小説

『不思議の国のあいちゃんたち』淡島あわい(『不思議の国のアリス』)

 

 

 飼育係のあいちゃんが、逃げた白兎を追って行方不明になってから三週間が過ぎた。

 その間、送られてきた写真は三枚。どれも笑顔のあいちゃんが写っている。

「脅されてるに決まってる!」と羊ヶ崎さんは言った。「あいちゃんはぜってー脅迫されて、ムリして笑ってるんだよ!」

 その言葉に、クラスメイトたちはうなずいた。どの顔も悲痛な面持ちで、まっすぐに黒板を見つめている。その視線の先には本日の議題が記してあった。

『どうしたらあいちゃんを不思議の国から救い出せるか?』

 先週も、先々週の学級会も同じテーマだった。これは長引きそうだと踏んだ児童たちは、このミッションにコードネームをつけた。

【CODE:Alice】

 ここでいうアリスとは、もちろんあいちゃんのことである。

「まさか、うちのクラスからも犠牲者が出るなんて……」七日馬さんが頭を抱える。

「いや、まだ遅くはない。きっとあいちゃんだって、すぐに学校に戻ってきてくれるさ」鳩平さんが一同を励ますように声を張る。

「それにしても、シロタが『ラビットホールの現象』の兎に化けるとは思わなかった。世話をしてやったのに、幻滅だな。あの恩知らずめ……」犬滑さんが悔しそうに机を叩く。

 蜂参先生は腕を組み、教え子たちを見まわした。子どもたちの苦悩する姿に胸が痛む一方で、どこか誇らしげな気持ちも起こる。

 先生はおもむろに教卓を離れ、石油ストーブの火を消した。アルミサッシの窓を開け放ち、新鮮な空気を招き入れる。

 12月の清涼な風が、教室の煮詰まった暖気を一掃する。

 児童たちは、ほっと息をついた。首をまわし、伸びをして、凝り固まった身体をほぐす。白熱した議論の最中、自分だけが力を抜くのはためらわれたのだろう。

 教師生活三十年の蜂参先生は、慈悲深く微笑む。

 結論を出すのは子どもたちだ。しかし、そこに至るまでの道のりを示してやるのは、教師として当然の責務。

「みんな、ここらで一度、考えをまとめようじゃないか。違う意見があったとしても、共通点を見つけることはできる。ここまでの話し合いで、クラスが一致して言えることは何だい?」

 諭されて、児童たちは顔を見合わせた。

 気休めの希望的観測や、シロタの裏切りに対する怨嗟の言葉はどうでもいい。本当に大事なことは何か? それを見極めなければならない。

 こうして、クラス一致の合言葉が黒板に書き加えられた。

『不思議の国のあいちゃんはかわいそう。一刻も早く、教室に連れ戻さないといけない』



「ラビットホール現象」は、日本全国で起きている。

 教育委員会が、今もっとも頭を悩ませている課題だ。

 白い兎を追って、学校から姿を消す児童・生徒。同じく白兎を追って兎穴に落ち、不思議の国を冒険するはめになったアリスの童話になぞらえて、「ラビットホール現象」と呼ばれている。

 もっとも、アリスはお姉さんに揺さぶられたことで目を覚まし、不思議の国が夢の世界であったことを知る。それと同様に、「ラビットホール現象」に遭った子どもたちも、現実の世界に連れ戻してやらねばならない。これが日本社会で広く共有されている常識であった。

 主に小・中・高校で見られる現象だが、まれに幼稚園や大学でも起こるらしい。そして、兎を追って校門から出て行った子どもが再び学校へ戻ってくる確率は、決して高くはない。

 国民皆教育を標榜する政府はこれを看過できない重要課題に位置づけた。各自治体の教育委員会に通達を出し、管轄内の学校で「ラビットホール現象」が発生しないよう、具体策の取りまとめを命じた。

 無論、当の教育委員会は事態を重く受け止め、対策を講じた。

 まず、学校での白兎の飼育を禁止した。が、現在飼育する白兎の一般家庭への譲渡は容易に進まず、かといって殺処分するわけにもいかない。

 第一、学校で飼っていないはずの白兎がどこからか現れ、ぴょんぴょん跳ねて生徒を誘惑し、まんまとさらって行く事案も報告されている。

 根本的な解決策として、兎穴を埋めてしまおうと、草の根を掻き分けての大規模なアクションも行われた。しかし、その穴がどこにあるのかは、白兎を追う子ども本人にしか分からないらしい。

 兎を追いかけるかどうかを決めるのは本人であり、結局は自発性の問題ではないか、という意見も出た。が、取り合われなかった。

 それが事実だとすれば、兎を追いたくなるような、穴に落ちたくなるような、生徒たちの精神環境を作った学校側の責任が問われるからである。それは、子どもが受け身で誘拐されること以上に由々しき事態であった。

