小説

『父をたずねて三十里』森水陽一郎(『クオーレ』)

 

 

 インターネットにふれていれば、一度は検索欄に自分の名前を打ち込んだことがあるだろう。プロサーファー、宝石鑑定士、創作フレンチのシェフ、畳職人。私の場合はざっとこんなところだ。悪くない。彩り豊富で奥行きもある。ただ一点、どうしても見過ごせないことがある。名前を打ち込んださい、検索の手助けとして「猫泥棒」という関連ワードがそばに並ぶのだ。もちろん気持ちのいいものではないし、私は猫を盗んでもいない。トートバッグに塩抜き煮干しを忍ばせるほどの猫派である。

 深追いは禁物、知らぬが仏。それが自分の名前を打ち込んだときの最適解である。ただ、デマのたぐいや、あらぬ疑いを自分にかけられている可能性も捨てきれない。念のため名前のあとに「逮捕」のワードを足して、ウェブサイトをひらき、千葉タイムズの記事を読んでいく。それほど長いものではない。ワゴン車にいくつかの檻を積んだ六十八歳の男が、関東地方を転々としながら野良猫を捕獲し、自宅で飼育していたという。捕獲場所はおもに公園の茂みで、神社や墓地に檻を仕掛けることもあったらしい。

 虐待の事実はなく、まちがって家猫をつかまえて、首輪のGPSから足がついたために逮捕され、その後、きわめて軽微な処分で事件は落ち着いている。わざわざ実名を挙げて、記事として取り上げる必要はあるだろうか。多頭飼育による猫たちの惨状を訴えてもいない。無慈悲に保健所に持ち込んでいる事実もない。おそらく業者への売り渡しも難しいだろう。病歴の不明な野良猫を、研究機関の動物実験で使えるはずもなく、三味線の皮は傷の少ない別のルートでまかなわれるはずだから。

 もし起訴されていれば、裁判記録に詳細が出ているだろう。千葉タイムズに問い合わせれば、さらに手間が省けるかもしれない。でも本当に知りたいのはそこじゃない。保護施設を名乗るわけでも、NPO法人を立ち上げるわけでもなく、ただひたすら野良猫をつかまえて自宅に持ち帰る変わり者。そこにどうしても、すでに三十年以上も音信不通の、父親の姿が重なる。

 息子である私に、自分と同じ名前をつけようとして役所と揉めに揉め、苦肉の策として、父「日和(ヒヨリ)」息子「曰和(イオリ)」で押し切った、常識やルールの瀬戸際を歩きたがる父親。その結果私は、いまだに「曰」ではなく、「日」と誤記されることが常で、初読のさいは父の名と同じ「ヒヨリ」と呼ばれることが多い。実際、インターネットの検索欄に名前を打ち込んださいも、いらぬお節介で「曰和」が「日和」に自動変換され、それが思わぬ結果として反映された。

 父と同名で、同年齢の「西脇日和」による猫泥棒のニュース記事には、おおまかな自宅の住所まで記載されている。千葉県香取市山田町。九十九里から60キロ、車で一時間足らずの距離だ。もしその犯人が、私たち家族を捨てた父親であるなら、伝えたいことがある。いまだからこそ会わなければいけない理由がある。インターネットを介した偶然のいたずらに導かれ、私は旅に出た。


 カーナビにしたがって海岸線を北上し、森にはさまれた丘陵地を縫うように走り抜けると、刈り入れを終えた冬枯れの田んぼがあたり一面に広がった。民家はまばらで、その多くが樹液に群がる虫のように数軒ずつ肩を寄せ合っている。人捜しにはむしろ田舎のほうが好都合だ。警察沙汰になるようなカラフルな珍事が起きたならなおのこと。

 案の定二軒目の家で、「ああ、猫の家ね、この神社の北」と、スマホの地図アプリを指差してのおばさんの案内を聞くことができ、車で三分、屋敷林に囲まれたその一軒家を訪れてみた。しかし待っていたのは、雨戸の閉め切られた、玄関の引き戸に不動産屋の看板がかけられた空き家で、遠巻きに様子をうかがったが、まるで人の気配はなかった。

