駐在所の前で自転車から降りた宮坂武志巡査は、額から流れ出る汗を何度も拭いた。
少し遅れて駐在所に着いた寺本巡査部長は、暑さの怒りを自転車にぶつけた。
「サドル。びしょびしょだよ。普通じゃねえよ、この暑さ。悪かったなあ、折角来てもらったのに、これじゃ避暑にならんなあ」
「いえ、勤務ですから」
武志は、苦笑いで答えた。真夏の市街の派出所勤務よりは楽かと思ってこの駐在所に来たことを見透かされていた。
寺本が姪の結婚式へ奥さんと出席するため、1週間の臨時勤務で武志は下津駐在所に赴任したのだった。
初日の月曜に、寺本と一緒に村を巡回し、主だった人への挨拶を済ませてきた。
「川の氾濫が一番やばいけど、今週は天気が良いらしいから大丈夫だろう。あとは今日紹介した年寄りの家は必ず見回ってくれ」
「はい」
「おー、いい返事ですねえ」
元気な声に振り返ると、駐在所の入り口に少女が立っていた。目鼻立ちがはっきりした端正な顔立ちの少女だった。
少女は二人の前を堂々と歩いて宿直室の入り口にチョコンと座った。
「池田のばあちゃんが言ってた通り。かっこいいお兄さんだね」
寺本がフーとため息を吐く。
「もう聞き付けたのか。夏休みだからって遊んでばかりじゃいかんぞ」
「お兄ちゃんの名前は」
「お兄ちゃんでなくて宮坂巡査だ」
「宮坂なんていうの」
「あっ、武志です」
テンポのいい質問に武志は思わず答えてしまった。
「この子は、俺の兄の孫で亜希子って言うんだ」
「あのぽつんと一軒家の」
森の中に建っていた藁葺の大きな屋根の家である。寺本の兄の家らしいが、ここは寄らなくてもいいとの寺本の一言で、屋敷を見上げるだけで帰ってきたのだった。
「そう。兄の長男夫婦の娘。えーっと何年だっけ」
「小学2年生。何度言っても”寺じい”は覚えないんだから」
「”寺じい”?」
「ああ、兄貴のことは、じいじで、俺は”寺じい”だとよ。そもそも、俺はこの子の爺さんじゃないっていうの」
「そう、じいじは、偉くて、”寺じい”は不良」
「警察官に不良っていうな」
「そういえば、寺本巡査部長のお兄様は人間国宝と聞いたのですが」
「ああ、うちの家系は代々人間国宝だから、そのうち人間国宝になるだろ」
「あの、人間国宝って、何をされているのでしょうか」
「人形づくり。まあ、江戸時代は傀儡師とか言って、それからずっと能面や浄瑠璃の人形を作ってんだよ」
「はあ。す、すごいですね。ご挨拶に行かなくていいのでしょうか」
「いや、いいんだよ。いや、そうだ、宮坂が一人で行けばいい、うん。そうしなさい」
「”寺じい”は、じいじが怖いから行かないのよね」
「嫌なこと言うねえ。そうじゃなくて、どうもあの家は、なんて言うか薄気味悪くてな」
「薄気味悪いって」
「うーん。まあ、この話しはもういいや。亜希子、お兄さんは、仕事中なんだぞ。俺が送ってやるから帰えるぞ」
「嫌だ、もっとここにいる」
武志から離れようとしない亜希子を抱き上げて、寺本は駐在所を出て行った。
***
ゆったりとした1週間が過ぎ、駐在所勤務の最終日となった。
お盆が過ぎて、暑さが和らいできた穏やかな日曜日の昼下がり、この一週間を噛み締めるように駐在所から青空を眺めていると、急に暗雲が立ち込め、そして土砂降りの雨が降ってきた。
それでも30分も経つと、嘘のように晴れ、一斉にセミが鳴き始めた。
「武志兄ちゃん、いる?」
亜希子が駐在所に入ってきた。
そして、そのあとを追うように若い女性が入ってきた。
その女性はガタガタ震えていた。
武志は女性を椅子に座らせて、麦茶をデスクに置いたが、手もつけずに急に話し始めた。
「キャンプ場でマネキンに襲われたのです」
「は?」
「マネキンに襲われたんです」
武志は、まずは気を落ち着けるように言い、名前を聞いた。
女性は俯いたまま、何も答えない。
亜希子が「まり、桜田まり、だよね」と言うと、女性は静かにうなずいた。
「思いつく順番でいいので、何があったのか話してもらえませんか」
「私達、私と優斗と健二でキャンプをしようと思って…」
武志の横でニコニコしながら亜希子が聞いている