 詰まるところ、有効な手立てはなく、大人たちは手をこまねいているのが現状だった。

 そして、クラスメイトが失踪した教室では、どこも3年1組と同じような学級会が行われているに違いなかった。



「ここは3年1組。なんでも一番の1組だ。1組プライドにかけて、あいちゃんを取り戻さなければいけない!」

 学級委員長である溜猿さんの号令に、教室中が奮い立った。

「1組プライド」というのは、クラスが一致団結して頑張る、ここぞという時のスローガンだ。大なわとびの大会や、合唱祭の練習の時に連呼される。

「あいちゃんに、早く帰ってきてって色紙を書くのはどうだろう?」

「いや、それよりも、みんなの楽しい動画を撮って、それを送った方がいいよ」

「誰かが不思議の国に潜入して、あいちゃんを救い出すっていうのはどう?」

「……誰が行くんだよ」

「いっそ不思議の国をぶっ壊す! ダイナマイトで爆破する!」

 ケンケンガクガクの討論を教卓から眺めて、蜂参先生は目を細めた。

 仲間をクラスに戻そうと、みんな、こんなにも懸命に考えている。こんなにも小さな頭を悩ませて、幼い知恵を出し合っている。

 かつてこの教室で開かれた学級会で、これほど話し合いが過熱したことはなかった。

 今、3年1組は大いに燃えている。友情の炎に焚きつけられ、教室と呼ばれる学びの箱は、友情パワーという名の熱気で満ちている。

 これぞ模範の学級会。これぞ理想のクラス。

 この素晴らしい一致団結の様を、全国の教員たちに見せてやりたい。今日が教育委員会の役員による授業の視察日でないことが悔やまれる。

 議論は今まさに佳境を迎え、誰もが自分の意見に自信を持っていた。

 クラスの絆が、これ以上ないほど強固に縒り合された、その瞬間。


「でもさー、みんなあいちゃんのこといじめてたよね」


 銃弾にも似た一言が、熱狂の膜を切り裂いた。

 友情の火力で燃え盛る教室が、一瞬にして凍りつく。

 児童たちは互いに視線を交わす。多分な怒りと、かすかな怯えを滲ませて。

 この気持ちの良い一体感を、何よりも神聖な友情の空間を、ぶち壊したのは一体誰だ?

 見えない声の犯人探しに、教室中が神経を尖らせる。

 無論、一番尖っているのは蜂参先生だった。

「誰だ? みんなが一致団結している時に、水を差すようなことを言ったのは? ……おい、誰だって訊いてるんだ!」

 大柄な先生の怒号に34個の小さな心臓は縮み上がる。「自分ではない」という証拠を次々と口にする。

「俺じゃないです。俺、あいちゃんと正直そこまで仲良くなかったから、いじめられてるかどうかなんて分かんないし」

「いや、むしろお前、いじめてた方だろ? あいちゃんが大なわとびで引っ掛かった時、もう一生学校に来んなって言ってたもんな」

「そういう羊ヶ崎さんだって、あいちゃんのこと、陰キャってバカにしてたくせに」

「合唱祭で2位だったのはあいちゃんが大きな声で歌わなかったせいだから、みんなで無視しようって、七日馬さん、交換ノートに書いてたよね」

「『ブス』って貼り紙、あいちゃんの背中に張ってた鳩平さんに言う資格なくない?」

「みんな黙れ! 俺の教室にいじめなんて存在しない、そんなのあるわけがないッ!」

「いや、一番ひどいの先生じゃん」

「あいちゃん、給食のチリコンカン食べられないのに、蜂参先生、食べ終わるまで横で見張ってたよね」

「昼休みが終わって掃除の時間になっても、ホコリもうもうの教室で食べさせて」

「そうだ! あいちゃんが泣きながら食べるところ見て、先生、みんなと一緒に笑ってたくせに!」

「あれは教育の一環だ! てめえらぜってー親にチクるんじゃねえぞ、チクったらこのクラスに居られないようにしてらやるかんなッ!」

「実際、あいちゃんはこの教室に居られなくなったんじゃないか……」

「黙れ黙れ黙れだま……ッ」

 みな、口々にわめき立て、非難しあい、罪をなすりつけあう。誰もが自己保身にひた走っていた。

 とりわけ声高に叫ぶのは、四角い顔を鬱血させ、血管の浮いた拳を振り回し、教壇からツバを飛ばす蜂参先生だ。

 収拾のつかない教室。怒りと恐怖が渦巻くクラス。

 果てなく続くののしり合いの連鎖を断ち切ったのは、千々に砕けたガラスの破片だった。

 唐突な破裂音に、教室中の音が圧殺される。

 横暴な本性を露わにした教師でさえ、あっけにとられて窓際を見ている。

 教室の最後列の席、そのすぐ横の窓が割れていた。

 破片の中に立ち尽くす充鹿さんの手には、振り下ろされた椅子があった。椅子の背をつかむ指先が、圧迫されて真っ白に変色している。

「……あの写真は本当だと思う」

 充鹿さんが学級会で声を上げたのはこれが初めてだった。そういえば、クラスメイトも、先生も、この子が教室に存在することすら忘れていた。丁度、あいちゃんにも感情があることを忘れていたように。

「あいちゃんはムリして笑っているんじゃない。あいちゃんはシロタに連れ去られたんじゃない。自分の意思で、学校を、この教室を出て行ったんだ」

 充鹿さんが唇の端を歪める。泣き出すのかと思いきや、違う。ガタガタと震えながらも、口角を吊り上げて笑ったのだ。

「あいちゃんは、ラビットホールに落ちて、不思議の国に逃げることができて、幸せだったと思う」



 翌日、充鹿さんも教室から姿を消した。

 次の週には、あいちゃんと充鹿さんが笑顔でピースサインをしている写真が届いた。ふたりは今、同じフリースクールに通っているらしい。

 その写真を貼った黒板を前にして、今週の学級会で発言する者は誰もいなかった。