか七とか。慢性的な寝不足と昼夜逆転の不規則な生活は人を不寛容にする。

「小見山クーン!」

 不意に二階から声がした。階下の二人がハッと天を仰ぐ。彼らの意識は優に天井を乗り越え、ローヒールのパンプスを履いた新井美貴子の肢体を瞬時に思い描いたのである。

 呼ばれた小見山は急ぎ足で二階へ向かった。その途中、松本の恨めし気な視線が横目に入った。

 新井美貴子。シフト上ではその名前だが、職場では“クイーン”と呼ばれている。なにもスラリとした美人だからというわけではない。あだ名の由来はバッジである。この仕事はバッジの星の数が階級になっていて、初心者は“1”から始まる。無遅刻無欠勤が続くと星の数が“2”になり、そこから上は様々な条件で星が追加される。送迎の運転が出来る者は星を追加、常に生産性が一定以上の者は星を追加、といった具合である。

 新井美貴子の星の数は“12”だった。ホシイチ、ホシニと数えていき、星十個、すなわちホシテンまでいくと、そこからナイト、クイーン、キングと階級が上がっていく。階級はキングが最高で、正社員でさえキングの者は全国に五人もいない。まだ年若い契約社員である新井美貴子のクイーンという称号は、小学生が大学へ飛び級で入るようなものである。無論あり得ない。何かある。社長の愛人か。美貌と相まってそんな噂が絶えない女。それがクイーンであった。

 クイーンの用件はすぐに終わった。時間にすればものの二分である。小見山が細い階段を下りて戻って来ると、あれほどトゲトゲしかった松本の気配が完全に消えていた。日頃から神経質なほど小見山の行動に目を光らせている彼にしては意想外の行動であったが、持ち場に戻るとようやくその意味を理解した。シールが剥がされていた。“ここまでカウント終了”という意味で棚に貼るチェックシールが全て剥がされていたのである。やったのはあの五歳児のような四十六歳独身しかいない。

「なんすかこれ」

 こそこそ隠れるように仕事をしていた松本のところへ行って追及すると、知らねぇよお前の貼り方が悪かったんだろとくる。十二連勤中の深夜一時ともなると、もはや他人と争う気力は残されていない。

 小見山はアホくさくなって一息つこうと休憩室に入った。休憩室は事務所を兼ねていて雑然としていた。店頭に並ばない化学薬品が入った段ボールさえそこらに転がっている。椅子に座ってお茶でも飲み、携帯電話をイジるのが休憩のセオリーだが、なにせあの男のせいで落ち着いてはいられない。松本はかつて小見山の飲み物に錆びた釘や謎の錠剤といった異物を混入させた前科がある。携帯電話もパスワードの入力を五回間違えたのか画面がロックされていたことも。だから休憩は、まずそういう嫌がらせをされていないか、そのチェックから始まる。

「で?」

 部屋にいきなり松本が入って来た。

「うぉビックリしたぁ」

「で、なに? なんだって?」

 松本が訊きたいことは分かっている。が、その核心には触れようとしない訊き方に腹が立って、小見山はもったいぶってやりたい気持ちになった。

「で、とは?」

「あ? 上だよ上。お前、呼び出されたろ」

「あ、あぁー!」

 下手な芝居など打つものではない。顔も火照るしこっちが馬鹿みたいだ。

「別に、たいしたことじゃないっすよ」

「なんだよ。なんでホシロクの俺を差し置いてホシヨンのお前が呼ばれんだよ。つーかお前最近多いぞ彼女と同じ現場になる確率。お前さては彼女のシフトをこっそり盗んで――」

 彼女が提出したシフトを人がいない時に盗んで自分もピッタリ同じシフトを提出してるのはお前だろ、と喉まで出掛かった言葉を吐き出す余裕も無く松本の口撃は延々と続いた。扇子でも持たせれば立派な落語家である。

 それでなくとも寝不足でいると人が話す言葉が記号のように聞こえる時がある。記号の羅列だから笑うとか怒るとか反応が出来ない。

 すると突然、休憩室の奥にある裏口から若い男が入って来た。松本が咄嗟に小見山の背後に隠れる。入って来た金髪の男は携帯電話で何やら通話中とみえた。

「おう、いま入った。ウィ~、お疲れ~」

 それは結果的にクイーンとの通話だった。

「あっ、自分、加藤っす。応援で来やした。おなしゃす」

 小見山と松本。直前までいがみ合っていた者同士が即座に手を結んだ瞬間である。言葉は要らなかった。“コイツはいけ好かない”

「あの人は上っすか? ちょっと挨拶いってきやす」

 加藤慎吾は言うが早いか休憩室から出て行った。一時停戦となった小見山と松本は、加藤を牽制するように現場に戻って彼の帰りを待った。

 加藤が二階に上がってから五分が経った。挨拶にしては長過ぎる。痺れを切らした松本が小見山の持ち場にやって来た。

「アイツ遅ぇな」

「はぁ」

「チョー遅ぇな。なにやってんだよ」

「さぁ。上を手伝ってんじゃないっすか?」

「はぁ? アイツ、ホシサンのゴミだぜ? だいたいフロアに女性が一人しかいない場合は男性と二人きりにしないという鉄の掟が――」

 下界が不毛なやり取りをしているうちに加藤が戻って来た。

「で、俺どこからやりゃあいいっすか?」

 加藤が松本に訊いた。松本は口の利き方も知らないガキと見下した表情で加藤を窺ったが、もしかしたらクイーンから自分に訊けと指示があったのかもしれないと勝手に思い込み、心ならずも仕事をふった。