 さっそく不動産屋に電話をかけ、管理番号を伝えて現状を確かめてみる。

「ええ、そこなら空いてますよ、ご案内しましょうか?」

 猫なで声の男性が、物腰柔らかに提案し、私は現地にいることを伝えた。

「実は人捜しをしてまして、ここまで来たんですが」

「探偵さんか何かで?」

「いえ、前の借主の親族です」

「失礼ですが、お名前は?」

 私は名字だけを伝えた。ニシワキ・ヒヨリとイオリ、ただでさえあやしい問い合わせだ。下手な冗談に聞こえてしまう。

「たしかに前の借主は、西脇さんです。お父さまで?」

「ええ」

「でもおかしいな。天涯孤独と話してましたよ。だから保証人の欄も、専門の仲介業者に入ってもらったんです」

「あの、何かご迷惑は?」

「といいますと?」

「半年前のニュース記事なんですが、父が猫を盗んで逮捕されていたことをインターネットで知りまして」

「ああ、あれね。私はお父さまの味方ですよ、うちでも飼ってるから余計に」

 どういう意味だろう。沈黙をもって続きをうながす。

「たしかに退去時に、敷金をこえる修繕費がかかりました。畳も傷だらけでね。でも不足分は私が肩代わりしたんです。体調のこともあったから」

「体調?」

「ああ、ごめんなさい。話したらいけないんだった」

「教えてください。実は三十年以上、音信不通なんです」

「じゃあなおのこと、謝らないといけません。変な期待をさせて」

「どういう意味です」

「退去されたのは二ヶ月前です。移り先は、九十九里にあるホスピスなので、もしかしたらもう」


 教えてもらったホスピスに向けて、私は九十九里にとんぼ返りをした。往復120キロで、三十里と少し。わざわざ九十九里を選んで越してきたのだろうか。そこしか空きがなかったのだろうか。それとも鮭がふるさとの川に遡上でも果たすように、生まれ故郷の海辺の町に戻ってきたのだろうか。

 自宅からほんの数キロ、雑木林に囲まれた別荘地の一画に、その古びたホスピスは待っていた。数年前までは、たしか老人ホームだったはずだが、知らぬ間にのれん替えされたらしい。建物自体はくたびれているが、生垣の椿はよく手入れされ、部屋の窓から深紅の花じゅうたんが見渡せるはずだ。

 さっそく受付に向かい、ニシワキ・ヒヨリという男性が入院しているかたずねた。いた。まだ生きていた。しかし面会はすべて断ってくれとお願いされているらしい。私はフルネームを伝え、息子である可能性を説明した。体に無理のない範囲で、短い時間でいいので話ができないか聞いてくれないかと。

 受付の女性は、困惑しながらも廊下の奥に向かい、引き戸の並びの一つに姿を消し、ほどなく了承のうなずきとともに、どうぞこちらへと、私を招き寄せる。ひとまず門前払いはクリアしたらしい。お礼を言って引き戸を抜けると、そこはこぢんまりとした、日当たりのいい一人部屋で、なかば起こされた電動ベッドに、父らしき老人がパジャマ姿で待っていた。

 短く刈り込んだ白髪頭に、落ちくぼんだ瞳、たくわえた無精ひげはこけた頰を隠しきれず、遠くない迎えの日を物語っている。顔色こそすぐれないが、点滴の管や酸素吸入器はなく、少なくとも命の危機を知らせる緊迫もなく、おだやかな午後の時間がそこにはたゆたっている。

「香取にあった猫の家、さっき見てきました」

 背後でそっと引き戸が閉じられるのを待ってから、私は話しかけた。

「そこの椅子、使いなさい」

 私が息子であることを確信した物言いで、父はそばの丸椅子に目をやる。私はうなずくが、丸椅子には手を伸ばさない。ベッドにも近づきすぎない。

「あの人は、元気か?」

「なぜ聞くんです、三十年も逃げていたのに」

「元気なら、それでいい」

「母さんなら死にました、二年前に」

「死んだ」

「ええ、交通事故で。信号無視のトラックに轢かれて」

「そうか」休符でもはさむように、小さく息をつく。「お礼、言いそびれたな」

「お礼?」

「ああ、書き置きを残した。捜さないでくれと」

 行方不明者届のことを言っているのだろう。もし出していれば、免許証の更新や職務質問のさいに、父の生存や所在地が明らかになり、連絡があったはずだ。でも母は実行しなかった。その理由も明かさなかった。