「亜希子ちゃんは家に帰ってね。ここからはお兄さんのお仕事だから」
「えー。家には”じいじ”しかいないからつまらない」
「けどね、お姉さんと二人でお話ししなくちゃいけないから」
「えー、ねえ、お姉さんも私がいた方が話しやすいよね」
亜希子が桜田の顔を覗き込むように言うと「ええ、一緒にいてもらった方が」と亜希子の手を握り締めるのだった。
「しょうがないな、じゃあ、向こうの部屋で待ってて」
亜希子は、渋々宿直室に入り、引き戸をゴロゴロと閉めた。
桜田がゆっくりと話し始めた。
「キャンプ場に行く途中で、マネキンが捨てられていたんです」
「マネキン?あの不法投棄場?家具とか電化製品が捨ててあった場所ですか」
「はい」
麓から駐在所へ来る途中に山の景色には似合わないゴミ捨て場があった。寺本の話だと誰かが電化製品を捨てるようになり、あちこちから人がやってきて不法投棄場となってしまったらしい。村でも監視カメラを設置したのだが、死角を見つけては電化製品や家具が捨てられ続けているのだと言う。
「マネキンですか。潰れた衣料店の人とかが捨てたのかなあ」
「優斗と健二が、面白がってマネキンを引き摺り下ろして、いたずらをしたんです」
最初は振り回していたが、そのうち、足や手や背中にタトーを書くと言って、落ちていた釘で四角や三角を上下に重ねた絵を何個も描いて、最後には夜に肝試しをしようと首だけ外してキャンプ場に三つ持ってきたのだと言う。
「ちょうどテントを張り終わった時です。急に土砂降りの雨が降ってきて、私達はテントの中で雨が止むのを待っていたんです」
「先ほどの雨、ゲリラ豪雨ですね」
「はい、テントの中で雨が止むのを待っていた時、外から何かが聞こえてきたんです。雨の音が激しいので、最初は何の音か分からなかったのですが、だんだんと音が、歌がはっきり聞こえてきたんです」
「歌?」
「はい、かごめかごめです」
「かごめかごめ?」
「かーごめ、かーごめ、かごのなかの鳥は、いついつでやーる。夜明けの晩に、鶴と亀がすべった、後ろの正面だあれ」
宿直室の中の亜希子の声であった。桜田は、怯えるように宿直室の戸を見ていた。
「亜希子ちゃん、仕事中だから静かにしてくれないかなあ」
「はあーい」と亜希子の返事が聞こえる。武志が「すみません」と謝ると桜田が話し始めた。
「テントの隙間からみんなで覗いてみたんです。最初は何かが近づいて来るとしか分からなかったんです。けど、歌と一緒にどんどん近づいてきました。優斗がマネキンだと叫びました。私も健二もすぐに分かりました。マネキンが3人、踊りながら近づいて来たんです。そして、私達は囲まれました。テントの周りを歌いながら回っているんです。その時、優斗が”逃げるぞ”と言って飛び出しました。その後を追って健二も私もテントから走り出ました。そしたら二人にマネキンが飛びかかったんです。二人の叫び声が聞こえました。けど、怖くて怖くて、振り返ることができなくて、河原の上まで登って道を走っていたら、この子…」
「亜希子ちゃん」
「はい、亜希子ちゃんに会ったら、駐在所が近くにあるよって、それで連れて来てもらったんです」
武志は何と答えていいか分からなかった。きっとこの人は、心の病にかかっているのに違いない、そう思った時、駐在所の電話が鳴った。武志が勤務している市街の警察署からであった。
キャンプ場で二人の男性が倒れていると住民からの通報があったので、現場に来ている。駐在所が留守になるのは悪いが、武志も来るようにと言うことであった。
武志は宿直室で休んでいるように桜田に言い、亜希子にも少しだけ一緒にいてくれと頼んで駐在所を飛び出した。
***
武志が下津河原についた頃には、立ち入り禁止の縄の周りは村の住民で溢れていた。人ごみをかき分けて河原に行くと、顔見知りの警官数人が現場検証を行なっていた。
「宮坂」
先輩警官の杉山が、「こっちへ来い」と呼んでいる。
既に二人の男性が救急車で運ばれたと言う。
「このあたりで倒れていた。身体中擦り傷だらけだったよ」
「杉山先輩、これは」