「うぃーす」

 いざ加藤がカウントを始めると、彼は目にも留まらぬ速さで右手を動かした。他の現場から応援でやって来ただけあってすでに肩は温まっている。それを考慮しても明らかにスピード違反である。

「オイオイオイオイ!」

 すかさず松本が止めに入る。作業を中断された加藤は予想外のオフサイドをとられたサッカー選手のように松本に詰め寄った。

「なんすか? なんすか?」

「あのねぇ、棚卸しは、早くやりゃあイイってもんじゃないの。精度が大事なの。分かる?」

「いや絶対完璧っすよ」

「ハイハイ。若いやつはすぐそうやって完璧って言葉を使う。それじゃあ俺が検算するから、それで合ってたら完璧ってことにしようか」

 そう言って松本は加藤がカウントした棚をもう一度数え直した。そして松本がカウントし終えると、加藤と端末の履歴をチェックし合って、お互いの数値が同じであることを確認し合った。

「……」

 ぐうの音も出なかったのであろう。松本は何も言わずに去っていった。調子づいた加藤は、まるでロックバンドの演奏のように端末のキーを叩く音が激しくなり、データを送りに行く時など、わざと松本に自らの端末をぶつける始末。

 人生に退屈していると他人の対立は刺激になる。小見山は松本に攻撃的な加藤の態度に親しみを感じるようになった。

 一方の松本は、感情を吐き出さなければ爆発してしまうと自ら察したのであろう。彼は急に持ち場から離れると、加藤のところへ向かった。

「お前、さっきの、なに?」

「は?」

「さっきの。さっき上に行って、五分くらい帰って来なかったろ」

「あー、なんだそのことっすか。いまオレ全然違うこと考えてましたよ」

「で、なに? なにを言われた? “松本さんから指示をもらって”とか、そういうことか? 彼女、オレのこと、なにか言って――」

「あ、あ! もしかして、あの人のこと気になってる感じっすか!? なんだぁ、そういうことかぁ! そんなに好きなら今から上に行って告りゃあいいじゃないすっか。それでダメならキッパリ諦めて次のメスへ。じゃないと、いつまで経っても獲物を仕留められないっすよ、もうイイ歳したオスなんだから」

 ヒヒヒと笑って加藤はカウントを続けた。それでなくとも噴火寸前だった松本は、加藤にいきなり殴り掛かった。特売品の菓子が入っていたカゴに加藤が倒れ込む。

立ち上がった加藤が鋭利な刃物のような本性を現して松本に飛びかかっていく。

 安いアクション映画のように取っ組み合うのを、小見山は気が抜けたように鑑賞していた。互いに制服の青い作業着が乱れ、唇から血を流し、痛み分けのような状態で態勢を整え直し、睨み合う。

 その対峙に決着をつけるように加藤が言った。

「オレ、ヤったすけどね、あの人と」

 松本は凍った。瞬間冷凍だった。真実は分からない。その場の勢いで調子のいいことを言っただけなのかもしれない。それでも小見山さえ色を失った。

 加藤はポケットからタバコの箱を取り出しながら休憩室に下がって行った。それまで日和見だった小見山も彼の後を追う。

 小見山が休憩室に入ると、加藤がリュックサックから取り出したペットボトルの飲み物をぐいっと煽り、裏口から出て行くところだった。

 遅れて松本も休憩室に入って来る。松本と小見山は同盟を結んでいるとはいえ、何の作戦会議も行われなかった。

「トイレ」

 独白のように言って、松本も裏口から出て行く。トイレは店舗内の二階にもあるが、例の掟を意識しているのか彼は使わなかった。

 取り残された小見山は持ち場に戻ると、空疎な様子でカウントを始めた。二分かそこいらで松本が戻って来て、五分かそこいらで加藤が現場に戻って来た。だが不思議なことに、どのメンバーも端末のキーを押す音が弱々しい。

 するとその時だった。不意にガシャンと何かが棚に倒れる音がした。慌てて音のほうへ向かうと、加藤が自らの胸を鷲掴みにし、もがき苦しむように地面に倒れていた。

「オイ! どうした!? オイ!」

 松本が駆け寄り声を掛けた。返事は無かった。やにわに松本が顔を上げて小見山を見た。

「お前がやったのか?」

 そう松本の眼が語り掛けていた。小見山は首を振れなかった。違うと言えなかった。わなわなと唇を震わせるだけだった。何故か。それは倒れた加藤を目の当たりにした刹那、さっき二階で囁かれた一言が脳裏に浮かんだからである。

「加藤を殺して」

 クイーンに耳元で囁かれた。そうだ。いやそうだったのかもしれない。分からない。脳よ動け。あれは夢か。そうだ。だいたいどうやって殺す。薬品? ペットボトル? まさか――。

 悲鳴のような大声を聞いたのだろう。二階からコツコツと侵食するようにパンプスの音が近づいて来た。