「イオリ、どうして俺が逃げたのか、考えたことあるか?」

「五歳で何を考えるんです。どう自分を納得させるんです。あるのは失望と怒りでした」

「あの人はどう言ってた、俺のこと」

「それを知って満足ですか? 借金、女遊び、駆け落ち、いまさらどうでもいいです」

「どれも違う」

 私は自分でも嫌な笑みを思わず浮かべてしまう。

「なるほど、母さんになすりつけるつもりか」

 重い沈黙があり、エアコンの稼働音で室内が満たされる。父は目線を落とし、自身を覆うシーツに向けて言葉をつむぐ。

「冒涜のつもりはない。自己弁護のためでもない。ただ、俺もあの人も、立派な人間ではなかった」

「どういう意味です」

「イオリ、俺はお前の父親じゃない。戸籍上だけで、血のつながりはない」

 言葉が出てこない。父の目にいつわりの曇りはない。

「生まれたときは、みな同じ赤ん坊だ。でも二歳、三歳と成長するにつれて、俺にはそれを確信させるものがあった。いや、お前の生まれる前から、心のどこかで疑っていた。それを断ち切るために、迷いを受け入れるために、せめて名前だけでもつながりを強めたかった」

「くだらない。そんな理由で、自分と同じ名前を」

「きっとあの人も、三十年、答えを先送りした。俺がいないことで、真実は守られた」

 枕元のタオルを手に取り、口をおさえる。こもった咳が二度三度、父の頭を揺らす。姿を消し、沈黙をつらぬくことでしか、母への復讐を果たせなかった枯れ木の父。

「三十年、何をしてたんです」

「さあ、何してたのか。毎日毎日、人の最期を見送ってきた。葬儀社の使い走りとして。だからわかる。近いうちに、ここを離れるって」

「離れる」

「旅立ちをひかえた人間は、死の匂いがする。不思議な力でもオカルトでもない。だからこそ、猫の手助けができた」

 どういう意味だろう。窃盗ではなく、猫の手助け。

「彼らの弱点は腎臓だ。だめになると鼻につんとくるアンモニア臭が、体からじわりとあふれる。手厚い治療が受けられて、家族に看取られる家猫とは違って、野良猫の最後はひどいもんだ。雨に打たれたぼろぞうきん、最後はカラスについばまれて、燃えるゴミとして処分される。俺は休みになるたびに、あちこちまわって、そんな猫たちをさがした。捕獲用の檻も用意したが、いらないことが多かった。抵抗する力はすでになかった。されるがままに、そっと抱き上げて、キャリーケースに寝かせて自宅に連れ帰った。からまった毛を櫛でといて、暖かな毛布にくるんで、彼らの出立を静かに見送った」

 作り話には聞こえなかった。不動産屋が不足分を負担したとおり、きっと悪い人間ではないのだろう。誤解が解けたからこそ軽微な処分ですんだのだろう。でもだからこそ、この三十年のあいだに、一度でいいから母と向き合ってほしかった。たとえ立派でなくてもいい。相手を責め立ててもいい。血のつながりを持たない新しい家族のかたちを、私を含めた三人で模索してみたかった。

「無理をさせて、すみません」と私はタオルに残されたかすかな血痕に気づいて言った。残された時間は、たしかに長くない。秘めてきた思いを伝えなければいけない。

「今日会いにきたのは、犯罪者である父親と、面と向かって決別するためです。今後一切、私と、私の家族に関わりを持たないよう釘を刺すためです。でも何もかも違った。あなたは父親でもなければ、思い描いた犯罪者でもなかった」

「そうか、結婚したのか」左手の指輪に気づいて、かすかに目を細める。「子供は?」

「来月には、父親になる予定です」

「性別は?」

「一応決まってますが、最後は本人の心に任せます」

 一瞬遠くを見て、「ああ、そうだな」と小さくうなずく。

 私はふと思いつき、父親でなくなった目の前の老人に言う。

「ニシワキ・ヒヨリ。それは私にとってこの三十年、憎しみや寂しさをあらわす、忌むべき名前でした。でもあなたと話して、その意味が少しずつ変わりつつあります。もしかしたら慈愛や温かさをあらわすものとして、生まれてくる赤ん坊に、引き継がせることができるんじゃないかと」

 老人はあいまいにうなずくだけで、何も答えない。なじみの匂いをふと嗅ぎつけたように、窓の外に目を送る。寒空の下、深紅の椿が散りどきを忘れたように咲きほころんでいる。

 きっと間に合う。名は手渡しされる。血は温かく、まだ赤い。