「ああ、この首なしマネキンだろ。何でこんなのが二つ転がっているのか、今話していたところだ」
「先輩、実は、駐在所に、この事件に関連すると思われる女性が救助を求めて来ています」
「そうか。じゃあ、その人を県警まで連れて行ってくれないか。県警で事情を聞こう」
武志はパトカーを借りて駐在所に戻った。
武志が駐在所に戻ると、そこには、早めに休暇から帰ってきた寺本がいた。
武志は、急いで宿直室に行ったが、そこにはテレビを見ている亜希子しかいなかった。
「亜希子ちゃん、桜田さんは」
「お姉ちゃんは、どっかに出て行っちゃった」
「どっかって」
武志は、慌てて女性の探索を依頼する電話を県警にかけるのだった。
「寺本巡査部長、自分は、一旦署に行きます。休暇のところ済みませんが、駐在所をお願いできますか」
「おお、いいから、いいから、ここは俺が見ておくから、早く行って来い」
***
数時間後に、武志が駐在所に戻って来ると、寺本が制服に着替えて日誌を読んでいた。
「おお、お帰り。亜希子は宿直室で昼寝してるよ。さっきまでお兄ちゃんが帰るまで待ってると起きてたんだが。で、どうだった」
「男性二人には大きな怪我はなかったのですが、数日は検査入院するそうです」
「それはよかった。で、何か事件についての進展はあったか?」
「はい、キャンプ場に設置されていたカメラで映像を確認しました」
「あー、ちょうど夏前に俺が設置したやつだ。もう役にたったのか、しかし、流石県警はやることが早いなあ。それで何か写ってたか」
「雨音と、かごめの歌が聞こえた途端に、何者かがカメラに布の様なものを被せたらしく、画像は真っ暗になり、それから全く見えなくなって、数分間、かごめの歌と男性の叫び声だけが聞こえて終わりでした」
「それじゃ、何も分からんな」
「はい。それより桜田さんがいないのです」
「ああ、お前の後から出て行ったという女性か。気が動転してたんだろ。県警が探してるから、すぐに見つかると思うがな」
「いや、そうじゃなくて、被害者の男性に、ざっと事情を聞いたらしいのですが、キャンプは二人で行ったと言うのです。それからマネキンについて聞いたら不法投棄場で拾ってきたというので、そちらのカメラも確認したところ、やはり、男性二人しか写っていなかったということで…」
「はあ?つまり、その女性はそもそもいなかった、ということか」
「何が何だか分からなくて。明日もう少し二人が落ち着いたら聴取を再開するとのことです。それから亜希子ちゃんの話も聞きたいと」
「それはいいが…」
宿直室からゴトンと音がした。
「亜希子、聞いてたよな」
宿直室の戸が開いて、亜希子が出てきた。
そして「エヘ」と小さく舌を出した。
「亜希子ちゃん、悪いけど、明日警察署で桜田さんについて話して欲しいんだ」
「いいよ」
宿直室から出てきた亜希子は、寺本と話している武志の背後にそっと周り込んだ。
「後ろの正面だあれだ」
ゾクっとして振り返ると亜希子が楽しそうに笑っている。
可愛いすぎる笑顔に、武志は心の奥が凍りつくような気がした。
「亜希子いい加減にしろ。もう帰るぞ。宮坂、俺はこいつを屋敷まで送ってから、また来るわ」
そう言うと寺本は、亜希子の手を引いて駐在所を出て行った。
外に出ると寺本は周りに誰もいないことを確かめて、小さな声で亜希子に聞いた。
「お前は、どこからその女性を連れて来たんだ」
「だから、道で会って」
寺本の鼻の穴が大きくなった。寺本が本気で怒る時の前触れであった。
肩をすぼめて亜希子が言う。
「裏にいるよ」
寺本が亜希子を引きずるように駐在所の裏に行くと、そこには首のないマネキンが一体転がっていた。
「あちゃー。亜希子、もういい加減にしてくれないか」
亜希子がムッとした顔で答えた。
「けど、川を汚す人は嫌いだし、人形を壊す人は、もっと嫌いだし」
寺本の鼻の穴が大きくなる。
「せっかくの力を無駄に使うんじゃない。じい様に言いつけるぞ」
「やだやだ、もう使わないから、じいじに言わないで」
そして「エヘ」と亜希子は舌を出して笑うのだった。